第22話「再臨する怪物」
激突したのは硬いアスファルトではなく、影だということを全身が感じ取った。『禁忌』の影に呑まれた時と似たような、底無し沼に沈み込んでいく感覚。
けれど意識は依然として消えずに残っている。
「ーーーー!」
藍徒は声を出して灯火と花に呼びかけようとしたが、無声映画のように口からは何も音が発せられなかった。焦燥に駆られて舌打ちをするが、その音すら自分の耳には届かない。
何も見えない暗闇の中で、溺れているかのように手足をばたつかせる。浮上することも出来ず、もがけばもがくほどに下に落ちていく。
しばらく沈んでいくと、目の前に少しの光が見えた。目を凝らしてみると、そこには弱々しい光を放っている月が、他には何も無い空に浮かんでいた。
「ようこそ、『偽造』の『居場所』へ」
その声に応じるように、自分たちを包み込んでいた影が音を立てて弾けた。四方に飛び跳ねた影の飛沫は地面に吸い込まれるように消えた。
「っぷはぁ! はぁ、はぁ……」
ふらつきながらも、なんとか藍徒はその場に立っていた。呼吸を忘れていたことを認識して、荒く息を吸う。そのまま二人の無事を確認するために、慌てて周りを見渡す。
「……はぁ、はぁ。良かった、藍徒さん……」
「二人とも無事のようね」
そこには、同じように荒く呼吸を繰り返し、その場に座り込みながら安堵した表情で藍徒を見つめる灯火と、不自然な程に平然としている花がいた。
「ここはどこだ……?」
少しづつ息を整えながら、藍徒は眼前に広がる景色に眉を顰めていた。
辺り一面は静寂に包まれた常闇の森が広がっていて、その奥には幽霊屋敷のような廃れた洋館が唯一の光である月光に照らされている。
不気味な風が首筋を撫でるように通り抜けて、静寂を破るように木々を揺らす。騒めくその音は怨嗟の声と思えるほど、おどろおどろしい。
そんな無人の都市とは似ても似つかない、現実離れしたこの状況に思わず、
「ファンタジーだな……」
と呑気に呟いてしまった。
「今からここが貴方たちの『居場所』です」
「ーーッ!」
影が破れた時と同じ声が聞こえてきて、藍徒たちはその声の方へ目を向けた。
その目線の先には、自分たちをこの場所へ連れて来た張本人であるドレークスと、何人かの『偽造』の面々が屋敷を背にしてこちらを仮面越しに見つめていた。
「……テメェ、なんで俺たちをこんな場所に呼んだ?」
「貴方たちに我々と同じヴィルムート様の手駒に、『偽造』になってもらうためです。拒否は受け付けません」
ドレークスは藍徒の疑問に答えた後、右手を開きながら前に出した。するとその真下にまた影が広がった。それを見て藍徒たちは警戒しながら、それぞれ魔法を発動させる。
しかし、次の瞬間。
「拒否などという愚かな選択はしないと思いますがね」
藍徒と灯火は表情を驚愕の色に染めていた。
その影からは、自分たちが殺したはずの怪物が牙を嚙み鳴らしながら這い出ていた。
※※※※※※※ ※※※※※※※ ※※※※※※※※※
怪物。魔獣。バケモノ。
それにはそんな名前が相応しい。
凶相を浮かべ、ギチギチと音を立てながら歯軋りをし、固い地面を凶悪な爪で抉っている、巨躯の怪物。
確かにそれは自分たちが決死の覚悟で相対した怪物だった。
けれど、一つだけ以前と違うところがあった。
あの怪物の弱点である眼球を覆っているように、鉄の十字架が打ち付けられていた。
「さぁ、ロイゼス。食事だ。たんとお食べ」
ドレークスがまるで親のような優しい声で呼びかけると、応えるように怪物は咆哮をした。暗い森が大きく震える。
唖然としていた藍徒と灯火は、その咆哮で警戒心を取り戻して、あの時と同じように怪物を鋭く睨み付ける。
「……え?」
しかし、その牙が向けられたのは自分たちではなく、近くにいたドレークス以外の『偽造』の人間だった。
餌である彼らは胸の前に手を合わせながら、祈るようなポーズを取っていた。そして怪物は仮面ごとそんな彼らに貪るように噛み付く。肉が引き裂かれたような音と、その肉をさらに細かく噛み千切る咀嚼音が断続的にその場に響き渡る。ドレークスは血飛沫を被りながら、怪物が食事をしている様子を楽しそうに見つめていた。
「……っ」
灯火は思わず、口に手を抑えて目を逸らした。無理もない。いくら花の「ニセモノ」たちの首を刎ねたといえど、目の前に血と肉と臓物をぶちまけながら自分たちと同じ人間が喰われているのだから。
