やくそく
“たすけて”。
掠れた声が、まっすぐ燈夜に向けられていた。弱いのに、必死に縋るみたいな目だった。
「分かった。……助ける。」
気付いたら、考えるより先に言葉が出ていた。理由とか計算とかじゃない。
今この瞬間、自分に縋り付くこの手を振り払ったら、二度と届かない場所に行く気がした。
「落ち着け。…大丈夫だ。」
燈夜を掴んだ手は震えていた。腕に嵌めてある環の明滅が速く、呼吸も浅い。
「今すぐは出来ない。…けど──必ず助ける。約束する。」
今まで言ったこともないほど、ずっしりと重みを帯びた『約束』。
ただ、そう口にした瞬間、強張っていたF‐369の肩からすっと力が抜けた気がした。
ほんの一瞬だけ、瞳の緊張がほどけた。
安心というより“限界の縁でようやく掴んだ何か”に寄りかかるような表情だった。
「……やく…そ、く…」
小さく、確かめるように言葉を反芻する。その声が胸に深く刺さる。
「…そうだ。約束だ。」
言うと、F‐369のまぶたがゆっくり閉じる。呼吸は不安定だが、生気はある。
環が発する光も一度弱まり、またゆっくりと落ち着き始めた。
「…見捨てたりなんかしないから。安心しろ。」
俺に掴まれていた手が、静かに力を失った。シーツに反射する調律環の光だけが瞬いている。
そっと力の抜けた腕を戻し、誰にも気付かれないよう足音を殺して部屋を出た。
扉が閉まる瞬間、視界の端で調律環が淡く脈打つのが見えた。
ーーー
昼。
レンガ道をふらふらと歩く燈夜の姿があった。
人々が行き交うはずの活気ある通りも、今の彼にはただ目に刺さる光景にしか見えない。瞼と同じくらい足取りも重い。
(何であんな約束……)
頭の中をぐるぐると回るのは、その後悔ばかりだった。
昨夜、誰に悟られることなく自室へ戻った燈夜は、水を浴びて頭を冷やし、冷静さを取り戻した瞬間に頭を抱えた。
「無理、だろ…」
職業柄、動力庁舎の構造は頭の中に地図のように入っている。どこへ抜ける通気口があって、人目に付かず外へ出られるルートはどこか。逃亡経路に関しては、確かに自信がある。
でも…それ“だけ”だ。
助けを乞い、助けると約束した“彼”が何者なのか。
なぜあの場所に閉じ込められているのか。
保全庁は何を隠しているのか。
“処置”とは何なのか。
わからないことしかない。
(囚人…じゃないよな。病人? いや、医療機器が少なすぎる。保全庁に正当な理由があったとして…)
考えれば考えるほど深みにはまり、本当にその約束を果たして良いのかどうかすら分からなくなる。
眠れぬまま夜が明け、朝が来た。
久しぶりの徹夜だった。
休みの日といえど、家でダラダラするわけではない。互いの予定さえあれば、町工場の職人、鋼土の下で教えを受けているからだ。まだまだ欲しい技術、知識がたくさんある。
燈夜が師と仰ぐ鋼土は、元は父の職場仲間だった。父亡き後も気にかけてくれていてこの町工場で働かないかと打診もされたが、燈夜は動力庁舎の整備部の道を選んだ。単純に、場数の差だ。打診を蹴ってしまった今も、求めさえすればこうして必要な知識を『授業』と称して惜しみなく分け与えてくれる鋼土には頭が上がらない。
いざ鋼土の元へ足を運んだものの寝不足で心ここにあらずの燈夜に
「…燈夜。何があったか知らんが…真っ向から向き合えないなら今日は帰れ。」
そう冷静で、裏に優しさの籠もった言葉を掛けた。含んだ意味を全て受け取り、燈夜は『授業』を中止し、帰路にある広場に辿り着いた。
(やばい。今日も寝れないやつだ。)
広場のベンチに腰を下ろす。出てくるのは溜息ばかり。
「うっわ、辛気臭っ。何その顔?何かやらかした?」
「……流輝。」
今の自分に最も合わない相手の登場に、短い溜息がもう一つ落ちた。
「うるさい。眠れなかっただけだ。」
「へぇ、どこでも寝れるあんたがね?」
流輝の手には、休日を満喫したらしい買い物袋がぶら下がっている。
「なに?恋煩い?この流輝ちゃんが聞いて進ぜよう!」
(…うるさい。)
「違う。何でもない。放っとけ。」
誰でも分かる拒絶だったが、流輝は“ふぅん”と軽く受け流し、隣に腰を下ろした。
「おい。」
「私はここでさっき買ったパンを食べるんでーす。見てよ。他、ベンチ空いてないし。」
紙袋を開けると、焼き立てのパンの香りがふわりと二人の間を埋めた。
「はい、相席料ね。」
なぜかやたら強い力で、燈夜の膝にパンを押しつける。
「…変形させんなよ。」
「味は変わんないから気にしなーい。」
隣でパンを頬張る流輝につられて、燈夜もパンを口に運ぶ。
「…なぁ。お前、誰かに“助けて”って言われたら、どうする?」
流輝が、パンを食べる手を止めた。
「え?なに、お金貸してとか言われてんの?やめた方が良いって!」
「何で困る=金なんだよ?」
「じゃあなに?」
「例えばの話だよ。」
追及を軽くかわす。
「んー、人による…かな?そりゃ知り合いだったら助けるけどさ、全然知らない人に言われたら色々ウラとか考えちゃうじゃない?」
「あー…だよな。」
どこか空を漂うような反応。
流輝が横目で燈夜を見る。
眠たげで、でも悩んでいるのが一目で分かる視線だ。
「ま、でも助けたから繋がった縁ってのも知ってるし?そこはもうテンションでしょ! 考えるより動くのが私達に合う!」
流輝らしい、根拠のない自信。
でも、妙に胸に刺さる。
“助けたから繋がった縁”
颯もここにいたら、同じことを言っただろうか。
(…颯は慎重派だから言わないな。)
自分で出した問いを、自分で退ける。
「何があったか知らないけど、グダグダ考えたって多分答え出ないよ?もし何かあっても、出来る範囲でちゃんと助けてあげるから。その葬式みたいな顔、やめなさいよね。」
「………。」
思いがけない言葉に、頭が少し軽くなる。
「合言葉は“助けて下さい流輝さま”ね!」
「何だよ、それ…」
呆れながら、最後のひとかけらのパンを噛む。
「…甘い。」
「遅くない?!」




