不安
保全庁統括部の執務室。
昨日の計測結果を上に報告すべく、楊震は静かに書面をしたためていた。
前日の測定員とは別の人間がこれを行う――必然的に二つの目で異常の有無を確認する。昔から続くこのやり方は、淡々としていながらも重みがある。
(数値は安定。目立った異常もない。…第零通気部の部品交換も恙無く終了、か。)
整備部に依頼を出し、若い整備士が来たときは主任の人選を疑った。
だが実際に作業をさせてみれば、F‐369に驚くことも、余計な興味を示すこともなく──
必要な作業だけを淡々とこなし、静かに戻っていった。今時の若者は、思いの外ドライらしい。
(…そういう時代か。)
胸の奥に、何か微かな“ずれ”のような感覚が生まれた。だがそれが何を意味するのか、考えるまでもない。
(いや、こちらとしてはその方が都合が良い。)
一瞬で結論づけ、心の表面からその感覚を消す。職務の中に、個人的な感情が入り込む余地はない。送達筒へ書類を入れたところで、背後に気配を感じる。
「何の用だ、高科。」
さっきから室内を落ち着きなくうろつき、時折こちらを窺っていた。何か言い出したいのは明らかだ。
「ヒッ、あ、あのっ…その、ですね…あの、一つ……お言伝がございまして……」
いつもの挙動不審。記入漏れでもしたのだろう、楊震はそれくらいの気持ちで続きを促す。
「わ、私の、勘違いかもしれないのですが、えぇ…と…」
「…………。」
楊震の無言の圧に高科が口を開いた。
「F‐369が、自発発声……し、した気が!_しまして……」
(……!)
カサリと書類が放った乾いた音とともに、楊震の手が止まった。
「……状況を、順に話せ。」
促され、高科は昨夜の出来事を細かく語った。
交換した部品の整合性の確認する為、整合完了アラームの鳴るタイミングを見計らって燈夜を伴い調整槽室に戻った。その帰り際、問いに対する返答ではなく、F‐369自身が“文脈に沿っていない言葉”を発したという。
楊震は机上の整備記録書を閉じ、思案に沈んだ。
(言葉の独立性があった?“兆調”の前触れか?だが数値には反映がない……)
“兆調”。何らかの原因によりF‐369の測定値が既定を上回ってしまうことだ。
過去に一度だけ、兆調の発露があった。あの時は、値が一気に跳ね上がり、処置に時間を要した。
だが今回は――報告が正しければ――兆調に至る“前の揺れ”すら記録されていない。
(本当に発声したのか。あるいは、高科の過敏反応か…)
「嶺亜は何と言っている?共にその場に居たのだろう?」
「えっっとですねぇ、それが…嶺亜さんは、“勘違いだ”と…」
昨夜その場に嶺亜が居なかった事を咄嗟に隠す高科。楊震もその言葉を疑う事はしなかった。
(どちらにせよ、一度確認する必要はある。)
楊震は立ち上がり、淡々と告げる。
「……F‐369の状態を確認する。来い、高科。」
「ひ、ひぇっ……は、はいっ!」
高科が立ち上がり、鍵束を手に慌てて続いた。
最後の扉を開けると、F-369は椅子に座っていた。
あまりにも“いつも通り”の光景。
誰に整えられたわけでもない。
伸びた姿勢のまま背筋を立て、正面へ向けられた瞳は微動だにしない。
その姿は、静寂そのもの――“静調”と呼ぶほかない状態だった。
高科が小さく息を飲む。
「…い、いつも通り…ですね…」
楊震は返事をせず、まず調律環の値を確かめた。
脈動、規定値範囲。
皮膚温、上昇なし。
反射域、平均値。
視線の揺れ、ゼロ。
数値がひとつも揺れていない。昨日の“何か”が存在した気配すら、この個体のどこにも残っていない。F‐369の瞳はただ前を向いている。
(…静調。揺れなし。)
眉ひとつ動かさず、楊震は記録紙へ淡々と文字を落とす横で高科がそっと周囲を確認しながら言う。
「こ、こんなに…いつも通りだと…やはり私の勘違い…でしたかね…。いやぁ実際そんな気も…していまして…」
「事実、何も残っていない。」
楊震はF‐369の真正面へ立ち、底のない薄青い瞳を覗き込む。
透明。空虚。従順。静けさだけがそこにあった。
自発発声?
兆調の前触れ?
――どれも、今の数値とは噛み合わない。
(兆調ではない。もしあったとしても、ごく一過性の、微細な揺れだ。)
だが。
(――監査会が近い以上、見逃す理由にはならん。)
不備を残せば、統括部全体の責任問題となる。職務に曖昧さを許すわけにはいかない。
記録板を閉じ、背を向ける。
「……静調だ。問題なし。念のため、整備士・燈夜にも証言を取る。彼も聞いたのだろう?」
「え、あぁ…、た、確かに…!」
「兆調ではないと確定させるためだ。余計な不安要素は、監査会前にすべて排除する。」
“監査会”――F-369の適合状態を定期的に審査する場。揺れも、誤差も、曖昧な記録すら許されない。静調で迎えられなければ、即日処置もありうる。
静かに言い切り、通路を進む楊震。
扉が閉まる直前も、椅子に座るF‐369は微動だにしなかった。




