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かれら

作者: 四宮

 その人は長いあいだわたしの顔を見ていた。

 わたしはその人がいつわたしに心ない言葉をかけてくるのかと待っていた。その人は、わたしがこれまでに経験したよりもずっと長い時間、わたしを見つめていた。

 そして、初対面のわたしに向かって天気の話でもするかのように「あなたがまばたきするとき、こめかみに思いもよらない皺ができて、その引き攣れが天鵞絨に作るドレープのように美しかったので、あなたのまばたきを待っていました」といった。

 わたしは自分の身体の、所作の、なんであれ、これまでに美しいといわれた経験がなかった。その人がいったいわたしのなにを美しいといったのか理解できなかったが、その人はわたしの表面、肉体の上に美しさを見出したというのだった。

「わたしをひとめ見て唾を吐きかける人もいますよ」

 わたしはなんでもないことのようにいった。その人は、わたしが言葉を発したことに、あるいはその内容について、おどろいた顔をしてみせた。

「わたしを見て、嫌悪感を隠さない人は大勢います。あなたはわたしの顔をずっと見ていて、気分をそこねませんでしたか」

「いいえ」

 その人は深淵のような深い闇の色をした瞳で、わたしを見つめていた。

「わたしがあなたの顔を見ているのは、初めて見る顔だからです。わたしがこれまで見た人の顔、形の中にない形容で、とても刺激的です。わたしは新しいもの、初めて見るものに敏感です。どこにも帰属しない魅力的な姿があるからです。あなたを見ていると、わたしの心に波紋が立つのを感じます。わたしの神経を逆なでして、興奮させます」

「それを人は不快と分類します」

「あなたがこれまでに接した人々の中に、わたしはいませんでした。あなたがわたしにとって初めての存在であるように、わたしもあなたにとって初めての対象である、と考えてください。わたしのまなざしも、思考も、ちがうのがわかるでしょう」

「はい」

 わたしはその人の存在を居心地わるく感じた。いつもは、わたしこそが他人を居心地わるく感じさせる存在であるのに、役割が変わってしまったようなとまどいがあった。

 触れてもよいか、とその人はたずねた。だれもが避けて通るわたしの手に触れたい、というのだ。わたしは言葉で返事をすることができなかった。ただ、震える手をその人に向けてさしだした。その人は、わたしが着物の袖をまくり上げるまで、動かなかった。わたしが自分の手で長い袖をまくり上げてみせると、その人はわたしに向かって両手を伸ばした。その人の手が、まず下からわたしの手をささえ、それから大切なものに触れるかのようにそっと指先で触れて撫でた。あたたかい指先だった。手のひらはさらにあたたかかった。その人は両の手でわたしの手をつつんだ。その熱が、わたしの胸を打った。

 わたしはこれまでに他人からそうした丁寧な手順をふまれた経験がなかったため、どうしたらよいのかわからなかった。このままさらわれてしまうのではないか(さらわれてしまいたい)、とありうべからざることを考えた。

 その人は、やはり長いあいだ、わたしの手をつつんでいた。のこされた片手が嫉妬するほどに。いや、なにより、その人の手の中にある手以外の、わたしの肉体すべてが嫉妬していた。わたしはおそろしかった。わたしの肉体は、わたしのものであるのに、その人の手の中にあるわたしの手は、まるでわたしのものではないかのようだった。わたしからはなれて、すっかりその人のものになってしまった。そうありたい、と手が望んでいるのがわかる。手が、つまりはわたしが、その人のものになろうと望んでいる。

 たかが言葉に心を揺さぶられ、やさしく手に触れられただけで、このようにあさましい考えを持つほど、わたしは弱い存在であったのだ。厚く長い着物に隠しているうちに、錯覚してしまった。弱さを隠しているうちに、自分が強くなったとかんちがいしていたのだ。泣かなくなったのは、むきだしの心を上手に隠せるようになったからだ。うちに秘めて守ってきた心を、その人はやすやすと見つけ出した。いや、わたし自身が、みずから望んで差しだしたのだ。

 わたしを見つめた目によって、言葉を発した口によって、わたしに触れた手によって、わたしはとらわれた。わたしはすっかり、その人の前にわが身を投げ出してしまった。だから、つれさられるのが当然だった。そうしてくれなくてはこまる。いまとなっては、ただひとりわたしがどうしてここにいられようか。

「おいで」

 とその人がささやいたとき、もう手ばかりがその人の手中にあるのでなく、わたしそのものが呼ばれたのだと知った。風のような一瞬のエスコートで、わたしはその人のとなりに並んだ。

 その人は大きな黒いマントを広げて、自分とわたしとをつつんだ。マントの中で、わたしはこれまでになく他者の近くへ寄りそった。その人はわたしの肩をだいた。

「いこう」

 それきり、わたしたちは歩みをそろえて街を抜けた。

20210822

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