未知の単語
統括部に呼び出され、いくつか質問を受けてから数日が経った。
音沙汰はない。疑われている様子もない。
整備士の仮面は、うまく機能したようだ。
嶺亜は面倒そうに笑い飛ばし、高科は勝手に安心し、楊震も――少なくとも露骨な疑いは見せなかった。
(……まあ。油断は禁物だけどな。)
胸の奥に残るのは、あの一言だけだ。
――たすけて。
約束を口にしたのは自分だ。守れる保証なんてどこにもないのに。
(“兆調”。“見ていられない”。“オルク”……。)
頭の中で、聞き慣れない単語が浮遊し続ける。
何か手掛かりはないかと、資料室で旧区画の図面や整備記録を漁った日もあったが、
当然そこに“核心”など載っているはずもない。
(まあ、そりゃそうだよな。……となると、旧区画の『ゴミ箱』か。)
あの、捨てきれない書類が押し込まれた半分倉庫のような書庫。
入ること自体は問題ない。ただ、理由なく足繁く通えば統括部に目をつけられる。
(理由が…欲しい。)
そこで燈夜が“利用”したのは澪だった。
「燈夜くん、助かるけど…本当に任せきりで良いの?」
整頓が苦手な澪の机周りには旧い書類が山のように積まれている。
それを“保管しに行きます。”と引き受けることで旧区画への出入りが自然になった。
「今日、もう一段落ついたんで。でも新しい箇所行く時間もないですし、大丈夫です。」
何度も礼を言われ、胸がちくりと痛む。それでも“不要”と書かれた箱にいっぱいの書類を抱え、旧区画へ向かった。
「お、機械少年じゃん。…あ?その箱…使いっ走りかよ。せいぜい頑張りな。」
廊下で嶺亜に遭遇した。悪い笑み。からかうような、挑発にも似た声色。
「あ、はい。」
嶺亜の思う自分像を体現したような、淡白な返事を返す。
(態度はクソだけど…意外と普通なんだよな、この人。)
去っていく嶺亜は、廊下で同僚と肩をぶつけ合って笑っていた。ギャップに、ほんの少しだけ視線が追ってしまう。
倉庫を開けると、古い紙と油の匂いがむわりと漂った。
(悪さしてるわけじゃない。主任の手伝いをしてるだけだ。)
自分に言い訳しながら、箱の中の書類を仕分けしながら棚を一つずつ見ていく。
“第零通気区 整備記録”
“旧区画廃棄配管リスト”
“適合評価関連書類/閲覧制限あり”
(……今、あったな。)
一度通り過ぎ、戻る。
ラベルの端に走り書き。
【F系列 適合評価会記録(抜粋)】
「“適合評価会”……。監査会の正式名称か。」
だが分厚い鉄製の杭で封じられ、
“統括部許可者のみ閲覧可”のタグが鈍く光る。
「……だろうな。」
隣の棚に目を移す。
“第零通気部 整備記録”
こちらには封も杭もない。引き抜き、床に座り込み頁を捲る。
配管の更新記録。
交換部品。
古い点検時の走り書き。
その中に、一枚だけ雰囲気の違う報告書が混じっていた。
【臨時整備報告(第零通気部)】
日付:ーー
事由:適合評価会実施中、数値乱れにより緊急点検
状態:F‐369 兆調反応あり
備考:高度な自発反応が確認されたため、
静調へ戻すべく評価手順を再検討中……
(……“高度な自発反応”。)
その先は黒く塗りつぶされていたが、署名欄だけ、かろうじて読める。
《調整環担当:整備士 ……玖》
「…“玖”。きゅう?く?…_オルク…」
前任者かすら分からない。だが高科の言った“オルク”が、脳裏に重なる。
(兆調、自発反応…。自分から喋ったり、動いたり――そういう事か。)
指先がページの端を無意識に強く掴んでいた。紙が、かすかにしわをつく。
(じゃあ…今は戻された後?“静調”ってやつは……全部、消された後――ってことか?)
胸の奥がざらりと波立つ。熱なのか寒さなのか分からないものが背中を撫でた。
知らないままでいれば、約束などしなければ、諦めるのは簡単だ。
でも。
(もう、『約束』したんだ。)
それだけは何を読もうが消えなかった。




