雨垂れの下
燈夜が小声で何度も何度も呼び掛け、やっとF‐369が目を開いた。
(気付いた!)
F‐369がこちらを見たという確信を得て蓋を揺らす。少しの細工をしてある一定の条件で力を加えればボルトは内側からでも外せる。程なくして金属がわずかに軋み、留め具を失った蓋が静かに持ち上がった。
当人はというと、寝ぼけているわけではない。けれど反応は遅い。
夢うつつな世界から、現実へ戻るのに時間がかかっているような──そんな遅さだった。
今日この部屋に関係者はもう来ないとわかりつつも、例外が無いわけではない。燈夜に焦りが滲んだ。
「ぼーっとするな!約束!しただろ!忘れたなんて言わせないからな!」
降りて押し上げるより引っ張り上げた方が楽だと伸ばせる限り手を伸ばす。
“約束”という単語にほんの少し反応を見せ、F‐369がゆっくりと、確実に燈夜に向かって手を伸ばした。
しっかり掴んで思い切り引き上げる。想像以上の軽さに逆にバランスを崩しながら、排気口へ迎え入れる。
「とりあえず付いてこい。大丈夫だと思うけど喋るなよ。」
燈夜がF‐369の目をしっかりと見て言い聞かせるように指示をする。彼は頷くでも、疑問を口にするでもなく、ただその通りに燈夜の後ろをついていった。
迷いなく排気口の迷路を進み、通路にあるハッチを開けると水の流れる音が聞こえてきた。配水道だ。燈夜は迷わず飛び降り、F‐369が来れるかどうか振り返る。
暗闇と高さを前に、足が竦んでもおかしくはない──普通の人間なら。
「!…やるじゃん。」
F‐369は何の迷いもなく隣に降り立った。
まるで恐怖や不安という概念そのものが存在しないかのようだ。
暗い配水道にF‐369の調律環の緩やかな明滅だけが不気味に光っている。
(目立つ…か?いや、ここはまだ人が来ない。進もう。)
「こっち。行こう。」
もしもに備えて体力は残すべきだと走りはしない。前を向く直前、ほんの僅かだったがF‐369が顔を顰めた気がした。
「疲れたとか、何かあれば言えよ。」
そう投げかけ進んでいく。本来なら静まり返ったこの時間、地上の道路を歩く人間に足音が聞こえてしまう配水道も雨音が響いて二人の足音や気配を隠してくれている。普段なら怨めしい土砂降りに心の底から感謝した。
「あそこ、上からの雨が降り込んで来るから濡れるぞ。別にちょっとくらい濡れたって大丈夫だろ?」
道路配水の構造上、雨水を配水道へ逃がす仕組みが増えて来た。尋ねはするものの、無表情のまま頷いたような、首を傾げたような、曖昧な反応に戸惑う燈夜。
「無理なら止まってろ。わかったか?」
答えさせるより行動させた方が早い。そう判断して歩みを進めた。
後ろから付いてくる足音。
ジュワッッ
と共に聞こえた何かおかしな音に反射的に振り返る。
F‐369の腕に嵌まった調律環から湯気が上がっていた。
「コイツが濡れたらヤバかったか?…っ熱!…おい、冗談だろ?何でこんな熱いやつ腕に付けて平気な顔してるんだよ!?」
変わらず緩やかな明滅を繰り返していた調律環は雨水を蒸発させる程に熱を帯びていた。
慌てて腕との間に布を噛ませ、構造を観察する。
(何か…工具でもあれば…)
何か無いかとダメ元で自分の衣服を触る。
「!ファインプレー!」
今日、ツールポーチを忘れて作業をしていた時にしまい場所に困ってポケットに押し込んだ小さなレンチ。生まれて初めて自分のポカミスに感謝した。
「これ!外したらヤバいとかあるか?」
それだけはしっかり返事が欲しくて肩を掴んで目を見て聞く。F‐369は首を振る。
「…大事なモノ、とかか?」
燈夜の念の為の質問にF‐369は好きにしろと言わんばかりに目を伏せた。
「秒だからな。痛かったら言えよ…!」
構造を把握して調律環の隙間にレンチを押し込んで力の向きを変える。
パキッ
小さな音がしてF‐369の手首から調律環が落ちた。
地面に落ちた瞬間、警報を警戒した燈夜が調律環を踏み潰して水路に投げ込んだ。幸い、音も光も発することなく調律環は配水路の底へと沈んでいく。
「……。」
湯気が消え、雨音だけが残る。
少し火傷になってしまった自分の腕と、調律環の沈んだ水路を無表情のまま見、F‐369は無言で燈夜の後に続いた。




