第28話「下手な嘘」
屋敷に入ってまず感じたのは、濃密な血の匂いだ。ただでさえ気分は最悪だというのに、ここに来て再び吐き気が強くなってきた。
警戒しつつ、周りを見渡す。
屋敷の内部は、外観通り荒れ果てている。明かりはなく、以前は壮麗な輝きを放っていたであろう装飾も、無残に砕かれ、血で汚れ、冷たく朽ちている。
痛々しくて見るに耐えない。下手な感傷は抱かないと決めたはずなのに、憐れだと思う気持ちは拭えなかった。
しかし、そんな陰惨さで溢れ返るこの場所で一人、場違いな笑みを浮かべている仮面の男がいた。
視線がぶつかり合うと、ヴィルムートは淀んだ瞳をまるで微笑んでいるかのように細めた。
そして敢えて無感情であろうとしている藍徒を、卑劣さを交えて煽り立てて来る。
「雨沢灯火と花はどうした? まさか、君一人で私に挑むつもりかい?」
「……勘違いするな。あいつらとは合流できなかっただけだ。お前だけなら、俺一人でも十分だ」
対峙するヴィルムートに向けて『暴動』の荒々しい闘気を放つ。肌を突き刺すようなその魔力は、絶望と恐怖を幾度となく払い除けた藍徒に相応しい威圧さがある。それを向けられているヴィルムート自身も、強大な魔力を前にして目を見開いている。
目の前にいる少年は、常人とは思えないほどの殺意を放っている。経験や実力はともかく、覚悟だけはこの『選定』を生き抜くのに相応しい。
あれをただの子供と侮るのは命取りだ。
あれは紛れもなく、血の匂いを漂わせる『選定』の参加者だ。
だというのに、
「そうか。君一人で十分か。――ふ、ふふふ」
確かな脅威であるはずの彼を、ヴィルムートは容易く嘲笑った。
「何、笑ってんだ」
「いや、失敬。君が必死についた嘘があまりに下手なもので、つい笑ってしまった」
歪んだ口元を手で隠すが、嘲笑の声は僅かな隙間からでも零れ出てくる。醜い嘘を晒し上げるような、嬲るような笑い声が苛立ちを逆撫でする。
笑っている。いや、嗤っている。
悪意をふんだんに塗した嗤いが、喧しく鼓膜を震わせてくる。
――それが煩わしくて、煩わしくて、心の奥底からどす黒い何かが溢れ出してきそうだ。
「もう喋んな。『偽造』の異常者が、汚く笑ってんじゃねぇよ」
睨み付ける瞳に煮え立つ殺意を織り交ぜて、嫌悪感を丸ごと吐き出す。口から吐き出すと、熱もいくらか出て行って、代わりに不快な寒気が全身を覆った。
少し震えた藍徒を見て、ヴィルムートは笑い声を止めた。静まり返った冷たい空気の中、互いに温度の違う眼差しを向けている。
一方は、ケダモノを見下すような冷たさで。
一方は、自分をも焼き尽くす勢いの熱で。
「そう言うな、『空洞』。どうせどちらか死に行くのだ。その前に、話しておくべきことがあるはずだろう?」
刹那の沈黙を破って、あっけからんとした口調で話し出したヴィルムートは、面白可笑しく覗き込むように藍徒の表情を見つめる。
嗤い声と同様に、その視線は尖った指先のように心をぺりぺりと剥がしてくる。汚れた指先が近づくたびに、拒むように心拍数が上がっていくのを感じた。
ここまで来ると、あの男の仕草全てが悪意によって形成されているのではないかとさえ思う。
人の心を乱すことだけは達者なようだ。怒りの沸点があるとするならば、既に通り越して蒸発している。
だがあの下劣な嗤い声も、この体に付き纏う鬱陶しい熱も、全て消し去れる方法はもう分かっている。
「それは、お前が命乞いのついでに言えばいいだけだ。なにかの間違いで、それを訊く前にお前の息が止まっちまってるかもしれねぇけどな」
「……面白い。それは、私が君によって殺されるということかい?」
指先が継ぎ目に引っかかる前に藍徒は熱が引いた声色で、静かに告げた。
――殺してやると。
「あぁ、そうだ。死んで行くのは、お前だけだ」
