立冬③
初めてこのカピバラを見た時、着ぐるみだから当然、中に誰かが入っていると思っていた。
でも、そんな考えはいつの間にか消えていた。カピバラもタスマニアデビルも、理の外の存在だ。常識の考えでは、当てはまらない連中だからだ。
そのカピバラの中身が、まさか女性だったとは。年齢は三十歳くらいだろうか?声も機械音じゃない。生身の声だ。
「······お母さん······?」
魂が抜けたように立ち尽くす彼方が、小さく呟いた。彼方のお母さん?あのカピバラが?確かにあの女性は、彼方によく似ていた。
女性は、着ていたカピバラの着ぐるみを脱いで行く。女性は白いブラウスに白のカーディガン。黒のタイトスカートを着ていた
。
あれ?これって、昨日彼方が着ていた洋服だ。女性はしばらく彼方を見つめていたが、ゆっくりとこちらに歩いて来た。
その歩みは、駆け足に変わり、女性は彼方を抱きしめた。
「······大きくなったわね。彼方······本当に大きく」
「······お母さん?やっぱりお母さんなの?」
女性は彼方を引き離し、彼方の顔を見つめる。
「そうよ彼方。あなたの母親よ」
女性の両目から、涙が溢れた。それを見た彼方の涙腺は、十七年分の想いと共に決壊した。
「お母さん。お母さん!お母さん!!」
子供のように泣きじゃくる彼方。それを優しく抱きしめる女性
。僕は身体の消耗を一時的に忘れ、二人の母娘の対面を眺め続けた。
······どれ位の時間が経過しただろうか。女性は彼方の背中を擦り、僕に笑顔を向けた。
「······稲田君。彼方を見守ってくれてありがとう。貴方には、感謝しても仕切れないわ」
突然の女性の謝辞に、僕は戸惑った。まてよ。あの女性が彼方と言うことは、未来の僕の奥さんって事か!?
「残念だけど、私は貴方の奥さんじゃないの」
女性は困ったように微笑んだ。え?僕の奥さんじゃない?どう言う事だ?
「貴方達二人には、どこから話したらいいかしら······」
彼方の母は語りだした。それは、自分が彼方を身籠った事を知った時に遡った。彼方の父親は、僕ではなかった。
彼方の本当の父親は、事故で亡くなったらしい。その時代、人々は食料を確保するのに大変な思いをした。
身重の彼方の母は、山で山菜を探している時に、ニ十九歳の僕と知り合った。僕は彼方の母に食料を分けたり、色々世話を焼いたらしい。
そして僕が清明一族と言う事も知った。彼方の母は気丈にも一人で彼方を産む決意をしたが、出産後彼方は米死病にかかってしまった。
二十四の一族をまとめる役目を担う春分一族であり、言霊権を所持していた彼方の母は、理の外の存在と交渉した。
それは僕が、彼方から聞いた内容と同じだった。彼方の母は、彼方の祖母と話を合わせ、僕が彼方の父親という事にした。
そうだ。何故だ?なんでそんな嘘をつく必要があったんだ?
「強い反発心が必要だったの」
彼方の母は続けた。自分と母親を置いて姿を消した父親。彼方は当然、そんな僕に強い反発心を抱いていただろう。
強い反発心は、反対に作用すれば、強い信頼を生む。この暦の歪みを正す戦いにおいて、僕と彼方の信頼関係は絶対に必要だったらしい。
「稲田君の人柄は知っていたから、必ず彼方は稲田君を信頼すると思っていたわ」
彼方の母の言葉に、僕と彼方は赤面した。
「稲田君。貴方が私と交渉した内容は無効です。何故なら、貴方は言霊権の半分しか所有していないからです」
半分?じゃあ、残りの半分って誰か持っているんだ?······まさか!
「もう半分は彼方。あなたが持っているわ」
彼方が不思議そうにしている。彼方の首の後ろにあったあの「霊」という痣。あれは、もう半分の言葉権だったのか!
「言霊権が二つに別れる事は滅多に無い事らしいの。彼方と稲田君。あなた達は、二人で一つの言葉権を所有しているのよ」
二人で一つの······そうだ、僕の交渉が無効なら、何故彼方は生きているんだ?
