老紳士の昔話(1)
「懐かしいな。」
その高級車の後ろに座る老紳士は呟いた。彼の年齢は幾つであろうか、顔の皺はまさに年輪そのもので若いときから苦労を重ねてきたことが伺える。しかしその眼はとても鋭い輝きを放っていた。そのことから老紳士からはまだまだ生きよう、という意思が感じられるのであった。この辺りは、まだ古い建物が多くみられる街並みだ。そんな風景が少し落ち着くのであろうか、彼は外を眺め続けていた。
「旦那様、この辺りはご存じで?」
サングラスを掛けた運転手が老紳士に声をかけた。やはりこの老紳士はかなりの資産家か若しくは権力者なのであろう。
「ふう。」
老紳士は溜め息をついて、前を向いた。次の瞬間、彼は思いついたように言った。
「此処で休まんかね。」
「は、はい。」
運転手の返事は早かった。彼は目についた小さな喫茶店の事を指しているのが分かった。恐らく老紳士の癖は良く知っているだろう。迷わずに高級車は駐車場に止まった。そこに他の車は止まっていない。もう運転手は気づいていた。今までの傾向から察するに老紳士が間を作りたがるときは、たいてい何かを語るときなのだ。だから余り多くの人が集まらなさそうな(失礼)、この店をえらんだのだろう。喫茶 弓 この店の名はそうらしい。速やかに二人は入店したのだった。
「いらっしゃいませ。」
渋いマスターと、とても若そうだが綺麗なウェイトレスが迎えてくれた。第一印象は悪くはない。
「ほう。」
古びてはいるが、なかなかこ洒落た内装だ。絵画や置物が自己主張しすぎなく、それでいて重厚な存在感を醸し出している。
(これはこれで、旦那様の趣味に合っているかも。)
率直に運転手は思った。
「よいしょ。」
どっかりと老紳士は着席した。いつも手すりのある椅子に座っているのだおう。老紳士は両腕に違和感を感じていた。しかし直ぐに順応しようとしていた。不満は感じていないのだ。
「ご注文はお決まりでしょうか。」
ウェイトレスが注文を取りに来た。美しい外見だが、改めてみるとかなり若い。10代の女子高校生であろうか。この若さで美人の雰囲気を持つとは、誠に末恐ろしい娘である。
「モカでよろしいですね。」
運転手の言葉に老紳士は黙って頷いた。
「モカ2つですね。」
ウェイトレスは注文を受け取った。二人の間に沈黙が流れた。別に気まずい雰囲気と言う訳ではない。何もしない時間というのも老体にとっては必要であろう。運転手の心遣いを老紳士も感じているのだ。
「モカでございます。」
珈琲がテーブルに来た。
「ごゆっくりお召し上がりください。」
ウェイトレスは丁寧にお辞儀をして、厨房へを消えていった。精一杯の礼儀を尽くしている事が伺えて、とても初々しい。そんなうら若きウェイトレスの振る舞いを見て、「まだまだ子供だな」、とほくそ笑む運転手なのであった。一方で彼は思う事があった。それはやはり彼女なりに、老紳士がそれなりの人物であると感じていたせいなのかも知れない、と。
「上手いのう。」
モカは珈琲豆の中ではそれほど高級な部類には属さない。また世界最古のブランドと言われているそうだ。フルーティーでコクがあるのだ。そんなモカ珈琲を、この老紳士は愛している事を彼は知っている。
「建朗よ。」
「はい。」
建朗とは、この運転手の名であった。ファーストネームで呼ぶ辺り、この老紳士が彼の事をどのようにも思っているかの一片を垣間見える。
「お前はワシにとっては孫のようなものじゃ。」
「ありがとうございます。」
老紳士には身寄りがいなかった。これまで独身を通し、妾といえる存在もいない。彼ほどの財力と権力があれば、家庭を持つことなど造作もないはずなのだが・・・・。
「ワシはのう、つらい事に余り人が信じられないのじゃ。」
「そうなのですか。」
運転手は老紳士の言葉を否定はしない。サラッと合図地を打つ。そこに作為はなく、自然な反応だ。そんなところが、老紳士が彼を気に入る理由なのかもしれない。
「これから話すことは今まで誰れにも触れたことがないのじゃ。」
「・・・・そうですか・・・。」
「もう墓場まで持っていこうと思っていたのじゃがな。」
「はい・・・。」
「じゃがもうワシも齢を取り過ぎたのじゃろう。肉親以上の間柄のお前じゃ。ワシの過去を知ってほしいのじゃ。聞いてくれんかのう。」
「はい。分かりました。」
そして老紳士は自分の身の上を、お抱えの運転手に話す事になったのである。しかしそれだけでは無かった。
「ふふ。もし忙しくなかったらで良いのじゃがのう。」
「はい?」
運転手は老紳士の言っている事が分からなかった。
「お嬢ちゃん。」
「・・・・。」
先ほどのウェイトレスがヒョッコリと顔を出した。こうした仕草をみるとまだ子供である。
「お暇があるなら、お嬢ちゃんもこの年寄りの皆上話を聞いてくれんかの。まあ最も忙しければ仕方ないがのう。」
「いえ、お客様は他にいませんので。今は暇です。」
「こらこら、弓。」
続けてマスターも顔を出した。雰囲気から察するに二人は親子なのだろうか。どうやら娘の言う通り、このマスターも暇なようである。
こうしてこの老紳士はお抱えの運転手と、初対面の喫茶店のマスター、ウェイトレスの3人に自身の身の上話を聞かせる事となったのである。
<続く>




