夏風、夜空に響く
「ひゃくー、はやくお風呂入っちゃいなさい。」
今日の晩御飯は野菜炒めかな。
「うん。先に入るね。ありがと。」
視界がゆがむ。
「あら、どうしたの。足元ふらついてるじゃない。」
「ああ、うん。大丈夫。ちょっと疲れてるみたい。」
「そう……、気をつけなさいよ。今日だって帰り遅かったじゃないの。」
「うん。ありがとう。」
出汁と油の混じった匂いだ。
扉を閉めて一息つく。
誰の視線もない空間で、気が緩んでしまう。
持ってきたバスタオルも心なしか歪んで見えた。
液体の繊維。
さて、お風呂の準備をしよう。
入浴前に櫛で髪をすいていく。
この準備している時間も結構好きなのよね、さて。
「フー……。」
締め付けていた服をおいていく。
やはりお風呂はいい。
物理的に纏っていたものを無くしていくと、心なしか心も解放されていく。
ふふ、心なしに心が、ね。
かけ湯をした後、シャワーを使う。
ぬるま湯でゆっくりと全体になじませるように。
人肌程の温もりにふれて、私はなんだか安心していた。
髪全体に水分が行き渡ったら、シャンプーを使う。
こだわりとしては二回ほど押して多めにシャンプーを使うことだ。
手のひらで少し泡立ててから、優しく髪になじませる。
気持ちいい。
1日の終わり、休息の間、汚れが落ちていく快感……。
ゆっくりと過ごす時間は大切なのかもしれない。
そうだ、今日は手入れの前に湯船につかろう。
「ふぅー……。」
『なあ、朧月、例の転校生のことなんだけどな……。』
『霧崎……、霧崎……界。』
今日はいろんなことがあったな。
委員長としていろんな仕事があったけれど、まさか転校生の案内をすることになるとはね。
転校生、転校生か……。
「霧崎くん……か。」
どうしてこの時期に転校してきたのだろう。
相手のことを詮索するつもりではないけれど、やはり気になってしまう。
ま、考えるだけなら大丈夫でしょ。
もちろん本人がいるわけじゃないから、これはただ、私の妄想。
まだ一日しか経過していないが、なんというか、不思議な人だった。
それでいて寡黙。
前の学校で何かあったのかな?
正確なことはわからないし、まあ、いいでしょ。
さて、そろそろ手入れをしようかしらね。
コンディショナーはどこだっけ。
「お母さん、私、先に上がったから。」
「ええ、晩御飯できたから、食べましょう。」
「うん。ありがと。」
「あら、今日はもう寝間着?」
「うん。後で予復習したら今日は寝ようかなって。」
「そう。」
食卓の前で正座する。
居間に置いてあるテレビからは、旅行の特集が流れていた。
「いただきます。」
「いただきます。」
今日の夕ご飯はご飯、お味噌汁、シンジャオロース、お漬物だ。
なるほど。
お風呂に行く前の、あの油の匂いはシンジャオロースの匂いだったのね。
野菜炒めと油の匂いの正体。
それがわかったところで、私はお味噌汁をいただく。
おいしい。
温かい汁物が体に注がれる感覚が好きだ。
満たされていくようで。
この熱だ。
味も好きだが、この熱量が好きだ。
そして飲み込んだ後の、鼻孔から抜ける味噌の香りも。
「学校はどうだった?」
「うん。楽しかったよ。」
「そう……。」
「そろそろ課題テストがあるし、予習しておかなくちゃ。」
「あまり詰め込みすぎないようにね。」
「うん、ありがと。」
「ごちそうさまでした。」
「ごちそうさまでした。」
「食器持っていくね。ついでに洗い物も。」
「大丈夫なの?今日は休むって言ってたじゃない。」
「大丈夫。ご飯食べたら元気になったから。」
「そう。なら、頼むわ。」
「うん。ゆっくりしてて。」
お茶碗にお箸、大皿にお椀。
色とりどりの食器たち。
綺麗にしていこう。
そうだ。
食後のお茶をいれよう。
「お茶入れたけど、飲む?」
「それじゃあ、頂こうかしら。」
銀色のやかんから湯気が出る。
緋色の液体を注ぎながら。
「それじゃあ、部屋に行ってるね。」
「ええ。歯磨きはした?」
「うん。今日はそのまま寝ちゃうね。」
「はい、おやすみ。」
「うん。」
「おやすみ。」
冷房をつけていたので部屋はすでに快適な温度だった。
勉強机で少し休む。
明日は英語と古文の小テストがある。
数学もあるので、予習もしておかないとね。
「よし。」
やるか。
まずはテストがある英語から。
単語を覚えるのはノートに書く。
音読しながらね。
テンポよく、手で覚えるように。
古文はあまりに書かない。
単語帳を眺め、部屋の中を少し歩きながら読む。
五感を使いながらのほうが、よく記憶に残る気がする。
時間が遅いから声は少し小さめに、ね。
最後の数学は、テストがあるわけではないので、今日習った問題の類題を少し。
類題の証明方法も少しやっておこう。
そんなこんなで予習、復習をしていた。
うん、いつも通りだ。
「あれ、もうこんな時間……?」
時計はすでに22時を指していた。
もうこんな時間か。
粗方片付いたし、今日はもうやめようかな。
入れてきたお茶も温くなってきたし。
最後に一気に飲もう。
寝る前に水分補給はいいね。
温い茶葉と柔軟剤の匂い、眠るにはいい。
シャンプーや石鹸の匂いも好きだ。
一人でいるときは、手の甲の匂いを嗅ぐ時があるのよね。
手を洗った後とかに。
さて、もう時間も時間、はやく寝よう。
電気を消して、っと。
寝る前に冷房も消さないとね。
窓も少し開けよう。
「ふぅー……。」
気が付くと、息を吐いていた。
今日は疲れた。
転校生も来て、不慣れながら委員長としての仕事もした。
少しずつだけれど、この性格も治ってるのかな。
今日もいつも通りだった。
ゆっくりと瞼が下がってきた。
おやすみ。
『そっかー、じゃあがんばれよ、つっきー。』
『いや……、俺は部活は……いい……。』
『危ない!!』
誰かが言った。
それでも私は今日の仕事の疲れからか、半目になっていた。
気が付いた時には、ボールは私の半径1メートル近くまで来ていた。
瞳孔が開く。
「……アンチシールド!!」
私の目の前に、三層の青い六角形が現れた。
慌てて駆け寄ってきた野球部員に大丈夫か尋ねられた。
私は大丈夫とだけ答え、しばらく放心状態になっていた。
疲れて幻でも見たのだろうか。
『……朧月さん。』
「はっ……!!」
瞼を閉じる前と同じ天井があった。
少し不安だ。
受けた衝撃以上に動揺しているのがわかった。
辺りは薄暗く、誰もいない。
静かだ。
変に冷静で冴えている頭と、動揺を隠しきれない心臓。
謎の転校生……。
『霧崎……、霧崎……界……。』
……。
幻じゃ、無かった……。
窓からは温い風が吹いていた。