「米死病には、一つだけ助かる方法があるの」
僕と彼方の疑問に答えるように、彼方の母が答える。
「彼方。稲田君の世界に来て、お米を沢山たべたわね?」
彼方は、小さい子供のように素直に頷く。
「お米を沢山食べる。それが、米死病から助かる方法よ。理由は分からないのだけど」
彼方は呆然とした表情から、自分の両手を眺めだ。
「······お母さん。じゃあ、私死なないの?」
彼方の母は、優しく頷いた。彼方をこの時代に送った理由。この時代なら、お米は好きなだけ食べられる。
彼方の母は、彼方の米死病を治す為にこの時代を選んだのか!
「······理の外の存在は、その力を徐々に弱めているの」
彼方の母が、重そうな表情で呟く。そう言えば、郡山もそんな事を行っていた。理の外の存在は力を弱めたのが原因か、人手不足が原因か分からないが、彼方の母に決闘の審判をするよう、彼方の母に要請した。
それは、カピバラの着ぐるみを着て、愛する娘に正体を明かせない、辛い役目だった。それでも彼方の母は、成長した娘を見守れるのならと、死後の世界から舞い戻ったという。
「······死後の世界?じゃあ、お母さんはまた居なくなるの?」
彼方は不安げな顔で母親の両腕を掴む。彼方の母は、哀しそうに両目を細める。
「······彼方。母さんは元々死んだ人間なの。死んだ人間には、戻るべき場所があるわ」
彼方の両目が再び潤み、母親に抱きつく。
「稲田君······貴方には辛い役回りをさせたわね。本当にごめんなさい」
「い、いえ。僕なんて何もして無いです」
「貴方が彼方に、自分の寿命を渡すと言った時、不謹慎だけど、私はとっても嬉しかったの。彼方をそこまで想ってくれてありがとう」
僕は赤面して頭を振った。まるで、過大評価されている気分だ。彼方の母が、一枚の写真を娘に見せた。
その写真には、優しそうな男性が写っていた。
「彼方。その人があなたの本当の父親よ」
「······この人が、私のお父さん······」
彼方はその写真を、いつまでも見続けていた。
「感動の再開は、いつまで続くのかしら?」
その声は、突然聞こえた。僕は振り返った。声は、倒れたアルパカの着ぐるみから聞こえた。
······アルパカの頭部が胴体から外れている?僕は月炎に頼み、アルパカの着ぐるみを調べで貰った。
月炎はアルパカの着ぐるみを持ち上げ、僕に見せた。その着ぐるみの中身は空だった。何故着ぐるみに誰も入っていない?波照間隼人はどこに消えたんだ?
「最初からその着ぐるみは空よ。稲田君」
僕達の後ろに、女が立っていた。聞き覚えのある声······それは、制服姿の郡山楓だった。
「波照間隼人は、二年前に死んだ人間よ」
郡山は無表情だ。まるで、人では無いかのような冷たさを感じる。
「郡山。どう言う事なんだ?そのアルパカの着ぐるみは、君が操っていたのか?」
「······そうよ稲田君。あなたの注意を私から逸らす為にね」
僕と郡山の間に、彼方の母が割って入る。
「郡山楓さん。啓蟄一族代表は、波照間隼人です。分家のあなたに代表権はありません。よって、あなたに決闘をする権利はありません」
彼方の母は、毅然と郡山を諭した。だが、諭された方は、文字通り失笑した。
「······下らない」
郡山の形のいい唇の端が、吊り上がっていく。
「分家?一族?代表権?そんな下らない物、どうだっていいのよ」
郡山の表情が、みるみるうちに変わっていく。あれは、本当に僕の知っている郡山楓なのか?
「三終収斂」
郡山は暦詠唱を唱えた。その瞬間、郡山の背後に巨大な石像が現れた。その石像は、全長十メートルはあった。
頭部には顔が三つあり、上半身は首飾りと衣を纏っていた。そして、腕は肩から六本伸びていた。
これは、まるで阿修羅像だ。たが、阿修羅の三つの顔は、それぞれ表情が違う筈だ。郡山のこの精霊の顔は、三面とも激しい怒りの表情をしていた。
三終収斂······?じゃあ、さっきの黒装束の精霊は、誰の三終収斂だったんだ?
