処暑③
僕は高層ビルの頂上に腰掛けていた。隣には白い着物の少女。いつもの夢だ。少女は僕に微笑み、僕の膝の上に乗る。
······今迄、この少女の顔を見ても、どうしても思い出せなかった。それがどうだろう。今はこの少女が誰か、僕には分かる。
この少女は、彼方だ。断言は出来ないが、少女の顔は、とても彼方によく似ていた。何故この少女が僕の事をお父さんと呼ぶのか。
······今なら分かる。僕が彼方の父親だからだ。彼方が生まれた時、僕は既に居なかった。当然、彼方は父親を知らない。
僕のこの夢にも出てくる彼方は、父親に甘えられなかった心の隙間を埋める為に、僕の側に現れたのかもしれない。
少女は嬉しそうに僕の膝の上ではしゃぐ。何故だろう······僕はこの少女を、堪らなく愛おしく感じる。
彼方を好きだと思う気持ちとは違う。まるでこれは、娘を想う父親の気持ちだろうか。この少女も同じ彼方の筈なのに······
······夢はそこで途切れた。僕は布団の上で、戻りたくもない現実に引き戻される。八月もあと二日で終わる朝だ。
開けっ放しの窓。網戸の隙間から見える空は、今日も快晴だった。
前回の決闘から一週間後、僕は江ノ島駅改札にいた。改札口には、紅いノースリーブを着た郡山が立っていた。
「稲田君。来てくれたのね。嬉しい」
学年有数の美女が、嬉しそうに微笑む。僕等は駅から、江ノ島に向かって海沿いを歩いて行く。
青い空をトンビが元気よく飛んでいる。小学生位の子供達が、笑いながら僕と郡山を追い抜いて行った。
僕は足を止めた。振り返った郡山が、長い髪を潮風になびかせながら僕を見る。僕は今日、郡山とデートをする為に来た訳では無かった。
「······郡山は、二十四の一族の関係者なの?」
「え?稲田君、何それ。何の話?」
郡山が困ったように首を傾げる。僕は確信を持って動じなかった。僕は黙って郡山を見つめ続ける。
「······どうして分かったの?稲田君。私が一族の者だって」
郡山の表情が一変した。柔和な顔から、冷たい顔立ちになる。
「······簡単な消去法だよ。君が僕に近づく理由を探した時、僕にあるのは、清明一族代表という事実だけなんだ」
そして、郡山が僕によく話しかけて来るようになった時期。それは、僕が暦の歪みを正す戦いに巻き込まれた時と一致する。
それらを総合的に考えた時、郡山は何らかの意図があって僕に近づいたと考えるしかなかった。
当然、そうすると郡山は一族の利害関係者になる。
「······意外と鋭いのね稲田君。波照間君が言っていた通りだわ」
「波照間!?郡山。君は波照間隼人を知ってるのか?」
「波照間君の思想の賛同者であり協力者。そんな所かしら」
······以前、彼方は言った。郡山みたいな優等生タイプは裏があると。その裏の顔が、波照間隼人の協力者だなんて、予想出来る筈も無かった。
「郡山······波照間隼人が何をしようとしているか分かっているの?」
郡山は潮風に飛ばされそうになった麦わら帽子を片手で押さえた。その帽子のつばの奥に見えた郡山の瞳は、とても恐い目をしていた。
「······ねえ稲田君。私、毎日退屈なの。つまらない授業、下らない同級生。愚かな政治と国、救いようが無い世界と未来」
郡山は言葉を重ねるごとに、言葉の温度が下がって行くように感じた。それはまるで、全てを侮蔑するかのようだった。
「だから波照間君に協力するの。世界を一度リセットするなんて素敵じゃない?余計なゴミを一掃するの」
······僕の目の前にいるのは、僕が知っていた優等生の郡山じゃなかった。波照間隼人と同様、人の命を何とも思っていない人間だ。
「稲田君に興味があるのは嘘じゃないわ。稲田君は変わったわ。今のあなたは強い意志を持ち、とても魅力的よ。だから、稲田君も私達に協力して欲しいの」
