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香り屋やってます

作者: 霜月

「今日も疲れた……」

 男は酒も飲んでいないのにおぼつかない足取りで帰路についていた。

 新卒で入った会社ではや五年。期待と自信に満ち溢れていたあの頃の面影はもうどこにもない。

 今あるのは全身に重くのしかかる疲労だけ。

 残業まみれで終電に乗って帰る毎日に、男の精神は擦り切れていた。

「もし、そこのお兄さん」

 男が駅に向かう為の抜け道として使っているシャッター街。吹き抜ける冷たい風、明かりの消えた天井。まるで男の心を表しているように寂れたそこで、不意にどこかから声がかかる。

 声のする方に向くと、シャッター街の一角に、フードを被ったいかにも怪しそうな女がいた。

 先程まで男以外には誰もいなかった筈だった。なのにまるでずっとそこにいたかのように、女は立っていた。その後ろにあるチープなテントに掛けられたランタンが、淡くその姿を照らしながら。

 驚きはあった。だが男にとって、そんな事どうでもいいことだった。関わる時間も余裕もない。

 男は無視して進んで行こうとするが、発された女の言葉に足を掴まれる。

「香り屋。寄っていかない?」

 【香り屋】それは最近SNSで話題になっている店の名だった。

 神出鬼没。日本中どこにでも現れる正体不明の店。だけど誰でも利用出来る訳ではない。こうして突然現れ、声をかけられた者だけが利用出来るのだと。不審極まりない存在だが、利用したと証言する人はからの評判は総じて良いらしい。というのがSNSの情報だが、毎日を馬車馬のように働く男は詳細を知らない。

 そんないかがわしさしか感じられない店なのだが、疲労困憊の影響なのか何なのか、見えない手に背中を押される様に、男の足はテントへと運ばれていく。

「一名様ご案な〜い」

 そして促されるまま男は用意された椅子に座ってしまった。

「入ってしまった……」

 状況の説明もないまま男は放置され、それを横目に女は細かく区切られているタンスから、パイプタバコを取り出す。

 そして同じくタンスから取り出した葉っぱを手慣れた手つきでブレンドすると、パイプタバコにセットして火をつけた。

「さぁどうぞ」

 吸って下さいと言わんばかりに差し出されるパイプタバコ。

 だが男は受け取らなかった。

「これ、薬物ですよね」

 頭が働いていなくても分かる。危険なやつだと。

 男の理性がブレーキをかける中、女の甘い誘惑が耳を通して理性を揺さぶる。

「安心したまえ。これは違法でも脱法でもない。それにタバコですらない。ここは香り屋。お客様のかけがえのない思い出を守る為の場所さ。さぁ、一息吸えば思い出す。苦悩に呑まれ、埋もれていった記憶が。君はこのままでいいのかい? 吸えばきっと楽になる」

 最後の言葉が引き金となった。

 毎日死んだように生きる日々。何の為に生きているのか、男自身分からなくなっていた。そんな地獄から抜け出す為の甘い蜜。それが嘘か誠か、目の前にある。

 男は恐る恐るパイプタバコを受け取ると、口に含み、軽く吸った。

 するとたちまち、鼻から煙が抜けていく。 

「これは……」

 煙が抜けていく際に感じた香り。

 それはとても懐かしい香りだった。嗅ぐと心が安らぎ、眠気を誘う温かみのある香り。

「線香の匂いだ」

 そして同時に思い出す。在りし日の記憶を。

 男に母はいなかった。いなかったと言えば語弊があるが、出産後すぐに男の母は亡くなってしまっていた。

 物心つく前に亡くなった為、男に母との思い出はない。

 男の中で母と言えば、遺影と線香の香りだった。毎日のように線香をあげ、その香りに包まれながら母にその日の出来事を報告する。

 それが男の少年時代の習慣だった。

 だが育っていくにつれ、男は日常の忙しさに追われ、線香を供えることはしなくなっていった。

 そうしていつしか母のことも頭の片隅に追いやり、社会という荒波に呑まれていった。

「どうして忘れてたんだろう……」

 いつの間にか男の頬には一筋の雫が伝っていた。

 線香の香りは母との繋がり。忘れられない、忘れてはいけない思い出がパイプタバコを通じて蘇ってくる。

 一人で抱え込み、激動の毎日の中で大切なことを忘れてしまっていた。

 男は噛み締めるように、静かに線香の香りを堪能すると席を立つ。

「ありがとうございます。俺、胸張って母さんに自慢出来る人間になります。今度母さんに会いに行きたいと思います」

 袖で涙を拭った男の顔は爽やかで、どこか吹っ切れ、決意を固めた様子だった。

「そうかい。それが聞ければ、お代は結構。頑張って」

「はい」

 そうして男が店を出て振り返ると、そこに店はなくなっていた。

 まるで狐につままれたような出来事だ。

 だが香りだけは今も覚えている。

「お母さん。見ていてくれ」

 男はしっかりとした足取りで、その場を去っていった。

 その後、男がどうなったのかは分からない。

 しかし、過去の自分を思い出し、前に進み始めた者の未来は明るいだろう。

「またのご来店、お待ちしておりません」

 香り屋は皆様の大切な香りをお届けします。

 今度はあなたの元へ現れるかもしれません。

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