深部の箱
暗い。
目を開けても閉じても、世界の濃さは変わらない。
どこかで蒸気が、鈍い吐息を漏らした。
金属の匂いが皮膚に貼りついて離れようとしない。
(………。)
起き上がろうとした瞬間、手首に触れた冷たい輪が、存在感を訴えた。
まるで“まだ起きるな”と命じるように。
ぼんやりと腕を持ち上げて手首を眺める。
輪に刻まれた数字。
F-369
それが、自分を示す唯一の符号。それ以外は存在しない。
_……
(声…誰の…?)
思考を深めようとすると、頭の奥で何かが擦れ、軋む。
…考える必要はない。ただ、生きていればいい。
そんな声が、ずっと前から続いている気がした。
天井から微かな振動が降りてくる。回転する機械の鼓動。
この場所の空気を整える為の装置。僕を、いかす為の装置。
息を大きく吸い込むと、手首の輪が合わせてゆっくり明滅した。
起きる、眠る、動く、話す
この場ではどれ一つ、自分の意思ではない。
ただ、“生きろ” と言われたから生きている。
(どうして?)
問いかけても、答えは無く針の音に飲まれていった。
ーーー
蒸都は、朝になると町中の管がいっせいに息を吹き返す。蒸気の白いもやがゆっくりと立ちのぼり、軋む歯車の音がどこか遠くで、生活の始まりを告げていた。
街は機構で動き、人々はその機構に支えられて暮らしている。
灯りがつくのも、昇降機が動くのも、水が巡るのも、どれも誰かの手で保たれ続けている仕組みのおかげだ。
その仕組み全体の修繕や見回りを担う役所が、保全庁。中枢域の“動力庁舎”の中にある組織だ。
外から見れば、どこにでもある大きめの行政棟。構造も案内もきちんとしている。クリーンなイメージの庁舎だ。
燈夜が勤めている整備部も、その動力庁舎の一部に属している。
街の機構を診て回り、古い部品を交換し、今日も蒸都が止まらずに動くように支える、地味で確かな仕事。
特別な光景はなく、特別な一日でもない。いつも通りの朝が、今日も始まる__
ーーー
夜明けのレンガ道は、誰よりも先に燈夜を迎える。
蒸気管の吐息。油を含んだ金属の体温。
そのすべてを確かめるように、今日も決まった道具を手に取った。
特別な事をしているわけじゃない。
しっかり造りを見て、必要なところに手を加える__それだけだ。
「……っとと」
モンキーレンチが手から滑り落ちた。反射的に爪先で蹴り上げて掴み、工具入れに戻す。どんなに仕事に慣れても、減りはしてもこのポカミスは消えないし、減ったからこそ予測が出来なくて厄介だ。
(変わらないな、我ながら…)
“優秀”だなんて言われるたび、思う。どこが? と。
教えてくれた人がすごいだけ。受け取った技術がすごいだけ。自分は、まだまだだ。
__でも。
手を動かせば誰かの役に立てる。その事実だけは、胸のどこかを温かくする。
誰も来ない整備場で、燈夜は、静かに夜の冷えた空気を吸い込む。
今日も、いつも通りに終わった。明日も変わらず始まって、いつも通りに終わるのだろう。そう思っていた。




