立冬①
······僕は夢を見ていた。白い着物の少女を抱き上げ、雲の上を歩いている。彼方にそっくりのこの少女は、嬉しそうに笑っている。
『······お父さん?』
少女が僕を呼ぶ。僕は少女を雲の床に降ろした。少女はまだ抱っこしてとせがんでくる。
ごめんね。でも、もう夢から覚める時間なんだ。そして、君と会えるのもこれが最後なんだ。今まで僕に会いに来てくれてありがとう。
僕は少女に、感謝の気持ちを伝えた。少女はまだ一緒に居たいと駄々をこねる。僕は少女の頭を優しく撫で、さようなら彼方と僕は言った。
少女は不思議そうに僕の顔を見ている。そして、少女は言った
。
『それ、お母さんのお名前だよ。私のお名前じゃないよ』
······この少女は彼方じゃない?こんなにそっくりのなのに?僕はこの少女に聞きたい事があったが、眠りから覚醒する僕の意識がそれを許さなかった。
僕から遠ざかって行く少女に、僕は大声で問いかける。君は······君の名前はなんて言うの?
少女は両手を口の左右にたて、答えてくれた。
僕は四畳半の布団の中で目を覚ました。さっき迄見ていた夢が、鮮明に脳裏に残っていた。
あの少女は彼方では無かった。彼方を母と呼ぶあの少女は、一体なんだったのだろうか。少女の最後の返答も、結局聞き取れなかった。
不思議な気分のまま、僕は顔を洗い、歯を磨き朝食を食べた。あの少女の事を考えていた為に、人生最期の朝食を味わうのを忘れていた。
最期の日に何を着ようかと迷ったが、今日は平日で普通に学校がある日だったので、制服の学ランにした。
着替えた僕は、四畳半の畳みの上に座り、その時を待った。時間はすぐに来た。僕の目の前に、カピバラの着ぐるみが現れた。
······何故だろう。見馴れたこのカピバラの顔が、懐かしく感じる。彼方をいつも見続けていたこの着ぐるみの正体は、結局分からなかった。
でも、このカピバラから時折感じるイメージは、不快な物ではなかった。僕の中ではまだ言語化出来ないが、それはとても深く
、大きな感情だった。
僕はカピバラに黙って頷いた。準備は出来ている。いつでもあの異世界に連れて行ってくれ。
「······稲田祐さん。最後にお礼を言っておきます。ありがとう
」
······何故カピバラが僕にお礼を言うんだ?僕が疑問を口にしようとした時、いつものカピバラの台詞が呟かれた。
「転移、開始します」
僕の姿はこの世界から消えた。いや、あと二時間で本当に消える。永遠に。
無味乾燥の砂漠の世界に、僕は両足を立てる。目の前に、先に到着していた彼方がいた。今日の彼方は、いつもの純白のセーラー服だ。
彼方は僕に頷いた。僕も力強くそれを返す。波照間隼人が現れたのは、その時だった。
「時間ピッタリだね。時間をちゃんと守ってくれる人は信用出来るなあ」
アルパカの着ぐるみが、機械音の声と共に、僕と彼方の数メートル前まで歩いてきた。
「······決闘の時ぐらい、その着ぐるみを脱いだらどうだい?」
僕が波照間隼人に提案する。別に顔を見たかった訳では無いが、正体が分からないのは、やはり不気味だった。
「······僕は恥ずかしがり屋でね。失礼ながら、このままでお願いするよ」
僕のささやかや揺さぶりは、波照間隼人に軽く受け流された。
「こら波照間島!今日がアンタの年貢の納め時よ!覚悟しなさい
」
「······い、出雲彼方さん。君、僕の名前覚える気ないでしょ?
」
······僕は彼方を改めて見つめた。これが、あと二時間で自分が死ぬと分かっている人間の態度なのか?
