存在
真夏の暑い日だ。ただ俺は道を歩いて行く。とくに目的地はない。どうやらここは住宅地の様だ。歩いていると度々、人とはすれ違うのだが知り合いはいない。誰も俺には目を合わさないし関心も示さない。しばらく俺は歩き続けた。いつまでも歩き続けられそうだ。何故なら俺は体力的な限界を感じないからだ。実際は無制限の体力などありえないと思うのだが。どう思えるほどなのだ。しかし自分は結局、脚を止める事になるのである。精神的な疲労を感じたからである。そこで俺は公園のベンチで横になった。みるみるうちに意識が遠退いた。
「う・・・。」
眩しい日差しが目蓋を襲ってきた。うっすらと目を開けるとそこはどこかの浜辺だった。水着の老若男女が辺りを闊歩している。楽しそうな声が聞こえる。どうやらここは海水浴場の様である。
「ん?」
何故か都合がよく俺も水着だった。でもまあ良いのである。自分は泳ぎには興味がない。そこから起き上がるのは面倒だった。例により周りには知り合いらしき人はいない。誰も俺には目を合わせないし、関心も示さない。俺は再び眼を閉じた。しかし・・・。
(はっ・・・・。)
何者かの感触が俺の背中にあった。驚いてガバッと顔を起こすとそこには若い女の顔があった。
「日焼けするわよ。」
彼女は俺にサンオイルを塗っていたらしい。しかも無表情で。髪型はおさげで、いかにも学生風なのだが際どい水着だ。そのギャップさ故にが余計に目のやり場に困る。まあ正直気分は悪くはない。
(・・・・・!)
重大な事に俺は気づいた。この娘は自分に対して関心を示した初めての人物なのだ。勿論俺に話しかけてきたのも初めてなのだ。
「君は一体・・・。」
マジマジと俺は彼女の顔を見つめた。正直に言うと、その肢体にも目はいった。しかし娘に動揺の気配はない。あくまでも無表情だ。黙って俺にサンオイルを縫っている。とても心地よい。まったく今までの自分には縁がないような若い娘が身体に触れてきているのだ。恐らく今の俺は恍惚の表情を浮かべている事であろう。やがて俺の意識は薄れていったのであった。
(はっ。)
再び俺の意識は戻った。それも唐突にだ。見回すと、そこは年季の入った感じの和室だった。気が付くと俺は座布団に胡座をかいていた。
「現実を認識したようね。」
向い合わせで、若い娘が正座していた。
「はっ!」
そして俺は気がついた。この女は今はセーラー服を着ているが、先程に海水浴場で俺にサンオイルを塗っていた女ではないか。
「お、お前、さっきは水着で・・・。」
俺は身体を震わせながら少女を指差した。
「私は水着姿に見えたのね。」
若い女は真顔で答えた。
「は?」
その言葉の意味が理解できない。この女は何を言ってるのだろうか。
「うむむ・・・。」
俺はマジマジとセーラー服の少女の顔を見つめる。恐らく自分がまともに意志疎通できる相手は、この女くらいのものだろう。俺の事を認識する人間は、今までは一人としていなかった。
「貴方は自我が生まれて、実在する存在となる手前の状態なのよ。」
「なに?」
急に突拍子のないことを言われた俺は狼狽を隠せなかった。
自分にとって相手と会話するのは、この娘が初めてである。女はスクっと立ち上がった。その無表情に俺は若干の恐怖を覚えていた。そしてその自分の感性は正しい事が、間もなく分かるのであった。セーラー服の少女は右手を高々と挙げた。それが何を意味するのか、何故か今の俺には本能的に推測がついた。そしてその流れに逆らうのも無駄であることが、また自分には分かっていた・・・。彼女はゆっくりと、その右手を降ろしてゆく。その右手の行方を俺は目で追っていた。そして俺の意識は薄れていった。しかしそれはいつもの事とは明らかに異なる。自分の存在が薄れていくのだ。
「ごめんなさいね。」
俺は存在が無くなる寸前に、その言葉を聞いた。そしてすべてを悟ったのだった。そもそも俺は存在していなかったのだ。何かの拍子に霊体の欠片となった俺は、彷徨ううちに学習し成長して大きくなっていったのだ。そして霊以上の存在になりつつあった今、この少女に除霊されたのであろう。すべてを理解した俺の思考は、そこで途切れた。
~「存在」~ <完>