何もない朝
夜。
孤児院の消灯は早い。ミロクは与えられた部屋のベッドに横になり、天井を見ていた。
暗い。でも、調整槽室のあの暗さとは違う。壁の向こうからはまだ眠れない誰かの話し声が聞こえる。
遠くで、床が軋む音。誰かが廊下を歩いている。
あのコツコツと響く足音ではない、ゆったりとした歩調に柔らかい音。
目を閉じる。
身体がじんわり温かくなって思考がぼやけてきた。
眠気に連れられて現実と夢の間をゆらゆらと行き来する。
腕が重い。
何かが、嵌まっている。
(……?)
腕に目をやり息が詰まる。あの環だった。
あの人達が『調律環』と呼ぶ、“自分”を削ってくる道具。
ーー動くな
ーー測定を続行する
ーー数値が乱れている
誰の声かは分からない。
__恐い
言葉にならない。代わりに、胸の奥がぎゅっと縮む。
ーーそれを人扱いするな!!
息が苦しい。
視界が揺れる。
金属が鳴る音。
ーーお前に意思は不要だ
違う、僕は__
「……っ」
ミロクは、浅く息を吸って目を開けた。
暗い部屋。天井。木の匂い。
そっと腕を見る。
何も嵌まっていない筈の手首が焼けるように熱い気がして、無意識に掴んだ。
(……夢)
理解するまで、少し時間がかかった。バクバクと胸がうるさくて呼吸が浅い。
「どうしたんだい?」
低くて、落ち着いた声。視線を動かすと、ベッドの横に椅子が置かれていてそこに楼蘭が座っていた。腕を組んでもいない。記録紙を持って立ってもいない。ただ、そこに居た。喉がまだ夢の中みたいに固い。楼蘭はそれを気にした様子もなく、ゆっくりと言った。
「悪い夢でも見たのかい?」
追及ではないただの問いかけ。ミロクは一瞬だけ視線を落とし、小さく、ほんの少しだけ頷いた。
「そっか」
それだけだった。
怖かったか、嫌だったか、など聞かれず、記録も取られない。
楼蘭は、ミロクが握り締める手首を見て、そっと声を落とす。
「……痛む?」
返事はない。だが手を離さなかった。
「ここはね、そんな力まなくても良い場所だよ」
楼蘭が口にしたのは、断言でも慰めでもない“事実”。
「夜は、特にね。起きちゃっても、誰か居るから。」
そう言って、椅子から立ち上がると、ミロクの腕にそっと毛布をかけた。
ミロクの胸の奥でさっきまで渦巻いていた恐怖が少しずつ溶けて形を失っていく。
怖い。
嫌だ。
ここではたとえそう思ったとして、感じる心を消されない。
そう理解し、ミロクは安心して震えられる夜を過ごした。
ーーー
朝の孤児院は、まだ半分眠っている。廊下に差し込む光はやわらかく、
朝食の匂いと、子ども達の小さな足音が混じっていた。
様子見、と顔を出した燈夜は、玄関先で楼蘭と鉢合わせる。
「おはよう。仕事前?」
「はい。……その、ミロクは……」
言い淀む燈夜に、楼蘭は少しだけ首を傾げてから、“あぁ”と思い出したように奥を指した。
「いるよ。ほら。」
視線の先。机の前にミロクが座っていた。パンを持ち、いつかと同じ速度でゆっくりと齧っている。視線は落ち着いていて、表情も静かだ。
(……普通、だな。)
拍子抜けするほど、いつも通り。ミロクは燈夜に気付くと、ほんの一瞬だけ視線を上げた。驚きも、喜びもない。ただ確認するような目。そして、またパンに戻る。
「…普通、ですね。」
「そうさね。」
楼蘭は笑った。ただ、その笑い方は少しだけ控えめだった。
「夜は、ちょっと落ち着かなかったけどね。」
燈夜の肩が、わずかに強張る。
「何か…ありました?」
「悪い夢でも見たのかなぁ、って感じ。ここに来る前に居たトコ、とか?」
深刻さはない。長年ここにいる人間の、“経験則”の声。
「寝言も魘されるもなかったけど、手首をぎゅっと掴んでてさ。」
燈夜の視線が、無意識にミロクの腕へ向く。
「起きたらケロッとあの通りさ。…何かは抱えてる子だな、とは思っちゃうねぇ。」
楼蘭は奥の様子を見ながら言う。
「そういう子、たまにいるんだよ。夜に感情が溢れて、朝にはしまい込むタイプ。あんた達もあったろ?きっと同じだよ。」
特別扱いはしない。理由も深掘りしない。ただ、受け入れるだけ。ここへ連れてくるという流輝の選択は、大正解だった。
「ここでは、無理に聞き出さない。」
その言葉に、燈夜は小さく頷いた。
ミロクは、パンを飲み込んでから、机の上に落ちた欠片を指で集めている。静かで、穏やかで、何も無かったみたいな朝だ。
「心配なら、また顔出しな?」
楼蘭は、いつもの調子で言った。
「居場所があるって分かってるだけで気持ちは違うから。」
「あ、はい。」
燈夜は礼を言い、もう一度ミロクを見てから、踵を返した。胸に残るのは、安堵と、まだ触れられない違和感。
(結局、こいつが何者かわかんないんだよな…。)