彼方はいつも通り背筋を伸ばし、凛々しかった。その姿に、あと二時間で死ぬ僕は、とてつもない大きな勇気を貰った気分だった。
「これより、啓蟄一族代表と、清明一族代表の決闘を行います。両一族代表は、お互いに自己紹介して下さい」
カピバラのいつもの進行に、僕と波照間隼人は向かい合った。
「清明一族代表、稲田祐。十八歳、高校三年生」
「啓蟄一族代表、波照間隼人。十八歳、高校三年生です」
ど、同学年の同い年なのか?いや、この男の言う事は当てにならない。余計な事は考えない方がいい。
「今回の決闘は、一対一のルール無用の時間無制限の一本勝負。相手を戦闘不能にするのが勝利条件です」
こ、これからプロレスでも始めるのか?僕は、場違いなおかしさが込み上げてきた。
「時間無制限ねぇ。君達には、後二時間しか残されてないのにね
?」
波照間隼人が機械音の声を出し、両手を上げてみせた。でも、僕も彼方も動じす、波照間隼人を睨み続ける。
「······二人共、覚悟は決めたって目だね。気に食わないな······その目」
なんだ?波照間隼人の声に、初めてと言っていい位の揺らぎを感じた。
「ところで稲田君。古来から行われてきた一族同士の決闘。その内容を知ってるかい?」
その揺らぎは一瞬で消え、波照間隼人の声は、いつもの調子に戻った。
二十四の一族は、揉め事や問題が発生した場合、決闘によって収めてきた。その決闘の内容?やっぱり、精霊同士の戦いなのかな?
「稲田君。君が今までやってきた、お遊びみたいな決闘内容とは訳が違う。それこそ、一族を挙げて血で血を洗う殺し合いさ」
······殺し合い?昔の一族達は、そんな物騒な事をしていたのか?
「決闘に負けた一族が、根絶やしになる危機が何度もあった。そこで理の外の存在は、代理戦争を考えついた。それが七十ニ気神。精霊同士の戦いさ」
精霊達は、僕達一族の代わりに戦わされていたのか!?
「三終収斂!」
波照間隼人が、暦詠唱を唱えた。これは、七十ニ気神を呼び出す詠唱ではない。自身が持つ三体の精霊を一つに合わせた、強力な精霊を呼ぶ詠唱だ!
波照間隼人の頭上に、黒装束の精霊が現れた。頭部は黒い頭巾で覆われ、顔も黒い布で隠れている。体も全て黒一色だ。これはまるで、舞台にいる黒子のような姿だ。
その左手には何故か花瓶が握られ、花瓶には百合の花が揺れていた。右手には選定ばさみの刃が、怪しく光っていた。
······な、なんだこの不気味な精霊は?僕は、寒くもないのに悪寒が走った。
「さあ稲田君。君も三終収斂を唱えてよ。君ならきっとそれができる筈だ」
······嫌だ!三終収斂を唱えると、新たな精霊が生まれる代わりに、三人の精霊は永遠に消えてしまう。
紅華、爽雲、月炎。彼等が消えるなんて、僕は絶対に嫌だ。今日は月の上旬。心を司る紅華が最も力を発揮する。
······でも、僕は本能で分かってしまった。紅華を呼び出しても、絶対にこの黒装束の精霊に勝てないと。
ならば、時期を外れ力を充分に発揮出来ないが、爽雲か月炎を呼ぶか?