「黒装束の精霊は、私が隼人から譲り受けた物よ。稲田君」
譲り受けた?郡山が、波照間隼人から?
「さあ。最後の決闘を始めましょう。清明一族代表さん」
郡山の背後に立つ巨大な石像は、怒りの表情をした面を、僕達に向けた。
······何時だったか、学校の授業で聞いた事がある。阿修羅は、紆余曲折を経て、仏教の守護神になったと。
郡山楓は、どんな経緯を経てこの阿修羅像の精霊の主人になったのか。郡山の表情は感情を欠落させたかのように無表情で、冷たかった。
十メートルを超す石像が動き出した。郡山の前に立つ彼方の母は、恐れる様子も無く阿修羅像を見る。
「······この阿修羅像の怒れる顔。郡山楓さん
。貴方はどれ程の暗い精神でこの精霊を生み出したのですか?」
「······部外者は退いてなさい。じゃないと、死ぬわよ」
阿修羅像の右腕が動き、彼方の母が立つ場所に振り下ろされた
。
「お母さん!危ない!」
「爽雲!」
彼方の悲鳴と同時に、僕は気怠そうにしている美男子の名を叫んだ。阿修羅像の拳が、轟音と共に砂漠の砂を撒き散らした。
間一髪。爽雲が彼方の母を抱きかかえ、退避していてくれた。
「お母さん!大丈夫?」
彼方が堪らず母の側に駆け寄る。
「大丈夫よ。彼方。母さんはもう死人よ?二度死ぬ事はないわ」
「······本当にそうかしら?」
郡山の冷たい呟きに、僕達は黙り込んでしまった。
「私のこの精霊の右腕は、魂を掴む事が可能よ。例え死人でもね
。そして左腕は、その掴んだ魂を潰す事が出来るの」
······魂を破壊出来る?そんな事をされたら、一体どうなるんだ?
「無よ。稲田君。無になるの。死後の世界に行くことも、来世に転生する事も叶わないわ」
······全てを無に帰す······なんて無慈悲な力なんだ。
「······最後の決闘と思ったけど、稲田君。あなたの精霊達は限界みたいね」
郡山に指摘され、僕は我に帰った。紅華、爽雲、月炎を見ると
、三人共に苦しそうな表情をしている。なんでだ?何故三人がこんなにも辛そうにしている。
「貴方の為よ。稲田君」
娘の彼方に支えられながら、彼方の母は僕に言った。
「三体の精霊を呼び出せば、普通だったら精神の消耗から貴方は死ぬわ。でも、あの三人は稲田君が負うべき消耗を分担して引き受けているの」
······三人が、僕の為にその身を犠牲にしている?僕が辛うじて生きているのは、そう言う訳だったのか。
「紅華!爽雲!月炎!もういい。すぐに帰ってくれ!」
僕の命令は、否、心からの願いは、三人に笑顔で拒否された。
「こればかりは聞けません。御主人様。私は最後まで御主人様をお守り致します」
「まあ、こんな美人がそう言ってるからさ。俺も立場上、旦那に付き合わない訳には行かないのさ」
「御主君。心を強くお持ち下さい。某達が道を切り開きます」
······止めてくれ三人共!違うんだ。僕は三人にそこまで言われる程の人間じゃない。
僕の気持ちなど無視し、阿修羅像は巨大な足で地面を蹴り上げる。紅華、爽雲、月炎は吹き飛ばれてしまった。
「三終収斂!」
僕の背後で、彼方の暦詠唱が聞こえた。振り返ると、彼方の頭上に修行僧の精霊が現れる。
「稲田祐。もう決闘だの言っている場合じゃないわ。あの女を止めるわよ」
笠を被った修行僧の精霊が、彼方の頭上から飛び立つ。その速さは、あっという間に阿修羅像の眼前に迫って行った。




