この世のほかの思ひ出に
この間買ったギターの話。
近所のリサイクルショップの楽器コーナーを定期的に見て回るのが習慣だった。大手の楽器専門店ではまずお目にかかれないような、とんでもない掘り出し物がとんでもない破格で売られてたりするので、なかなかどうして飽きがこない。
ある日、入荷したてのそのフルアコースティックギターが、店の奥の方で展示されているのを見つけた。
長年世界的人気を誇るアメリカのメーカーの、数多のジャズギタリストが使用してきたことで有名な人気機種……と同じボディシェイプのギターだった。
半世紀以上前に作られたと言われても驚かないくらい年季が入っている。
見立てが間違ってなければ、表面のラッカー仕上げはおそらく人の手の仕事によるものだ。経年変化も合わさって、滋味深い艶を浮かべている。少なくとも見かけ上はかなり出来が良い。もしや本物のヴィンテージ品ではないかと考えてしまいそうになる。
とは言え、まず間違いなく、コピーモデルだろう。もし本物であれば、取引価格は三桁万円を下ることはない。それと比べると、目の前の値札には二束三文も同然な数字が並んでいる。その値段の理由が素人目でもよく分かる。
普通ならヘッドにブランド名が記されているところ、何も書かれず黒塗りのままになっている。リペイント済か、初めから何も書かれていなかったか。また、この形式のギターであれば、普通Fホールの中の木目なんかに製造情報などが載ったラベルが貼ってある。メーカー名や工場名、シリアルナンバーやロットナンバー、製造年月などなど。それがギター中のどこを見渡しても無い。そう言えば、本物にはヘッドかネックに製造番号が別途焼印されていると聞いたことがあるような。それも見当たらない。
ギターという楽器にありがちなことで、有名機種ほど多くのコピーモデルが製造され、本物よりずっと安価で出回っている。見た目から推測するに、1970年代頃の日本製か、中国か韓国あたりの近年モノ、あるいは個人製作の練習品が放出されたものかもしれない。最近はヴィンテージ“風”に仕上げる技術も日進月歩で、見た目をいかに古く見せるかに全力を注いだ新品同然のものという可能性もありそうだ。無論、それらの場合は出音も本物とは全く別物である。
よく見るとペグなどの金属部品は木材の部位ほど経年劣化を経ていないように見える。ただ、これらはいくらでも交換が容易な箇所なので、それだけで判断するのは現実的ではない。
もっとも、以上の点を差し置いても、値段を考えれば目の前のそれは相当なお値打ち品に思えた。見た目だけでもインテリアとして成立している。それだけで買う理由としては十分ではないだろうか。音も出ればなおラッキー、というぐらいである。
こんなド田舎の『ついでに楽器も取り扱ってますよ』というようなリサイクルショップで、良い音が鳴る本物のヴィンテージギターを安価で買ってやろうなんて考える人など基本的にはいない。持って帰ったあと調整や修理がある程度自力でできる人が、何か面白いモンないかなぁとか思いながら立ち寄る、そんな店である。
最近はこんなド田舎のこじんまりとしたリサイクルショップでさえ、オンラインモールで同時出品なんてことをできる便利な時代になった。とりわけ人気機種なら出品して間も無く買い手がつくということも珍しくない。しかし、いくらスマホカメラの画質が良くなろうと、出元が不明な品を、ましてや楽器専門店ですらない地方の雑貨屋のそれをクリック一つで購入してしまおうという勇気のある者はそうそういない。
店内は閑散としていて、バイトのおばちゃんが一人で店番をしていた。断りを入れて、その辺の適当なトランジスタアンプで音出しをさせてもらう。
久しぶりに声を出した、というようなくぐもった音が出てきた。案の定、ガリノイズが相当酷い。が、これくらいなら自分ですぐに直せる。それに素性もなかなかどうして悪くない。昔のしっかりした木材が使われていて、内部の電気系パーツが経年で劣化している、そういう音だと推測する。メーカー名さえ入っていれば、ジャパンヴィンテージなどというフワフワした売り文句で楽器専門店の店先に並べればすぐに捌けそうだ。それくらい悪くない品だということである。
購入する決心を固める時間はいらなかった。元より、こういう出会いを求めてこの店に通っているようなものである。
値札を見ると、買取り時と同じハードケースが付いてくるという。
店員のおばちゃんが持ってきた奥から引っ張り出してきたそれを見てギョッとする。
真ん中あたり、真一文字に大きく深い打痕が付いていて、内側のボール紙みたいな黄色い緩衝材が少しく剥き出しになっていた。どこか高いところから落下した跡みたいだ。普通の楽器店なら『薄手のソフトケースでよろしければ取り替えましょうか?』と確認してきそうなぐらいのダメージである。まぁ、家にいくつかケースが余ってるので、それに替えればいい。前の持ち主はどんな人だったんだろう、などと考えないではなかったが、持ち帰るために車に積んだ頃にはすっかり別のことを考えていた。こういう趣味を持ってると、そういう細かいことなどは気にならなくなる。
自宅で見てみると、やはりジャックがイカれていた。古いギターは大体ここが弱い。
この手のフルアコタイプは内部の空洞に配線が収納されているので丸ごと修理しようと思ったらかなりの手間になるのだが、これくらいなら自分でなんとかできる。実際、三十分とかからずガリノイズは直った。