心臓の鼓動と同調して、『暴動』が強く拍動する。全身に高速で魔力が走って、力が増長してくる。
残された時間はそう長くはない。その証拠に、さっきまで藍徒を苦しめていた激痛がじわじわと戻ってきている。それに伴って首を徐々に絞め上げるような感覚が襲いかかってくるが、それに構っている暇さえ惜しい。
「そうか。どうやら、まだ誤魔化しが通じていると思っているようだな」
対してヴィルムートは、握り締めていた十字架を突き出して、手の平から床に落とした。
落ちた十字架に亀裂が走り、そこから血のような赤黒い液体が湯気と共に溢れ出してきた。それは際限なく血生臭さを撒き散らしながら、広がっていく。
その直後、生暖かい床の染みから禍々しさを纏った糸が一斉にうねり出て来た。
「――ッ!? クソ、またあの時の十字架か……!」
無力にも影に沈められた光景を思い出す。『暴動』の力を以ってしても、あの糸から抜け出すことは出来なかった。一度でも纏わり付かれたのならば、蜘蛛の巣にかかった羽虫のように無様に捕らわれるだろう。
目まぐるしく思考を走らせるが、何一つとして打開策は浮かんでこない。警鐘は焦りと同調して、ここぞとばかりに音を響かせてくる。
「うっせぇんだよ……! 黙っとけ……!!」
一か八か、そんな博打じみた考えしか出来ない自分を苛立たしく思いながらも、床を蹴りつけ走り出した。
対して闇に蠢いていた糸も藍徒を捕らえようと、その先端を四方八方から藍徒の四肢へ向けて急速に伸ばしてきた。
その速度は尋常ではなく、都市での逃走劇と同様に意図も簡単に藍徒に巻き付こうとしたが――、
『暴動の激動【ライオット・セカンド】』
藍徒はそれを遥かに凌駕した速度で、一瞬の内に糸の隙間を掻い潜った。
全身に通っている『暴動』を更に加速させて流すことで、通常のおよそ倍の効果を発揮させたのだ。生命線である魔力が、ぶっつけ本番で行った『激動』によってごっそりと持って行かれる。その代わりに、抑え込んでいた痛みが勢いよくなだれ込んできた。
すり抜けて行った糸は虚空を縫うように飛び交い、後方の床に突き刺さった。それを振り返りもせずに、速度を上げる。
熱い。全身が焼けているかのように、熱い。無理を承知で行った『激動』による反動は、着実に体を蝕んでいる。
一歩床を踏み締める度に視界が白くぼやけて、意識が溶け落ちていきそうだ。
けれど、あの醜い仮面だけは鮮明に写っている。
それが途絶えない限り、足を止めることはない。
あの嗤みを、許してはならないから。
「死に曝せ、ヴィルムート!!」
迸る熱を押しとどめて、藍徒は一息の内にヴィルムートとの距離を詰める。
そして、ありったけの『暴動』を込めた拳を、悠然と立ち尽くしたままのヴィルムートに振り下ろした。
もう二度と心を見透かされないように、一切の欠片も残らないように打ち下ろされたその拳は、空気を押し潰しながらヴィルムートの頭蓋を粉砕しようとした。
だが、それは叶わなかった。
「熱を逃したいのならば、煮え滾った血を流すことだ。少し、頭を冷やしたらどうかね?」
藍徒が拳を振り下ろすよりも前に、何かが藍徒を薙ぎ払った。
その衝撃に耐え切れずに、藍徒の体は大きく吹き飛ばされ、床を転げ回る。
「ぁ、なに、が」
壁に背中を打ち付けられ、世界が掻き混ぜられる体験から解放された。
訳が分からない。一体何が起こった。
起き上がろうとするも、体が動かない。
左肩から右脇腹にかけて焼けつくような痛みが走って、そこから血が溢れ出ていることに気づいた。『暴動』も同様に抜け落ちて、全身が冷たくなっていくのを感じる。
そこでようやく、自分の体が切り裂かれていることに気付いた。だが、ヴィルムートは藍徒が攻撃を仕掛ける寸前になっても全く動きを見せていなかった。
ならば、一体誰が藍徒を切り捨てたのか。
鮮烈な痛みに呑まれながらも、藍徒は顔を上げてその正体を目にした。
