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雑居ビル

作者: 工藤一将

 毎日通っている道だ。歩いて。古ぼけた雑居ビルがふいに目に入った。工事をやっている気配などなかったから、ずっとそこにあったに違いない。自分が中年に分類されるようになってから、記憶力は頼りにならない。先日、駅前にフランチャイズのうどん屋ができた。すると、うどん屋は以前何であったかすっかり思い出せなくなってしまった。妻に聞くと、本屋だったらしい。

 なぜ、今日はそのビルが在ったのだろう。見た目は昨日までと大きく変わらない、はずだ。何か興味を引かれるような新たなテナントでも入ったのだろうか。そのビルへの入口は、すれ違うのも難しそうな階段だけ。入口の横に、テナント名を羅列したプレートが並んでいる。プレートだけは立派に金で縁取られていた。十ほどの団体が巣食っているようだ。見たことも聴いたこともない名前ばかり。とても企業と思えないような名前もいくつかある。それに明らかに外国語のような名前も。ただ、テナント名を凝視しても、今日の私にビルの存在を気づかせた理由には思い当たらなかった。

 わずか数秒、思いを巡らせた。こんなところで立ち止まっている時間はない、駅への道を急ごう。からまったコードをそのまましまい込むような後味の悪さを感じながら、一歩踏み出した。今日は始業前に片付けたい雑用がいくつかある。にわかに、再びこのビルに惹きつけられるような感覚が襲ってきた。あっ、これは。匂いだ。ほのかに香るりんごの匂い。きっとそうだ。自分はこの匂いに呼び止められたのだ。ささやかな甘さを伴ったりんごの匂い。

 古い記憶がよみがえる。秋風が肌をなでるような時期になると、実家の仏間にはどこからともなく木箱に入った大量のりんごが運び込まれた。毎日のように祖母が皮をむき「食べへ、食べへ」とすすめてくれた。その頃、そんな毎日がずっと続くと思っていたし、りんごを毎日のように食べるのも飽き飽きしていた。いつまでも続く日常だと思っていた。すでに祖母が亡くなって十五年になる。

 祖母の死までの道のりは壮絶だった。痴呆を起因とした徘徊・幻想・暴力は、両親を数年にわたって苦しめた。日常は、あっさり崩壊した。日常などどこにもないと思った。いつまでもいつまでも、常なるものなどあるはずがない。それでも人はいまを日常にしたくなる。いつしか祖母の痴呆が日常になった。あえて自分を鈍化させ日常を創り出さなければ、現代社会では生きられない。日常はどんどん書き換えらていった。そんな現代でも、りんごの匂い一つで呼び起こされる過去がある。それはきっと、時がたち埃にまみれても、忘れてはいけない記憶なのだろう。

 祖母は最後、力なく枯れるように亡くなった。病室にいくたびに誰とも判別がつかなくても、最後には「どうもどうも、またよろしく」と見送られた。祖母の命日が近い。深まる秋に衿を立てながら「今日、帰ったら実家に電話しよう」と思いながら駅への道を急いだ。

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