ある日の午後
ああ、そうか、今月はそろそろだっけ。
髪をすいて、朝食を取ろう。
眩しい陽の中に入り込み、歌を口ずさむように。
顔を洗いながらやはり昨日のことを考えてしまう。
『アンチシールド!!』
熱中症や疲れによる幻じゃないなら……。
一体なんだっていうのよ。
吐き捨てるように考え、同時に歯磨き粉を吐き出した。
髪の毛を縛り、制服に着替える。
身支度はこれで大丈夫。
朝ごはん、食べよう。
「あら、おはよう。」
「うん。おはよう。」
「今日は小豆トーストよ。」
「へ~。」
横目で確認すると、時計はすでに7時を指していて、まだ30分はゆっくりできるなと。
こういうゆっくりと取る朝食が、何気ない日常が、たまらなく愛おしくて、かけがえのないようなものだと……。
そうおもうんだ。
「お茶はどうする?」
「頂戴。ありがと。……ルイボスティー?」
「そうよ。朝は暖かい飲み物がおいしいでしょう?」
確かにそうかもしれない。
体の芯から温められると、何か安心するんだ。
「……そうかも。」
少し笑うことができたと思う。
居間のテレビからは朝のニュースと天気予報が流れていた。
「今日の降水確立は90パーセント以上です。折り畳み傘をバッグのお供にどうぞ。」
「あら、ひゃく、傘持っていきなさいよ。」
「そうだね。」
新聞紙越しに声が飛び交う。
こういう相手を信頼しきったやり取りは心地がいい。
目玉焼きとプチトマトを少しはやめに食べる。
「ごちそうさま。いつもご飯ありがとうね。」
「ううん。食器は水につけておいて。」
「うん。」
「もう一杯貰ってもいい?」
「ええ、いいわよ。」
湯気を立ち昇らせながら注がれる赤い液体。
「時間は大丈夫なの?」
「うん。後、10分くらいは。」
「今日の8位はかに座です。」
朝のニュースも占いのコーナーに移った。
「そろそろ行くね。」
「うん。いってらっしゃい。」
玄関を通ると、灰色の空間が広がっていた。
今日は曇りらしい。
夏の雨の日。
独特のにおいがする。
丹田のあたりが重く、痛い。
全身におもりがついているような。
まるで私の周りだけ重力が倍増したような、そんな感覚。
雨の日、それだけならよかった……。
玄関を右折すればいつもの通学路だ。
そうだ、今日もいける、いける、いける……。
「ねぇ、つっきー、大丈夫?」
「ん……。」
一限前の読書の時間、しかし、気怠く、眠い。
いや、眠くはない。
しかし、体に力が入らないタイプの疲れだ。
ダウナー系……。
「……。」
何だろう、右斜め後ろから視線を感じる。
あ。
霧崎くん……。
どうでもいいか……。
こういう体がきついときは、他のことはどうでもよくなる。
昨日のことは何だったのだろうか、聞こうとしていたのに。
早朝した玄関での決意なぞ簡単に揺らぐとでも言いたいのか。
この体は。
そうだ、落ち着こう。
どうせホルモンバランスの変化だ。
エストロゲンがなんだ。
脳をトランス状態までもっていこう。
現状確認だ。
一時限目まで、あと五分。
最初の授業は国語。
昨日した古文のテストだ。
「いける……いける……。」
私も周りを気にせず、男子の様に机に突っ伏して眠りにつきたい。
それくらいつらいときもある。
結局、昼休みになっても痛みは続いた。
一応、トイレで気を静めるように努めた。
気持ち楽になった。
いつまでたってもなれないな。
この痛みには。
ポケットから出したハンカチを、少し顔に被せる。
ラベンダーの匂いがした。
そうだ、今日は君島さんとお昼を食べる約束だ。
はやく行こう。
「あ……。」
「……。」
「か、界くん……?」
トイレから廊下の角を曲がると、霧崎くんがいた。
そうだ、思い出した。
昨日の疑問が、起きたことが、朝の決意が、洪水のように押し寄せた。
そして、戸惑い、言葉を失った。
「あ……、ごめんなさい。名前で呼んじゃって。馴れ馴れしかったよね……。」
「いや……俺は……。」
あ、昨日の松葉づえがなくなっている。
「好きに呼んでくれていい……。」
この人はいつも思いもかけないことを言う。
「そう……なんだ……。」
返答として何かおかしいような、気の抜けた返事をしてしまった。
「朧月さん……。」
「は、はいっ。」
声が上ずってしまった。
「手、握ってもらっていいかな。」
「え……?」
彼は少しばつが悪そうに言った。
「馴れ馴れしかったかな……。」
俯いた、悲しい笑顔だった。
人見知りな私は、咄嗟に彼の意見を否定できなかった。
言葉では。
「じ、じゃあ……。」
手を洗ったとは言え、厠から出てきた直後だ。
用も足していないのに、手も洗ったのに。
胸が。
鼓動が。
はやくなる。
「エルホ……ラング……。」
つながった彼の右手と、私の右手。
その手の平の周りが、優しく光った。
蛍光灯のような優しい光りかただった。
「それじゃあ……。」
そう言って彼はどこかへと言ってしまった。
「あ、つっきーじゃん。探したんだぞー。」
「き、君島さん……。」
「一緒にお昼食べようって言ってたじゃん。行こうよ。」
「え、う、うん……。」
「つっきーさぁ……。」
君島さんに見つめられる。
「なんか、いいことあった??」
「へ?」
「いや、なんか今日は朝から元気なかったからさ。今はすごい顔色いいよ。」
「そんなこと……。」
女子トイレの鏡を見ると、確かにいつもより肌がきれいな気がした。
「そういえば……。」
朝から続いていた鈍痛がなくなっていた。
「なに??やっぱ何か心当たりあるの??」
「ううん……、でも、確かに朝より調子はいいみたい。」
「そっかー……。」
君島さんは何か言いたそうだった。
それでも、次には満面の笑みを浮かべて。
「じゃあ、教室もどろっか!!」
昨日の約束を果たしてくれるのだった。
昨日の約束、今日の風景、変わらぬ三人。
「うん。ありがとう。」
君島さんに礼を言い、教室でお弁当を食べた。
「そういえば、昨日はどうだった??」
「ああ、あの転校生、どんな感じだった??」
お箸を持つ左手とは別に、弁当箱に添えている右手に意識が行く。
『エルホ……ラング……。』
「悪い人じゃ……ないのかな……。」