「······波照間隼人に協力しろと?僕にそう言っているの?郡山」
「そうよ稲田君。あなたは今、決闘で勝った九つの一族に命令する立場にいる。あなたが協力してくれれば、波照間君の目的も早く達成出来るわ」
······僕は前回の決闘から今日まで、自分の事ばかり考えていた。好きな相手に振られ、その振られた相手は、よりによって未来の自分の娘だった。
振られたショックと、自分の娘を好きなった自分の異常さに僕は塞ぎ込んでいた。でも、郡山のこの言葉で僕は目が覚めた。
僕が自分を憐れでいても、彼方の過酷な運命は何一つ変わらないからだ。僕は郡山に向かって首を振った。
「······郡山。僕がする事は変わらないよ。この暦の歪みを必ず正す。波照間隼人がそれを邪魔するなら、彼とも戦う」
僕の言葉に、郡山は表情を変えなかった。僕に近づき、耳元で小さく囁く。
「稲田君。やっぱりあなたは素敵よ。私、諦めないから」
そう言い残して、郡山は去って行った。以前、彼方は僕に言った。言葉には、信じられない力があると。
彼方の言う通りかもしれない。僕は郡山に向けて発した言葉で、自分の気持ちが奮い立つ事に気づいていた。
駅から自宅に帰る途中、僕はいつもの公園に寄った。何となく、彼方がいるかと思ったからだ。
彼方はベンチに座っていた。僕は彼方の側に行き、隣に座った
。八月ももう終わりなのに、木にしがみつき鳴く蝉達は元気だ。
最初に口を開いたのは彼方だった。
「何が理由で、身重のお母さんからあんたが去ったのか分からない。それが、祖母から聞いた話よ」
彼方は苦しそうな表情で話す。妻と子を捨てて居なくなった男の事なんか、もっと怒っていいのに。
「どうしてお母さんが、自分から去ったあんたの過去に、未来を託したのか分からなかった」
僕は黙って彼方の話の続きを待つ。僕に何か言う権利なんて、無いと思ったからだ。
「私達を捨てたあんたのコーチなんて、絶対に嫌だったわ。でも
、お母さんの想いを無駄に出来なかった。それに······」
「それに、見た事も無い自分の父親を見てみたい。心の何処かでそう思っていたの」
「······僕を見て、やっぱりがっかりしたかな?」
彼方はベンチから立ち上がった。手にしていた白い日傘は、彼方の足元に落ちた。
「ええその通りよ!がっかりも良い所だったわ!あんたは鈍臭くて、臆病で、気弱で!」
彼方の声が、少しずつ震え始めた。
「いつも人に気を使って!人にも精霊にもお節介で!」
それは震えから、上ずった声になる。
「······いつも、人に為に一生懸命で······」
······彼方は泣いてた。両手を握りしめ、震える肩を小さくしていた。
「······あんたが、嫌な奴なら良かった。あんたが······父親じゃなかったら······」
僕は立ち上がり、足元に落ちた日傘を拾った。彼方をその日傘の中に入れる。
「彼方。未来の僕は酷い父親で、彼方達に何もしてあげられなかった」
言葉が、自分の言葉が心に勇気をくれる。
「でも今は!今僕は彼方の側にいる!約束するよ。必ず彼方の願いを果たすって」
僕は不思議な気持ちだった。こんな力強い心を持ったのは初めてだ。弱い僕でも、大切な人の為になら、こんなにも勇ましくなれる。
「······うん。ありがとう。稲田祐」
涙ぐんだ彼方は、小さく呟いた。お礼を言われる資格なんて、僕には無いのに。
明日からまた特訓を開始する事を約束し、彼方は去って行った。僕は彼方を見送った後、爽雲を呼び出した。
あぐらをかいた美青年が、僕の頭上に現れた。
「······旦那。例の件。裏が取れたぜ」
爽雲がいつになく真剣な表情で僕を見る。
「ありがとう爽雲!危険は無かったかい?」
「それが妙な話でね。奴ら理の外の存在は、余りにも無防備だったんだ」
······理の外の存在は、情報管理に限って緩いのだろうか?