しかし問題は、ジャックをボディから引き摺り出した時、内側に手紙が括り付けてあったことだ。
張り直した弦をチューニングしてから、ピックで弾いてアンプからの出音を確認する。長年ほったらかしになっていたことで、内側に閉じた感じの音になっているようだ。色々なギターに触るようになると『あ、このギターは沢山弾き込まれてきたんだなぁ』とか、大体分かるようになるものだ。
眼前のテーブルにはさっき見つけた手紙の便箋が畳まれたまま退けて置いてある。
こういう趣味を持っていると、時々こんなことに出くわすこともある。
なるべく前の持ち主のことなどは考えないようにすることが多いのだが、この奇妙なギターに関しては、これまでどんな遍歴を辿ってきたのか不思議と興味が湧いてきた。
当のギターは小脇に抱えたまんま、それとなくその便箋を手に取って、開いてみる。
一行目が視界に入った。
『ごめんね、実は、私はまだ死んでないんです──』
見間違いじゃないかと思って、眉根を揉む。目薬を差して眼鏡をかけ直し、もう一度手紙に目を向ける。
『ごめんね、実は、私はまだ死んでないんです。
なぜなら、私は生まれ変わったからです。このギターが私の新しい身体であり、新しい宇宙です。寂しいけれど、でもおかげで、私たちはもう離れ離れにならずに済みます。
この新しい宇宙の中で、私は自分なりの真理を悟りました。ほら、チカチカと、爆ぜて、鳴って、揺れてる。優美な屍骸が葡萄酒を傾けていて、私たちはまるで滝のようです。窓が回ってる。このブラザーは自由です。極彩色に滲んで。苦しいことは色々あったけれども、延々続く反復運動の中で効率化のために脳みそが神経を短絡、五本の指が一本の太い指にまとめられて、手足が胴体とひとかたまりにまとめられて、その延長線上にこの新しい身体があるのなら、それも必然なのかもしれません。
ああでも、あらざらむこの世のほかの思ひ出に……もし心残りがあるとしたら、やっぱり元の形ではもう二度とあなたに会えないということです。
でも、そんなふうに過去に縛られる必要はないんだと思います、きっと。
もし今の私に願うことがあるとしたら…………毎日私の声を聞いてほしい、毎日私を抱いてほしい、そして毎日私と一緒にいてほしい、それぐらいのことなんだと思います。私はいつでも、時の流れのほとりであなたを見つめています。
人は何のために生まれ、何のために死んでいくんだろう。道具は何のために生まれ、何のために死んでいくんだろう。この二つの問いは全く違うようでいて、本当は全く同じことなんじゃないかと思うんです。
上手く言えないけれど、これが、私の想いの全てです。今度こそ一緒に幸せになろうね。
ラブ&ピース。苺畑で待ってる。
200×年3月31日』
「あっ」
しまった。
その時、指の間に挟んでいたピックが滑り落ちて、Fホールの中に落っこちた。アコギやフルアコを弾いていると、しばしばこんなふうにピックがギターの中に入っていってしまうことがある。年を取ると指先が乾燥して手が滑りやすくなるからいけない。こうなると、取り出すのがちょっと一苦労だったりする。
構造上、ギターの内部の空洞は音がよく響く。反響しながらカランコロンと落ちていく音は遠くから、深い穴の底の方から聞こえてきたかのようだった。
どこに落ちたのだろうかと思って、Fホールの中を覗き込む。
するとちょうど、手紙の主のものらしき眼と視線が合った。
しっとりと涙を流していた。
すぐ横の、ためらい傷を思わせるささくれ立ったその木目には、自分も見覚えがあるような気がした。
便箋を畳んで、取り替えたジャックをもう一度取り出してその手紙を括り直してから、再びボディの中にしまい込む。
そのギターは今でも家のリビングにある。
ギターをどのように保管すればいいのかという話題になった時によく言われるのは、温度や湿度が一定に保たれた状態に保つべし、乾燥しすぎないようにボディに時々オイルを塗ってやるべし、などというものだ。
考えるに、あれは『人間の住環境と同じ場所に置いておけ』という話なのだ。要は、近くに置いて毎日ちょっとずつだけでも触ってやれ、ということなのだと思う。
人が生活を送れる環境であれば、木という自然素材でできたギターにとっても過ごしやすいというのは、なんとなく頷ける話である。そして、5分でも10分でも抱えて弾いてやれば、人の温もりや湿気、手の皮脂などが移る。そうすることで、ギターも少しずつ心を開いてくれるようになる。スピリチュアルなことを言っているように聞こえるかもしれないが、こういう趣味を長年持ってきた経験上実際そうなのだから仕方がない。
そういえば、本物のヴィンテージがどういう音を鳴らすのか、自分の耳で生で聞いたことがないということに今更気づく。
でも、触っているうちにこのギターもだんだん音が開いてきて、素朴で落ち着いた音を鳴らすようになってきた。この音色は他のギターでは替えがきかない。
それでいいんだと思う。
ある楽器屋さんの怪談話の動画から着想を得て書いてみました。ホラーのつもりで書き始めたはずが、なんだか自分でも不思議な出来になった気がします。
お知らせです。あと二作ほど書いているものがあるんですが、それらを公開し終えたら向こうしばらくは創作活動をお休みすることになりそうです。残りの作品もよろしければお付き合いください。