藍徒も喉まで出かかった嘔吐感を押しとどめて、その悲惨な光景をただ眺めていた。
そして怪物の餌は、とうとう最後の一人となった。
その『偽造』の人間は幼気な少女のような容姿をしていた。肉片となっていった者たちと同じように手を合わせていたが、その肩は小刻みに震えている。
当然のようにそんなことは気にも止めず、怪物は血塗れの牙を彼女の頭上に向ける。
『烈火の焼却【ブレイズ・イレース】!」
花の怒号混じりの詠唱と共に、灼熱の球体は大口を開けた怪物の横顔に放たれ、衝突し、爆発した。怪物が悲鳴とも取れる雄叫びを上げる。焦げる音がしながら怪物の左頬に大きな穴が空いた。
爆風によって、怪物の肉片と共に少女の体は大きく飛ばされ、木の幹に背中を打ち付けてその場に倒れこんだ。
花は怪物が怯んでいる隙に、少女の元へ駆けていく。藍徒と灯火は何故かそれをただ見ていることしか出来なかった。
「裏切り者の分際で同情ですか?」
あと寸前のところで、銃剣を持ったドレークスに道を塞がれた。鋭い眼光を向ける花を見て、ドレークスは鈍色の光を放つ銃剣をちらつかせて、彼女の頭上にその凶器を振りかざした。
「ーー花!」
藍徒は『暴動』を発動させながら、花の方向に足を疾駆させた。ドレークスの銃剣が花に接触する前に藍徒が間一髪のところで花の手を取り、そのまま抱き抱えその場を離れようとする。
その時ーー、
「凛花様、助け……」
仮面が外れた『偽造』の少女の、弱々しく助けを求める声が聞こえてきた。振り返って見ると、少女の顔は死の恐怖で流れた涙で濡れていた。
しかし、言い終わる前に彼女の頭部は胴体から切り離されるように、怪物の牙によって噛み千切られていた。こうなる結末だったのだろうか。皮肉なことに、最後の彼女の表情は血溜まりに転がっている仮面と同じだった。
そのまま、最後の餌は怪物によってただの肉となった。
「いやぁああぁぁぁ!!!」
悲痛な断末魔が走る。血が滴る音と、不快な咀嚼音は、それを上回る声量で掻き消された。
藍徒は苦悩の表情に顔を歪ませていた。鼓膜が破れる程の花の叫びにではなく、あの場で足が動かなかった自分の臆病さに。
熱い涙が藍徒の肩に落ちる。それを感じて、藍徒は唇を噛み締めて更に足を速める。
一刻も早く、この場から逃げ出したかった。
「さぁ、ロイゼス。あの三人をここへ持ってきておいで。あぁ、摘み食いはいけないよ。ヴィルムート様にお仕置きをされてしまうからね」
優しく体毛を撫でて、ドレークスは最後の食事を終えた怪物に愛おしさに満ちた声をかけた。
そして、怪物は今一度森に轟く程の雄叫びを上げ、主人の命令通り地面を蹴り、牙を覗かせながら、駆け出した。
「ーーッッ! 灯火、逃げるぞ!」
地響きのような怪物の足音を聞いて、藍徒は今の一連を見ていた灯火に手を伸ばす。
腕を掴まれたことを遅れて自覚して、灯火は慌てて頷く。灯火の腰に空いている右腕を回し、抱え込むように持ち上げて走り出す。
「うっ……ひぐっ……あぁぁ……!」
胸が、痛い。
花の悲痛な叫びと、『偽造』の彼女の死の恐怖に塗れた表情が、深く、抉るように心に突き刺さる。
同時に、何も出来なかった自分にポケットにあるナイフを突き立てたくなる。
「クソが……!」
出かかった後悔を噛み殺そうとしたが、一言だけ出てしまった。足は、止まることを許さない。ただ、背後から追いかけて来る怪物から一歩でも多く逃げる。 今、自分がやるべきことはそれだけだ。
後悔はもうしないと決めたはずなのに。
『偽造』の少女への悔やみきれない後悔を残して、暗くて深い森に逃げ込むように駆けて行った。
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土煙を少し捲き上げ、端々に剥き出しになっている木の太い根を避けながら、更に奥深く駆ける。
後ろからは地面を爪で削り、木々を薙ぎ倒し、こちらに咆哮を上げながら追いかけて来る怪物の盛大な足音が聞こえてくる。分かり易い程の死の音だ。
「やっぱ、速ぇな……目ぇ、隠してるくせして」
段々とその音が近くなって来るに連れて、悔恨に染められていた思考は、忘れかけていた焦燥感を取り戻した。
このままでは、追いつかれるのは時間の問題だ。
