海という名の場所
ピクニックと称して孤児院の子どもたちを連れて、がやがやと歩く。その先には蒸都の外縁にある、いつもの“海”がある。
舗装の剥げた通路を抜けると、視界が急に開けた。
白く濁った水面が広がり、一定の周期で人工の波が立ち、また崩れる。金属音混じりの水音。それが蒸都の“海”だった。
「ほらー!走ると危ないって言ってるでしょ!」
楼蘭の声を背に、子どもたちが歓声を上げて駆け出す。ミロクは、少し遅れて足を止めた。
(…海?)
そう呼ばれているところは知っている。
けれど、燈夜たちが迷いなくそう言う場所…目の前の波立つ水は、記憶の底にあるものと、どこか違った。
広がりは似ている。光の反射も、揺れも、確かに“それらしい”ものではある。でも、匂いが違う。音も揃いすぎている。
「どう?」
隣に立った流輝が気負いなく聞く。
「……不思議。」
ミロクは、少し考えてから答えた。
「似てるけど…違う。」
「違う?何と?」
「海は…青くて、波が気まぐれで、潮の匂いがして…」
自らの記憶を探るようにゆっくり瞬きを繰り返すミロク。彼の中には何か別の“海”があるらしい。言葉にして初めて、自分の中に“比べている”感覚があることに気付く。
「しお?塩?滅菌剤じゃなくて?んー…蒸都の海なんてどこもこんなだよね?燈夜?」
「全部は行ってないけど、まぁこんなだろうな。」
蒸都にはいくつか“海”がある。どれも似たような造りの筈だ。
「私たちにとっては、これが海なんだ。小さい頃からあの子たちみたいに遊んでさ。もうビッチャビチャでよくお姉ちゃんに怒られたっけ。」
その言葉に、ミロクは水面へ視線を戻した。
子どもたちの笑い声。
波打ち際で転ぶ子。
楼蘭に怒られて、でもすぐ笑う顔。
ミロクと同じように海を見つめたまま、燈夜がぽつりと話し始める。
「ここさ、あと数年で…干上がるって言われてるんだ。」
ミロクが顔を上げる。
「実際、俺らが子供の頃より水位が低くなって、波もよく止まるようになった。しっかり直すにも仕組みが古くて、直すの面倒なんだと。」
苦笑いが混じる。流輝もつまらなさそうに足をぶらつかせる。
「役に立たない場所だから、後回しなんだってさ。こうやってサイコーな遊び場として役に立ってるのにさ!」
風に乗って、波の制御音が微かに途切れた。一瞬だけ、水面が静まり、思い出したように波が始まる。
「俺は…」
燈夜は、少し言葉を探してから続けた。
「ここを残したい。役に立つかどうかじゃなくて…思い出があるから。」
__燈夜、ここでオレ達、初めて話したんだよな。
子どもの頃、何度も来た場所。
__大人が直さないんなら、オレ達でやろ!ここを、守るんだ!
颯とそんな夢を語った場所。今の燈夜の出発点でもある、大切な場所。
「……失くなるの、嫌なんだ」
ミロクは、その横顔を見ていた。
理由を語る声。嘆きも、期待もない。ただそう思っているという事実だけを淡々と形にしている。
「燈夜。」
名前を呼ばれ、目が合う。
「僕も、そう思う。僕もこの場所…好きだから。」
少し迷って、でもはっきり言った。
一瞬、燈夜が目を見開いた。
「……あ。」
ミロクは、自分でも気付かないうちに――ほんのわずか、口元を緩めていた。
笑おうとしたわけじゃない。彼の中では、ただ胸の奥のつかえが少し取れただけ。そんな感覚だった。
「……?」
燈夜、そして彼と同じように目を丸くして息を呑んだ流輝に首を傾げるミロク。
「ねぇ…!今、笑ったよね?」
「?わからない。」
自覚はないものの、否定もしない。
「そうか。」
燈夜は、少し遅れて息を吐くように笑った。
波は一定のリズムで動いている。優しいようでいて無機質な波音に耳を澄ます。
ここはミロクの言う海とは違う。偽物の海かもしれない。だが、誰かの夢と思い出と、声が重なっている場所。
「じゃあ、やっぱり失くさないようにしないとな。」
声に出して自分の意志を再確認する。たまにする確認作業。今日は二人も傍で聞いている人間がいる。いつもより深く、自分の気持ちを自身に刻んだように思えた。
確かめるように拳を握りしめた燈夜の隣、ミロクは水面から目を離さずに立っていた。
“楽しい”と呼ぶには、まだ遠い。
けれど、“好きだ”と感じられる場所が、またひとつ増えた。
それだけで、十分だった。




