名前のある時間
孤児院の食事時は朝だろうが夜だろうが、いつも通り騒がしい。
鍋の蓋が鳴り、子どもたちの足音が廊下を走り抜け、どこかで笑い声が弾ける。
「ほらほら、ごはん冷めるよー!」
人一倍明るい楼蘭の声が飛ぶ。
ミロクは、少し離れたところでその光景を眺めていた。
調整槽室にあった“澄み切った静けさ”とは違う。
温度も、明るさも、匂いも、人の気配も、全部が混ざり合っている。
前までは排気管の中を空気が巡る音とたまに来る統治官の無機質な声くらいだった。
今は、たくさんの人の声、扉の開閉する音、足音、食器のぶつかる音。様々な色の音が溢れている。
(音が多い。)
そう思ったはずなのに、耳を塞ぎたいとは感じなかった。代わりに、胸の奥が微妙に落ち着かない。
「ミロク。そこ突っ立ってないで座りな?」
声をかけられて、はっとする。呼ばれた名前。“F‐369”という番号ではない、自分を分類する言葉。
「……。」
言われた通りに腰を下ろす。調整槽室のものではない、手作りのクッションが敷いてある椅子だ。
「せんせー!落ちたー!」
隣では、小さな子どもがスプーンを落として騒いでいる。
「またやったー?落ちたんじゃなくて、落としたんだよ。もう、学ばないねぇ」
楼蘭が苦笑しながら拾う。ミロクはその手元を、じっと見ていた。
(怒らない。)
それが、少し不思議だった。規定を外れた行動に、即座に制止や修正が入らない。
代わりに、“次は気をつけな。”それだけだ。
ミロクの食事の時間は、相変わらず長かった。自分のペースで、少しずつ口に運んでいる。
食べ終わった子供達はいそいそと寝る前のもうひと遊びに席を立つ。誰もミロクを急かさない。誰も“遅い”と言わない。
「食べないの?」
小さな声が横からした。隣の子が、不思議そうに覗き込んでくる。
「?…食べてる。」
そう答えたつもりだった。声は、思ったよりちゃんと出ていた。
「そっか!」
それだけで、その子は満足したらしく、また自分の皿に戻る。
追及されない。評価も、記録も、測定もない。
食事の後片付けが終わると、子どもたちは思い思いに散っていく。
ミロクは、行き場がわからず、しばらくその場に残る。
「ミロク。」
また呼ばれた。楼蘭だ。
「暇?」
「…はい。」
「じゃあさ、手伝ってくれる?洗濯物たたむの。」
理由も説明もない。“出来るか”も聞かれない。
(…命令じゃない。)
ミロクは黙って立ち上がり、差し出された布の山を受け取った。
見様見真似で布を畳む手つきは、ぎこちない。けれど、楼蘭は何も言わない。
「上手いじゃないか、ミロク。」
名前を呼ばれるたび、胸の奥がわずかに揺れる。
調律環があった手首を、無意識に見た。そこには、薄く残る火傷の痕だけ。
(…あっけなかった)
あれほど苦しめられたものが、もう無い。
代わりにあるのは、人の声と、雑音と、温度。
そして、同じ空間に、誰かがいるという感覚。
理由はわからない。けれど、そこにいることが怖くなかった。
畳んだ布を静かに重ねる。それが、ここでの“役割”だと、自然に理解していた。
外では、蒸都がゆっくりと歪み始めている。
けれど、この場所には、まだ灯りがあった。
名前を呼ばれる。ただそれだけの、灯りだ。




