天は味方か
中枢域深部──調整槽室。
昼の定期確認が終わり、空間は再び沈黙に沈んでいた。
F‐369は椅子に座ったまま、背凭れに体重を預けて目を閉じている。規定内の姿勢。浅く整った呼吸。だが、処置前の“ただの静止”より、どこか人間らしい力の抜け方がある気がしてしまう。
眠っているのかどうかは分からない。ただ、その脱力した佇まいが、楊震にはどうしようもなく“人間”に見えた。楊震は記録紙を閉じてもなお、その姿から目を離せなかった。
(…悪く思うな。)
声にはしない。
だが胸の底に沈むその言葉は、確かにF‐369へ向けられたものだった。
(静調が崩れれば、蒸都は揺らぐ。お前個人の意思ではなく、都市の根幹が問題なのだ。)
F‐369はまったく動かない。瞳も閉じ、まるで“揺れる余地などない”と言わんばかりに静かだ。
……その姿が、不意に“前回”を思い起こさせる。
視界に蘇るのは、黒塗りの多い記録の一文。
《一時的に高度な自発反応が確認されたため――》
《兆調反応/制御不能》
(…あの時。)
静調帯を外れた、F‐369は明確に“人”になった。
焦点を結んだ瞳は恐れを映してこちらを見つめる。そして――あの、強い声。
「いやだ……!!」
調律環は過熱し、機器は警報を上げ続けた。複数の監査員が押さえつけようとしても、F‐369は自らの意思で処置を拒んだ。それは明確な意思であり、異常値の跳ね上がりと共に兆調は確定した。
静調へ戻すための処置は_酷だった。まだ幼さの残っていたF‐369が恐怖に泣き、助けを乞うのも構わずに抑え込み、黙らせ、強制的に戻した。
それが蒸都の安全のために必要とされる“正しさ”であり、どこにも情が入り込む余地はない。
その一部始終を見せられた織玖は、崩れ落ちるように膝をついた。
『僕が、彼に声を掛けたから、あの子が……』
どんな言葉をかけても彼の心は折れたままだった。その日を最後に、織玖は保全庁を去った。
__そして今、同じ沈黙の前に立つ。
楊震は調整槽室の出口へ向かって歩きながら、胸の奥で再び同じ言葉を落とした。
(…悪く思うな。“調整”は、蒸都のためだ。)
揺らいでいいのは、自分の内側だけでいい。
F‐369が揺れることだけは許されない。
ほんの一瞬、視線が合った。あの日と似たあの“微かな揺れ”が、胸の奥で刺のように残る。
(…申請は完了した。あとは──来るべき日を待つだけだ。)
静かな廊下へ出た瞬間、
楊震の靴音だけが、決断の重みを静かに告げていた。
ーーー
朝、流輝の話を聞いてしまった所為か燈夜は何をするにも上の空で過ごす羽目になった。工具の重みさえ、今日はやけに遠い。
「おーい、このツールポーチ燈夜のだろ?」
「あ…すみません、ありがとうございます。」
いつの間にか外していたらしい燈夜の仕事道具を回収した緯斗が持ち主の元へと戻す。
「どこにありました?」
「第二動力炉。あれって午前中の割振り地区だろ?今までどうしてたんだよ?」
「借りたり予備使ったり。…助かりました。」
改めて頭を下げる燈夜の上着やズボンのポケットには行き場を失った道具が所狭しと溢れている。
「珍しいな。どっか調子でも悪い?」
続々とポケットから出てくる道具を眺めながら緯斗が首を傾げる。
「いや特には…」
「もしかして燈夜くんも気圧に弱い?」
二人の話を聞いていたのか澪も輪に加わってきた。
「あんまり気にした事無いですけど…」
「そう?弱い人は大変よ〜、今夜はひどい雨みたいだしね。みんなも早く帰りなさいね?」
こうして、戻って来た技士それぞれに声を掛けるのは彼女の習慣だ。
「雨かー。傘無いんだよな。早く帰るか。」
他の面子にも声を掛ける上司を見送りながら、嫌そうに顔をしかめる緯斗。
(雨…)
今までぼんやりしていた頭が急にクリアになってきた。
「先輩…今日何日でしたっけ?」
「お前、日にちの感覚も鈍ってんの?九日だよ。」
(奇数日…!)
燈夜の中で何かが組み上がっていく。
「本当に大丈夫?主任も言ってたし、早く帰りなよ?」
「あ…はい。」
去っていく緯斗の背中を眺めつつ、頭が急速に回転していくのがわかる。
どうしたら『約束』を守れるのか、ずっと考えていた。
あの部屋へ繋がる配管や通気口を通る案ももちろん考えた。それだけでは不完全かつ見つかる可能性がある。
そこで配水道に目を付けた。高低差も多く、確かに入り込むまで手こずるだろう。だが、入ってしまえば水の音が気配を消し、跡を辿らせず、動力庁舎から一番遠い場所へ出られる。
そして、余程の事がなければ楊震は偶数日に、嶺亜が奇数日の測定を担当しているはずだ。燈夜の知る限り、嶺亜の監視は隙だらけだ。
あの部屋のことも、そもそも彼の正体もわからない。匿う場所も無い。しかし時間も残されていないのも確かな筈だ。
(──今日しかない。)
見上げた空は、ひどく暗かった。
けれど燈夜には、その黒い雲がまるで“今だ”と背中を押す希望に見えた。