そして、静かに驚愕した。
「一人で来た君に、初めから勝ち目などなかったのだよ。――嘘つきには、それ相応の罰が下る」
ヴィルムートの背後で、血で濡れた剣を持った黒い甲冑の騎士が、藍徒を見つめていた。
ただ、見つめていた。
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幽鬼めいた立ち姿のその騎士は、見事なまでに闇に溶け込んでいた。
兜から鉄靴まで漆黒に染まり切っていて、呼吸の音さえ聞こえて来ないものだから、目を凝らしていないとその姿を認識できない。
しかし朧げなその姿から、暗闇では紛らわすことができないほどの殺意が放たれている。瞳などこちらからは見えないはずなのに、藍徒はその視線のあまりの冷たさに射竦められた。
「ほう、まだ息があるのか。やはりその異常な精神性だけは侮れんな」
わざとらしく感心した素振りを見せながら、ヴィルムートは死に損ないに近寄り、髪の毛を掴み上げる。
遅れて込み上げてきた生温かい血が零れ出して、藍徒は体のどこかが死んだことを悟った。
「ぁ、あぁ、はあ」
声を出したくても既に喉が凍り付いたかのように冷えていて、血臭混じりの吐息しか出ない。今すぐにでも目の前の男を殴り飛ばしたくて仕方がないのに、もはや拳を握る力さえなくなっている。
「認めろ、雨沢藍徒。君は私に敗れたのだ。私に触れることさえ出来ずに、自分の欠陥を埋めることも叶わずに、無意味に果てていくのだ」
冷たく、重たいその言葉がのしかかる。それに対してふざけるなとが鳴り返したくても、独りでに零れだすのは命の抜けていく音だけだった。
そうだ。自分は敗れたのだ。無謀にも単身で『偽造』の本拠地に乗り込み、見事に返り討ちにされた。
ヴィルムート以外に『偽造』の残党が残っている可能性があると頭の中では理解していたにも関わらず、自分の中で暴れ回る熱の方を優先してしまった。
その結果がこれだ。既に体は生きることを諦めつつある。冷静になって考えてみるなど、今の状況からしてみれば皮肉以外の何者でもないが、過熱していた心に穏やかな風が訪れていることも事実だった。
それがとても心地良くて、泣き出してしまいそうなほどに。
「……醜いな。死ぬ間際の人間の表情とは」
侮蔑が込もった声は鋭く鼓膜を刺すが、今の藍徒には意味がなかった。
もう、終わりなんだ。「死に物狂いだ」「決死の覚悟だ」などと自分を脅迫していたが、それは命があって初めて言える言葉だ。
今の自分の姿が、生きているとは到底思えない。
体の隅々が温かさを失くして、沸騰していたのではないかと錯覚するほど熱かった血も、見捨てるように体から離れていく。
諦めが、後ろから抱き締めてきた。
妙に温かくて、優しくて、安心した。この世を呪いたくなるほどの痛みも、鉛のように冷たい死にかけの体も、丸ごと包み込んでくれている気がした。
心地がいい。このまま何もかも委ねて、消えてしまいたい。こんなことをしていると知ったら、灯火と花は怒るだろうか。いや、怒るに決まっている。
泣き腫らした彼女たちの顔が容易に想像できるから、後悔が今更肩を揺らしてくる。
もう一度、もう一度立ち上がれ、と。
許してくれ。もう、動けない。
もう、動けないんだ。腕も死んで、脚も死んで、鼻も死んで。何もかもが、死に行こうとしている。
もう、俺は―――、
「一つ、訊きたいことがあるのだが」
「―――――」
「君は何故、一人でここに来た?」
……あれ? なんでだろう。
なぜ一人でヴィルムートに挑もうとしたのだろう。いくら熱に浮かされていたとはいえ、無謀にもほどがある。
記憶に不可解な空白があることに気付いて、走馬灯を見送りながら思い出そうとする。
自分一人でもヴィルムートに勝利できると驕っていたのだろうか?
