指輪と星
親友に会いに行く。
「三つの願いが叶う」恐ろしい指輪を手に。
自分の死が確定する前に。
なお世界観・時代背景は、19世紀のロンドン近郊くらいですかね。ざっと二百年前。
でも、工場の煤煙、長時間の過酷な労働、低賃金、子供の労働者…今でも世界にある事象です。
今進行中のあの侵略戦争も、やり口とか方向とか、百年程度前の、なんですけど。
たった一つ、違うものが、彼の手の中にある。
風は弱く、夜空は白くにごったままだ。星ひとつ、月光一筋ない空がもう何年続いているのか。それともほんの数箇月なのか。
町の真ん中に建った工場は、朝も晩も黒い煙を吐き続け、青空を汚し太陽を隠し夜空の光も塗り潰してしまった。
ぼくらはまだ星空や満月の明るさを覚えているけれど、年少の子たちはもう本物の星を見たことがない。星座版やプラネタリウムで見るのが精一杯になるだろう。もしかしたら、星とか月とか、そんな言葉さえ忘れる日もそう遠くないのかもしれない。
工場がすべて悪いというわけじゃない。
工場ができて町が豊かになったのも本当だ。ぼくの一家も工場で働いている。友達の家だってそうだ。日々のパンは少し大きくなり、食卓の皿は一品増えた。おなかを空かして眠る夜もなくなった。工場は確かに、ぼくらに幸せを分けてくれている。
でも。
でも。
遠くに見慣れた色のランプ。かむるの家だ。
かむるの家は峠の宿屋だ。町へ行くには結構な道のりになるので、峠越えの人々が多く食事とベッドを求めてやってくる。おかげで繁盛しているが、その分かむる達こどもは苦労しているようだ。
戸を叩くと、かむるが顔を出した。
かむるの肩越しに室内が見える。宿のほうはいつもと同じく繁盛していて、おばさんがテーブルの間を軽やかに飛び回っていた。少し大きくなったかむるの妹たちがそれを手伝っている。かむるは今夜は子守の番らしい。背中に、今年生まれた弟を背負っている。
「こんな遅くに、どうしたのさ」
ちょっと驚いたふうにかむるが目を円くした。
お別れを言いに来た。
言おうと思った。
言えなかった。
なんて言おう、なんて話そう。
ぼくが今夜いなくなるなんて。魔法の指輪のちからを借りて、きみに逢いに来たなんて。
かむるは信じてくれるだろうか。驚くだろうか。
悲しんでくれるだろうか。
ああ、きっと。
でも、今言うのは残酷だと思った。
どうせすぐ分かる。でも。
いま、言えない。
ぼくが言えない。
んーん、とぼくはごまかした。
「明日、学校行くよな」
「あした? 学校で何かあるのかい」
「別にないけど。ただなんとなく」
いくよ、とかむるは答えた。
よかった。
ほんの少し、よかったと思った。
ぼくがいなくなったことを、かむるはひとりで聞かなくて済む。
「かむる。あのさ、あの」
言いかけて、自分が何を言いたいのかわからないことに気づいた。
確かになにか、とてもたくさんあった気がしていたのに。胸がはちきれるほどににたくさんあったはずなのに。全部全部、炭酸の泡のように弾けて散ってしまうのだ。喉を通らず消えてしまうのだ。
黙ってしまったぼくを、けれどかむるは急かさなかった。ぼくの言葉を、黙って待っていてくれた。
だから。
「そうだ。今ひとつ、たった一つだけどんな願いでも叶うとしたら、どんなことを願う?」
だから願おう。君のために。
ぼくのだいじな君のために。
一つだけ? とかむるは鸚鵡返しに訊き返し、ちょっとの間首を捻っていたけれど。
「星」
そう答えた。
「星をね、見せてやりたい。弟たちも妹たちも、ほとんど星を覚えていないんだよ。
それにぼくも見たいんだ。ほら、工場の建つ前の最後の冬に見たオリオン座。脇で光る大きな星はシリウス。寒いのにずっと空ばかり見上げて」
そうだね。そのあと二人とも風邪を引いて、ぼくが三日、かむるが一週間休んだんだ。
なんて遠い走馬灯。春も夏も秋も冬も、変わりはしないと、いつまでも巡ってくるのだと信じていた。
信じていたのに。
気づいたときには、いつも手遅れ。
あした学校に来いよ。震える声を押さえて、ぼくはかむるの目を見ながら言った。
行くよ、とかむる。
「じゃあな」
ぼくは自転車にまたがった。
「また明日」
かむるは戸口で、弟をおんぶしたまま手を振った。
明日は、ない。
「……さよなら」
ようやく、言えた。
「ばに!」
かむるが急に、不安そうな声でぼくを呼んだ。だけどぼくは振り向かなかった。
ぼくは自転車を漕いだ。幻の自転車のペダルを踏み抜くほどに漕ぎ続けた。宿の光が、かむるの姿があっというまに遠ざかる。
さよなら。さよなら。さよなら。
不思議と、涙は出なかった。
喪うのはぼくじゃない。
喪われるのがぼくなだけ。
悲しむのはぼくじゃない。
悲しませるのがぼくなだけ。
だからせめて。
指輪よ叶えろ。これが最後のひとつ。
自身のために他人のために、そんなことは関係ない。黒小人の思惑なんて知ったことじゃない。あの光の柱だって、光れるものなら光ってみろ。
ぼくは願う。
どうか今夜だけでも。
かむるや、かむるのかあさん、弟や妹、町中のみんなが、きれいな星空を見ることができますように。
きらめく星々を見られますように。
どうか。
どうか。
ポケットのなかで指輪が光る。小さく何かを囁いている。
目の前が徐々に白くなる。白い光が天から溢れてくる。
不思議と怖くはなかった。
さよなら。
さよならかむる。
さよならみんな。
さよならぼくの好きだったひとたち。そしてぼくを好きだったひとたち。
指輪がポケットから飛び出す。それは星色に輝いて、くるくる回りながら空に昇っていった。
黒小人は喜ぶかしら。それとも、たいしたことないと放り出すかしら。
そんなことはもう、どうでもいいけれど。
とりあえずかむる。君にあえて良かった。
さいごに。
ありがとう。
おやすみなさい。
<Fin.>
水に落ちた少年と、後で知らされる彼の親友。
そのセットで一番有名なのは「銀河鉄道の夜」です。
お名前は、そこからいただきました。
ここに辿り着き今更「知らない」「読んでない」なんて人はいないと思いますが。
どうぞこの機会に、もう一度、本を手にしてください。