······答えは同じだった。誰を呼び出しても、黒装束の精霊に勝てる気がしない。
「三体の精霊が消える事を惜しんでいるの?稲田君。精霊なんて所詮、戦いの道具だ。心を痛める必要はないよ」
波照間隼人の冷酷な忠告を、僕は黙って聞き流す事が出来なかった。僕の口が、また勝手に動きだす。
「僕にとって三人の精霊は道具じゃない!大切な友人だ。そんな簡単に切り捨てる事なんて出来るもんか!」
僕の返答に、耳を突くような機械音の笑い声が響いた。
「ははは!これは傑作だね。現実の世界で一人も友達が居ない君が、精霊を友人と呼ぶのかい?まあ、自分の事を主人と呼ぶ精霊達だ。君を無視したり、軽んじたりしないから安心だよね」
······言葉と言う悪意が、僕の心の闇の部分を剥がしていく。そこは、決して人に見られたくない場所なのに。
「出雲彼方さんと出会い、世界の未来を変える為の今日までの日々は、さぞ楽しかったでしょう?稲田君」
······これは何かの手術だろうか?波照間隼人の言葉と言うメスが、僕の心の中を切り刻んで行く。
「この異世界で決闘している時だけは、君は現実の世界の事を忘れられた。その時だけは、取るに足らない自分じゃなかった。教室の隅で大人しくしている自分とは違った!」
僕は今、どんな顔をしているのだろうか?足に力が入らない。心が、身体が立ち続ける事を拒否している。
「決闘が終わり、現実の世界に帰る時。君はいつも落胆していたんじゃないか?ああ。またつまらない自分に戻るとね」
僕は、前を向けなくなった。顔を俯け、自分の足元と砂を見ている。この感情に飲まれると、二度と立ち直れないたと分かっていても、僕は抗えなかった。
「顔を上げなさい!稲田祐!」
その声に、僕は殆ど反射的に顔を上げていた。僕の目の前には、姿勢正しく直立不動の彼方の背中があった。
「現実に友達が居ない?それがどうしたって言うの?世の中には、自分の親と一度も会えない人間だっているの!一生お米を口に出来ない人間が、大勢いるの!」
彼方の声が、僕の聴覚を通じて、心の中を直撃する。
「稲田祐。あんたは仕事で疲れ切った相手に、優しく気遣う言葉をかけた。失恋で悲しむ相手に、過去の自分を大切にしろとも言ったわ」
彼方は僕に背を向けたまま、言葉を続ける。
「自分と同じ、人付き合いが出来ない相手に、諦めるなと言った
。経営者相手に、何千人を犠牲にしても未来を変えると言った」
僕は、また涙腺が壊れそうになって来た。
「親に半ば見捨てられ、世界に絶望し呪おうとしていた相手に、自分だけは君を忘れないと言った」
僕の両足は、無意識のうちに前に動いていた。
「······そして私には、食べ切れない位のお米を食べさせてくれたわ」
「······彼方」
「胸を張りなさい。稲田祐。あんたは心優しい人間よ。世界中の人間が否定しても、私だけはそう断言するわ」
······この時、僕の中で、何かが崩れる音がした。それは、ずっと僕の中に在り続けたしこりだった。
僕は自分の殻に籠もり、人との関係を避け、自分が傷つかないよう過ごして来た。言い訳は決まっている。自分は、どうやっても人との関係を築く能力が無いと。
でも、僕は開き直れる程強い人間では無かった。独りでいると、無性に寂しくなる時があった。人と関わりたいと欲する時があった。
それは、一時的な暴風のような物だった。しばらく耐え忍べば、またいつもの自分に戻れた。
僕の中にある、孤独と云う名のしこりは、いつまでも残り、時々僕を苦しめていた。
······彼方の言葉で、僕のそのしこりは粉々に砕け散って行った。言葉には信じられない力があると彼方は言った。
彼方の言葉は、孤独の重りに押し潰されそうになった僕を、胸ぐらを掴むように救い上げてくれた。
「······手助けはルール違反だよ?出雲彼方さん」
波照間隼人が口を開いた瞬間、彼方の足元の砂が浮き上がり、何かが這い出て来た。あれは、タスマニアデビルの着ぐるみ?
「ちょっと!何すんのよ!」
砂まみれのタスマニアデビルは、あっという間に彼方を両腕で拘束し、波照間隼人の前に立った。
「か、彼方!」
なんでタスマニアデビルが彼方を拉致するんだ!?あれ?あのタスマニアデビルの両目をよく見ると、赤く光っている。
「このタスマニアデビルは、僕を探しに来た理の外の存在さ。今は僕のペットだけどね」
······彼方が僕の前に現われた時、他の一族代表達には、それぞれタスマニアデビルがコーチとして付けられた。
波照間隼人は何らかの方法で、このタスマニアデビルを操っているのか?
「さあ。役者は揃った。世界の未来を賭けて、盛大な殺し合いを始めようか?」
波照間隼人は、機械音で改めて宣戦布告をする。僕はある決断をしていた。それは、僕の命に関わるから絶対にするなと、彼方から固く禁じられていた行為だった。




