救うべきは
調整槽室。F‐369の昼の定期確認。
静調、と呼ぶにはあまりにも整いすぎた沈黙が満ちていた。
高科が調律環の端末を覗きながら、小さく息を吐く。
「今日も、正常値…ですねぇ」
楊震は無言で頷き、369の前に立ち、観察する。呼吸、姿勢、視線――どれも規定通り。いつもと同じ。変化はない。
…ない、はずだった。
「……?」
F‐369の瞳が、ほんのわずかに動く。
いつもは呼び掛けなければ合わない視線。
ほんの一瞬、まるで目の前に居るのは誰なのかを確かめるように、F‐369は楊震と視線を合わせたのだ。
ほんの僅かな瞬間的な出来事にハッとして調律環を確認する。
異常はない。調律環にも測定出来ないレベルの違和感。
(……今のは……)
「楊震さん、どうされましたぁ?」
間の抜けた声を出す高科は何も気づいていない。
目の前のF‐369自身も、表情ひとつ変えていない。
楊震は、感じた違和感を言葉にしないまま記録帳を閉じる。
(兆調…ではない。では――何だ、今の反応は。)
気のせい、と片付けることもできた。実際、数値は正常だ。兆調の兆しに出る“揺れ”ですらない。
(だが。監査会が近い今、放置するには…気に障る。)
369の瞳は、ただ前を向いている。静かで、空っぽで、完璧な“静調”。
だが、先程の視線には、確かに“人間の意思”があった。
「……戻るぞ、高科。」
「へっ?あ、はいぃっ!」
去っていく二人の後ろ姿をF‐369の視線が静かに追っていた。
ーーー
統括部・執務室。
送達筒の往復音だけが響く静かな部屋で、楊震は書類に目を落としていた。
(……数値は、どこにも“揺れ”を示していない。)
反応値、静調指数、投薬同調率──どれも完璧なまでに平常だ。数字のどこにも“あの瞬間”を裏付けるものはない。
ただ。視線が合った、それだけだ。ほんの一瞬。たったそれだけで、何年も継続してきた静調の形が揺らいだように見えた。
(……見間違い、かもしれん。)
記録紙の表面を指でなぞりながら、自分の目を疑ってみる。もし自分がもう一人居たとすれば、きっと数字が全てだと主張する筈だ。
(兆調の初期揺らぎではない。調律環にも反映がない。──なら“何”だ。)
答えはない。モヤは残る。
机の端に置かれた“過去の記録”が目に入った。
《適合評価会/臨時記録──F‐369兆調》
黒塗りの痕跡。そして、読める唯一の文字。
《……玖》
(織玖…か今、どこで何をしているやら…)
昔居た同僚に思いを馳せかけ、すぐに思案へ自分を戻す。
(静調帯に戻すための処置は…あれを削る。)
一言“調整”と言ってもその処置をする事によりF‐369の脳や身体への影響は計り知れない。考え無しに処置を繰り返してしまえば、その寿命を確実に削る。長持ちしない。
(……気のせいであれば、何もせずに済む。)
自分の判断ひとつで、F‐369の“使用可能期間”を削る。それは、職務の外側にある罪悪だ。
(だが──)
ペン先が紙を強く叩いた。
(蒸都の動力はひとつでも不安定な要素を許さない。静調が崩れれば……都市の根幹が揺らぐ。)
“蒸都の安全”。それだけが、考えるべき唯一の要素。
信ずるべきは己か数字か。
私情ではなく、都市を守るために動く。
(……再調整を申請する。)
背筋を伸ばし、机上の通電器を手に取る。
「繋いでくれ、中央動力管理部だ。」
ーーー
朝独特の、静かに蒸気の立ち込める街の上空を眺めながら、中枢域へ続く道を歩く。
あの後、旧区画の倉庫を漁ってみたが、大きな収穫はなかった。
時間を掛ければ何か見つかったのかもしれない。だが、自分がやろうとしている事の規模を考えれば、不審を買う行動は極力避けるべきだ。
(自発反応に対しては要警戒、で合ってるよな。上から潰されてる“っぽい”し……)
掴めない煙を相手にしているような気分だ。
遠くに上がる蒸気の揺らぎを見ながら、どうにも手詰まり感が残る。
配管。排気口。上下水道。
外へ繋がるルートだけは把握した。条件さえ整えば、彼を“助ける”ことは可能だ。
(…まさか自分が完全犯罪の計画立てる未来が来るとはな。)
それが犯罪なのか救済なのか。
燈夜の中で唯一ブレーキがかかるのは、その線引きだけだ。
「やっほ!朝から湿気た顔〜。」
流輝だ。燈夜とは対照的に、いつも通り軽い足取りで隣に並ぶ。
「…そう思うなら絡むなよ。」
軽く睨むと、想像以上に目が輝いていて、嫌な予感しかしない。
「こないだね?またちょっと気になる話し声聞いちゃって。久し振りの流輝ちゃんニュースの時間だよん。」
(………。)
流輝が以前管制通信室で受信してしまった単語の数々は、今まさしく燈夜の中で根を張った悩みのタネだ。
「…何だよ?」
「やっぱ気になっちゃう?」
「俺がどう思おうが、お前どうせ言うだろ。」
この噂好きの幼馴染のおかげか、興味のないフリは得意なのかもしれない。
「よく分かってるぅ。」
にこにこと笑いながら、流輝は声をひそめた。
「また聞こえてきちゃったんだよね。あの話!」
燈夜は黙って耳だけ傾ける。
「私が思うに──F-369は機械ね。」
「は?」
思わず足が止まりかけた。そんなはずが無い。数える程しかないが、見、聞き、触れもした。あれは人間だ。
「だって、“数値が安定”とか“初期値がどう”とか。あと“処分”とか?普通、人にそんな言い方しなくない? どう考えても装置の話でしょ?」
「……。」
「回線の定期整備が始まっちゃったから、もうこっちには音声流れてこないんだけどね。 こないだの段階で“審査”とか“検査”とか言ってたから…もう導入準備終わってるのかなぁ、新しい機械!」
楽しげに言う流輝とは反対に、燈夜の胸の奥の温度が一気に冷える。
(処分。)
“たすけて”
あの言葉と結び付けるには十分だった。
全部ではない。けれど─
(大事なピースは繋がった。…助ける。)




