三.弓矢の美少女
あぜ道を通りながら、田んぼの中を覗き込む。ひび割れた土から、ド根性に芽を出している苗もいくつかあるが、枯れるのも時間の問題だろう。しかし、田植えとは五月頃なので植えた直後くらいに水不足が深刻化したのか。今歩いているあぜ道の雑草も冬のように元気がなく、枯れているのもある。
田んぼの周辺には民家がポツポツとあったが、神社の方向へと奥に進むにつれなくなっていった。あぜ道も徐々に細くなっていき、何かうねり曲がっていき、左右の分かれ道が出現する。
「迷路かよ」
いっそ、田んぼの中を駆けて行きたい気分だが、半乾きの泥に足を突っ込んで転んでしまうのはイヤだ。
「右か左か……ん?」
二百メートル先程の岩壁に坂道らしきものを見つける。よく考えれば、島への出入り口が一つだけなんてことはないはずだ。例えば、火災などが発生した場合、逃げ場所が一ヵ所だけでは絶体絶命だからだ。
俺はあぜ道を歩くのをやめて、田んぼのあぜを歩き、その坂道へとショートカットして近づいて行く。神社の地形は高くなっているので、岩壁の上からでも境内に入れるのではないかと推測した。
岩壁まで近づくと、とても細い坂道となっていた。車は通れそうにない。そして、やはり手すりも何もない。高所恐怖症ではないが、少々登り切るのに体力を使いそうだと、刀を杖代わりに地面に突き立てる。もう、誰も見ていないので竹刀に見せかける必要はない。
軽く息を切らしながら頂上へと登ると、やはり視界はぼやけていて景色は悪く、爽快な気分は味わえなかった。
ふと、スマホで時刻をチェックしようと開くと――電波マークが立っていない。
「圏外かよ!」
ちょびヒゲおじさんの、もし落ち合えなかった場合とは、これのことだろう。この島では携帯で連絡を取りし合う事ができないという意味だったのだ。
島と本土までは数百メートル。電波が届かないなんて事があるのか。うろ覚えだが、五キロ程度は通信可能と頭に記憶している。
辺りに広がる霧のようなものが、急に不気味に感じてきた。まるで外界からこの島の存在を隠しているかのようだった。ねっとりと霧が体にまとわりつくような感覚。――その時だった。
岩壁の下から黒くて細長い物が這うように上がって来たのだ。
一瞬、蛇かと思ったが、真っ黒な蛇というのがいるのかどうか。爬虫類にはあまり詳しくない。
その数は三匹。体をくねらせながら、明らかにこちらに敵意を剥き出している。
「……何だってんだ」
一体何の生物か。蛇ではないとしても、噛まれば痛いだろうし、毒を持っているかもしれない。俺は自然と刀に手を伸ばしていた。丸腰では敵わない相手だと分かる。しかし、これを抜くべきなのかどうか。
すると、一匹がこちらへ飛びかかってきた。不意を突かれ、体のバランスを崩してしまい、無様にも尻もちをついてしまう。
そうする間に黒い物体が頭上に襲いかかって来る。その瞬間――黒い生物は細長い棒のような物に頭を射抜かれ、宙に貼り付けられた。が、すぐにそのまま地面へと落下する。そして、蒸発するように消えていった。
俺は目を疑う。その場には突き刺さっていた棒だけが残っていた。
すぐさま、その棒が飛んで来た方向――真後ろを振り返った。
「誰だ?」
そこには、少女が一人。弓矢を持ち勇敢に仁王立ちしていた。肩までの艶のある黒いストレートヘアに、切れ長の瞳は、深く底なしの闇に吸い込まれそうな引力がある。眉目秀麗で、まさに美少女だ。体には白く丈の短い甚平のような衣類を纏っていた。どこか古風と言うよりも、原始的なイメージを抱いた。
「誰とは、こっちのセリフだ。そこをどけ。残りの奴らを仕留める。名を教えるのはその後だ」
意外にもハスキーな声での命令口調に気圧されかけそうになった。この怪しい生物が弓矢で殺れるというのであれば、いざとなれば俺がこの刀で一刀両断してみせる。ここはひとまず、少女の言う通りにした。
黒い生物は怒りの標的を俺から少女に移したようで、素早く地面を這っていく。その動きはやはり蛇のようだ。両者の距離は約十メートル程。もし弓道をやっているというのであれば、狙える射程距離だろう。だが、手にする道具は弓道具ではなく、本当に原始的に木でつくられた弓と矢だった。が、
――シュン
俺が余計な事を考えている間に、一本の矢は黒い生物の頭部に命中していた。目をひん剥きパカリと開いた状態で、やはり消滅していった。その間にすでに最後の一匹も一寸の違いもなく見事射抜かれていた。俺はその残像をボゥと眺めて立ち尽くしか他ない。
「――私は、百田透花という。おまえが島の部外者だという事は一目で分かる。故に、鳥居を無視して神社へ近づこうとしたのは、見逃してやろう」
いつの間にか自己紹介され、その上、お咎めを食らった。
「透花……ちゃん?」
「ちゃん付けはいらない。呼び捨てにしてくれ」
「それはOKだけど、俺の名は聞かないワケ?」
「必要ないが、では聞く。なんだ?」
「大道蛇功。俺も呼び捨てでいい」