いや、そこまでつけ上がれるほど自惚れていない。
灯火と花を危険に晒さないようにと、自己犠牲のような形をとったのだろうか?
違う、そんなのは綺麗な言葉で飾った、都合の良い言い訳だ。
もっと愚かで、醜くて、身勝手な気持ちが先走っていた。「何か」を覆い隠したくて、なかったことにしたくて、一人で消し去りに行こうとしたのだ。
それがなんだったのかは、死を受け入れ始めている今となっては、思い出すことが出来なくて――、
「知られたくなかった、そうだろう?」
「――――」
手放しかけていた意識が、震えた。
何かに怯えているかのように小さく躰を丸めて、小刻みに震えている。
死への恐怖からではない。何かが崩れ落ちていく感覚が、音を立てながら迫っている。
その音が怖くて、震えている。
「君は彼女らに知られたくなかったのだろう? 自分が、醜いあの怪物と同類であるということを。だから、君はたった一人で私に挑んで来た。私と対峙することで、その『嘘』が露見してしまうことを恐れて」
「――――」
「まぁ、もっとも、私から見れば見え透いた嘘であったがね」
何を、言っている。
そんなことは有り得ない。あってはならない。
自分は、俺は、雨沢藍徒は、人間だ。
愚かで、弱くて、中身は空洞だけれども、確かに人間だ。
人間のはず、だ。
だから、やめろ。
あの時と同じ目で、ドレークスを見ていた時と同じ眼差しで俺を見るのを、やめろ。
それじゃあ、まるで、俺がアイツと同じみたいじゃないか。
「人間だと? 自分が真っ当な人間だと、本当にそう思っているのかい? 可笑しなことを言う。誤魔化しはとうに剥がれ落ちているのだよ、雨沢藍徒」
どうして。せめて、嗤ってくれ。
惨めな末路を迎えた自分を、下らないと嘲笑してくれ。
呆気なく朽ち果てようとしている自分に、無様だと悪罵を吐きかけてくれ。
どうして、どうしてそんな、悲しそうな顔をしているんだ。
「――――ぁ―」
何かが叫び散らしている。静かに告げられるその言葉を聞きたくなくて、掻き消そうとしている。
聞きたくない。やめろ。
耳を削ぎたくても、腕は動かない。
意識よりも先に聴覚が死ぬことだけを、切に願う。
俺は、どうして―――。
「――君は、嘘をついたね」
――嫌だ。
嫌だ、嫌いだ、消えてくれ、怖い、枯れ果ててくれ、鬱陶しい、絞めあげてくれ、下らない、嗤ってくれ、嘆かわしい、拒絶してくれ、狂おしい、噛み砕いてくれ、醜い、お願いだ、苦しい、この頭から、悲しい、離れてくれ、可笑しい、おぞましくて、吐きそうだ、浅ましくて、溶けてくれ、気持ち悪くて、踏み潰してくれ、どうにもならなくて、引き裂いてくれ、耐え難くて、赦してくれ、愚かしい、助けてくれ、この気持ちを、どうか、――殺してくれ。
「約束だ。最期に教えてあげよう。君が必死に覆い隠した感情、冷え切った熱がどの様なものだったかを」