「とにかく、旦那の予想通りだったよ。旦那のその首元の痣、それは言霊権の所有者の証だ」
······やはりそうだったのか。言霊権。数百年に一度、理の外の存在と交渉出来る権利。
でも変だ。その言霊権は、十三年後僕の奥さんであり、彼方の母が使う事になる。何故今、言霊権が僕の所にあるんだ?
疑問を残しながら、僕は爽雲に礼を言い、爽雲は手を挙げ消えて行った。僕はベンチに座り込み、言霊権について考え込む。
「それは、言霊権が一番相応しい一族に与えられるからです」
僕の眼の前に、カピバラが突然現れた。いつもの機械音で、僕の疑問に答える。
「本来なら、この時代には言霊権を得る一族は存在しませんでした。ですが、一族同士の決闘が発生し、優れた資質を持つ稲田祐さんが選ばれたのです」
······この言霊権の事を知った時から、ある考えが僕に浮かんでいた。でもそれは、彼方が絶対に許してくれない事だ。
でも、彼方が自分の未来の娘と知ってから、僕の迷いは消えた。僕はカピバラに申し出た。
「この言霊権を行使し、理の外の存在に要求したい事がある」
「······どのような要求でしょうか?」
「······僕の残りの寿命を、彼方に譲渡して欲しい」
カピバラは黙り込んだ。以前カピバラは言った。出雲親子の寿命の譲渡は例外中の例外だと。
僕の申し出は、その慣例を破る無理難題かもしれない。でも僕には、一つの仮説があった。
「······言霊権は、単なる交渉権だけじゃない。違うかい?」
カピバラの顔が一瞬動いたのを、僕は見逃さなかった。
「言霊権は、何か大きな力じゃないのかな?例えば、理の外の存在。あなた達を脅かす位の」
確証があった訳ではなかった。ただ一つ思ったのだ。彼方のお母さんの要求を。ただの交渉権なら、理の外の存在が突っぱねれば、それで済む。
そう出来ない理由が、この言霊権にはある筈だ。僕はそう感じていた。
「······いいでしょう。稲田祐さん。あなたの要求を受け入れます。寿命の受け渡し日は立冬の十一月七日。よろしいですね?」
僅かな小さかった希望が、僕の中で急速に大きく膨らんで行く
。
「······念を押しておきますが、立冬の正午。あなたは死にます。いいですね?」
「······うん。それで構わないよ。但し、彼方には秘密だ。いいね?」
カピバラは頷き、消えて行った。僕はベンチから立ち上がり、ガッツポーズをして叫んだ。
よし!これで彼方が死ぬ事は無い!僕が死んだ後は、彼方に役目を引き継いでもらえばいい。
僕が決闘で勝った他の一族達には、彼方の命令に従うようお願いする。これで問題は全く無い。
······問題はあった。彼方の気持ちだ。彼方は母親から寿命を譲られた。その上に、未来の父親から同じ事をされたら。
こんな酷い父親の僕でも、彼方はきっと怒るだろう。二度僕を許してくれないかもしれない。
でも僕には、それをする正当な権利と義務があった。父親が娘の為に命を使う。この行為を批判出来る者は居ない筈だ。
僕は胸の中にあった大きな重りが消えて行く気持ちになった······これでいい。これ以外の選択肢なんて無いんだ。
僕は顔を上げ、馴染みになったナンキンハゼを見る。目の前のナンキンハゼは、無言でその枝の葉を風に揺らしていた。