藍徒は右に抱えている灯火に呼びかける。
「灯火! 前と同じように『涙淵』で足止めしてくれ!」
「分かった……!け ど、この前と同じ手が通じるかな……?」
「けどこのままじゃ、追い付かれちまう! 少しでいい! 動きを止めてくれ!」
灯火は頷いて握り締めていた『涙淵』の球体を数弾 投げ込んだ。すると、そこから巨大な結晶の柱が美しい光を放ちながら、数本出現した。乱立するように立ち並び、怪物の道を塞ぎ込む。
しかし、怪物はそれを物ともせずに突進する。
鋭利な鎌のような爪を振り上げて、目の前の『涙淵』の結晶を次々と打ち砕いていく。怪物の速度自体はほとんど変わらず、足止めにすらならない。
「チッ……! 本当にバケモンだな……!」
苛立ちを隠せず、首だけ振り返って怪物を睨み付ける。結晶を難なく破壊する様は、まさにバケモノだった。
目論見が頓挫して、しつこいくらいに焦燥感が自分の心をかき乱す。結晶が砕け落ちる音が、脳と周辺の森に木霊する。
そして、怪物の目の前に立ちはだかる結晶の柱は、最後の一本となった。怪物は今までと同じように腕を振り上げ、鋭い爪を打ち込もうとした。
「許さない……!」
その瞬間、花を抱えている左腕の近くから、火花を散らしながら閃光が走った。
爆発音が後ろから聞こえ、慌てて振り返ると、振り上げた怪物の右腕の手首から上が消し飛んでいた。醜い傷跡から赤黒い鮮血が噴出する。
その瞬間、少しだけ怪物が蹌踉めき、動きが止まった。
「よし……! 今だ!」
足に『暴動』を更に強く込め、力強く走り抜けた。着実に破損した右手が再生していくのをよそに、突き放すように怪物から距離を取る。
元通りになった右手で地面に爪を立てて、駆け出そうとするも、藍徒たちの姿は目が塞がっている怪物には感じ取れなかった。
自身の血で汚れた地面に一人、いや、一匹となった怪物は、標的を逃したことへの苛立ちの咆哮を上げた。
「なんとか撒けたか……」
「みたいだね……」
息を潜ませ、近くに怪物がいないことを確認すると、藍徒と灯火は暗い木陰で深く息をつく。さっきまで駆けていた場所とは全く違う方向に逸れ、自分たちから見て正面以外は死角となっているこの場所にひとまず落ち着いた。
「……助けられなかった」
膝を抱えたまま、嗚咽を漏らしながら花は涙目で後悔を呟いた。
「……花」
「私だけ助かって、あの子は助からなかった……私が助かるために、あの子が殺された……!」
自戒をするように自分の腕に爪を立てる。少し長くて尖っている彼女の爪は、皮を僅かに裂いた。
痛みなど御構い無しに、突き刺すように深く爪を入れ込む。
それが見ていられなくて、藍徒は彼女の両腕を掴んだ。彼女の指先は少し血で滲んでいる。
「ーーっ、離して!」
花は拒むように藍徒の手を振り解こうとする。しかし、『暴動』を発動している今の藍徒の腕力では敵わない。藍徒は、未だに俯いたままの彼女を悲しそうに見つめていた。
「離さない」
「私だけ生きているなんて、虫がよすぎる……あの子は、死ぬことを恐れていたのに……」
「……お前は悪くないよ」
藍徒がその同情の言葉を口に出した瞬間、花は顔を上げて藍徒を鋭く睨み付けた。
その凄まじい剣幕を向けられ、藍徒は少し力が抜けてしまった。
「ーー気休めはよして」
そう吐き捨てて、藍徒の手を強引に振り解いた。
そして、頬に涙を伝せながら、花はそこから立ち上がって歩き出した。
「花!」
「……ごめんなさい。藍徒、灯火。きっと、『偽造』を倒してね」
満面の笑みを浮かべて、花は自分の影に沈み込んで消えた。
その笑顔が愛想笑いだったことに、藍徒と灯火は気付いていた。
「俺は……なんで、あんなこと言っちまったんだ……!」
たった今この場から消えた彼女に、藍徒も後悔の言葉を零した。
※※※※※※※ ※※※※※※ ※※※※※※※※
低く喉を鳴らし、鼻をひくつかせ、大きな足音を立てて、今も逃した獲物を探すために闇に包まれた森を彷徨う怪物。
けれど、もう彷徨う必要は無くなった。
「私はここにいるわ」
怪物の目の前に、髪の長い少女が黒い影から現れた。怪物はそれが探し求めている獲物だと認識し、禍々しい凶相を露わにした。
そして、歓喜の雄叫びを上げる。
「私のことを、覚えているかしら?ロイゼス」
彼女の頬を伝う涙は、彼女の周りに浮遊する灼熱の球体によって、蒸発した。