ニッコリと笑いながら握手を交わし、得体の知れない敵から命を救ってくれた事を感謝しようとしたのだが……、
「今すぐ帰れ。ここは危険だ。部外者が一人うろつく場所ではない」
端麗に整った顔立ちで、機械のような無表情で冷たい一言を浴びせられる。
「いや、危険なのは今ので分かったっていうか、なにあれ? 蛇に見えたけど……てか、消える? フツー」
「おまえの〝フツー〟がどういうものか知らないが、今のは邪霊のようなものだ。実体はないが、おまえのように知識のない者には、あたかも存在するかのように見える。先程、おまえは呪い殺されるところだった」
この島は〝普通じゃない〟のではなく〝異常〟と頭の中で変換した。御札だの、黒い物体をした邪霊だの。もう、非科学的なものばかりだ。加えて、大渇水ときた。一体何が起こっているんだ、この島は。
「邪霊か、よく分からないけど……助けてくれて、ありがと」
礼を述べる。しかし、
「だからだ、よく分かりもしない人間がいるべき場所ではない。早く出口まで戻れ」
にべもない。俺が教えた名前はどこへいった。人間とかおまえ呼ばわりされている。せっかくの美少女なのだが、もったいない。
「いや、用が一つある。これ、この竹刀を俺は神社に納めに来たんだ」
「竹刀?」
じっとりたっぷりと訝しい目つきを向けてくる。遠慮もくそもない。正直な子は嫌いじゃない。こちらも正直に刀だと言ってみせようとしたのだが、
「うちは島以外からの物は奉納していない。だから、それ持って早く帰れ」
「いや、待ってくれよ。亡き祖父の遺言なんだよ。この島の神社へ還すようにって」
「還す? 元はこの島の物だったというのか? なんだ、その竹刀とやらは?」
もういいやと、竹刀袋から刀を取り出そうとした時だった。空気がざわついた。さっきと似ている。辺り一帯が不気味な雰囲気に包まれ、不快な感覚が全身を覆う。
「――きたな」
「さっきの邪霊ってやつか? 一体、どんだけいるんだ?」
「知らんが、一日にこんなに現れたりしない。やはり、おまえの影響としか考えられん。早く、ここを走って島から出ろっ」
言うや否や、黒い物体――邪霊が岩壁から飛び出すよう宙を舞ってきた。目にも止まらぬ速さで、それを透花が弓矢で射抜く。信じられない反射神経とコントロールだ。島で鍛え上げられた野生児とでも言うのか。
射抜かれた邪霊が消滅した時には、俺たちの周囲を六匹の邪霊が取り囲んでいた。
「っ、仕方ない。私の後ろから離れるなよ」
体をうねらせながら地面を這い、次々に襲いかかってくる邪霊を、透花が射抜いていく。だが、矢が足りない。落ちた矢を拾う間に敵はこちらに蛇のような鋭い牙を剥き食らいついてくる。
「――っ、蛇功!」
気づけば抜刀していた、この刀を。古びた木製の鞘から、銀色の刃が鋭く光る。磨き上げたばかりのように。少しでも触れれば切れてしまいそうな。そんな比喩のように、邪霊は切るまでもなく、振るっただけで頭部が二分し、霧散していった。
この今の一太刀で三匹を俺は一斉に殺った。もちろん、この刀を使ったのは初めてである。しかも斬った相手は生きたものではなく、邪霊だ。
残る一匹を射抜いた透花が「それは……?」と、俺と刀を交互に見る。
「この通り、竹刀じゃない。嘘ついたのは謝るよ。説明するのが面倒だっただけだ。と言っても、この刀が何なのかは俺も一切知らないんだ。ただ一つ、こうして鞘を抜けるのは、俺だけってことくらい。今のところ」
古い木製の鞘だ、つっかえているのかと思ったが、家族全員が抜こうとしたが無理だった。それがだ、俺にはスッと抜ける。祖父が俺にこの刀を託したのは、そういった理由ではないかと、あまり深く考えずに思っていた。
「竹刀だろうが、刀だろうが、あの邪霊を殺れるとは……。分かった、その刀については後日だ。とりあえず今日は、また邪霊が現れないうちに出口へ向かえっ」
俺は素直に従った。それは自分の身だけじゃなく、透花まで巻き込んでしまう危険性があったからだ。
岩壁の上を走る。出入口まで近づくと、ちょうど軽トラが坂道を登って来たところだった。
「蛇功。あぁ、良かった。もう少しで入れ違いになるところだったな。少し待ってたんだけどな、もう諦めるところだった。さぁ、乗れよ」
俺はちょびヒゲおじさんの姿を見るなり、安心して全身の力が抜けていくようだった。今のが全て夢のように思えてきた。
「竹刀は奉納できたのか?」
「奉納できてたら、まだ持ってたりしない」
「そりゃあそうだな。神主さんに断られたのか?」
「んーちょっと迷路みたいなあぜ道に迷って……今日は諦めた」
そう、俺は適当に言葉を濁した。邪霊のことを話しても信じてもらえないだろうという理由よりも、この一連について、まだ自分自身の中で整理が付けられてなかったからだ。
「そうか。じゃ、帰るぞ」
空を見上げれば夕暮れ時だった。助手席から遠ざかる島を眺める。あの少女――透花は無事だっただろうか。赤く焼け付ける太陽のように、脳裏から離れなかった。