雨の後
「……ちょっと。」
流輝にちょいちょいと招かれて二人でベランダに出ると、昨日の土砂降りの名残なのか、小さな粒の雨がまだ降っている。
部屋の中では、ミロクが相変わらずゆっくりパンを齧っているのが見えた。
静かで、やけに音がよく通る夜だ。
「で?」
手すりに寄りかかりながら、流輝が言う。
「私は今日、パンで買収されただけでいいの?」
「……。」
流輝の質問の意味が理解できたのだろう。すぐには返答が出てこない。
「話せば話しただけ何かあった時に危なくなるって思ってるんでしょ?」
「…そりゃ、そうだろ。」
「ふーん。じゃ、一個だけ聞いて良い?…なんで、あの子連れてきたの?」
燈夜はすぐに答えなかった。遠くの街灯を見たまま、低く言う。
「…“助けて”って、言われたから。」
それだけだった。
流輝は一瞬、目を伏せた。その表情には、懐かしさとも痛みともつかない影が落ちる。
「颯と逆だね。私たちさ。あの時、颯に“大丈夫”って言われ続けて、それを信じたじゃん。…まさかとは思うけどさ。あの子で、“颯”のやり直ししようとか思ってないよね?もし、颯が“助けて”って言ってくれてたらこう動く_みたいな」
燈夜の表情が、はっきりと変わった。
「んなわけないだろ。」
即答だった。
強くて、短くて、迷いのない声。
「……だよね。」
流輝は、そこでようやく息を吐いた。
燈夜は何も言わない。
「颯、大丈夫なんだ、何ともないんだって信じたくて、信じちゃって。そっとしておいた方がいいって思って。そのまま_あんなに悪くなるまで誰も気付いてあげられなかった。」
雨音が、二人の間を埋める。
「颯のことは、背負っていくしかない。忘れたふりも、塗り替えも、しない。」
燈夜は遠くを見て、でも確実に頷く。
流輝は視線を逸らし、いつもの軽い調子に戻そうとする。
「そ。」
流輝は頷き、くるりと踵を返す。
「じゃあ決まり。明日、“お姉ちゃん”に相談してみるね。」
「おい。」
「なに?」
振り返った流輝は、いつもの調子だ。
「友達の家に行ったら、知らない子がいて。その子が困ってそうだったから、提案しただけ。」
悪びれない声。
「何も悪いことしてないでしょ?」
燈夜は何も言えなかった。
止める言葉も、否定する理由も見つからない。
「決まり。」
流輝は部屋に戻りながら声を投げる。
「相談する前にオシマイ、とかならないでよね。ミロク〜、食べ終わったぁ?」
扉が閉まる。
ベランダに残された燈夜は、雨の向こうを見つめたまま動けなかった。
颯は、いつも“大丈夫だ”と言っていた。
誰にも助けを求めなかった。
__それを、信じた。
…信じてしまった。
胸の奥に沈んだその記憶が、今もまだ、重い。燈夜はそっと拳を握りしめた。
逃げるためじゃない。やり直すためでもない。
__背負ったまま、進むためだ。
そう自分に言い聞かせるように、燈夜は雨の向こうを見つめていた。
ーーー
ベッドに横になると、天井が近く感じた。調整槽室の天井は、もっと高くて、白くて、どこまでも続いているみたいだった。
ここは違う。角があって、影があって、少しだけ暗い。
腕を動かす。
何も付いていない。
昨日まで、そこにあった輪はもう無い。あんなに苦しくて、熱くて、離れないと思っていたのに。今、残っているのは赤くなった皮膚と、少しひりつく感覚だけだ。
(あっけなかった。)
そう思ったけれど、驚きはしなかった。取れた、という事実よりも、
もう、そこに無いという状態の方が、まだよく分からない。
布団の向こうで、衣擦れの音がした。
視線を動かすと、床に敷いた毛布の上で、燈夜が横になっているのが見える。
眠っているのか、起きているのかは判別できない。でも、呼吸の音がする。
同じ部屋に、人がいる。
調整槽室では、誰かが居ても、距離は決まっていた。
決められた位置。
決められた立ち方。
決められた視線。
ここでは、距離が決まっていない。
床とベッドの高さも、間の空間も、意味を持たない。
(…変な感じ。)
嫌ではない。むしろ、胸の奥が、少しだけ軽い。
目を閉じる。空気が、違う。冷たすぎず、澄みすぎず、少しだけ匂いがある。
金属でも薬品でもない、知らない匂い。
昨日までいた部屋では、呼吸をするたびに、体の中まで洗われていく感じがした。
きれいで、何も引っかからなくて、だから、何も残らなかった。
今は、息をすると、少しだけ重たい。でも、ちゃんと自分の中に入ってくる。
(……ここに、いていいのかな。)
答えは出ない。でも、床の上の気配は、消えない。燈夜は、何も言わない。見張らないし、触れないし、命令もしない。ただ、同じ部屋にいる。
手を握る。痛みは、ちゃんとある。熱も、感覚も、残っている。
(……大丈夫。)
誰に向けた言葉でもない。
同じ部屋に人がいる夜は、思っていたより静かだった。




