第21話「偽りの駒」
無人の都市に何度目かの朝日が昇ってきた。
光に照らされて、だんだんと都市の姿が露わになる。
同じようにマンションにも射し込んでくる茜色の陽の光を見つめて、瞼を少し閉じる。
一つ深呼吸をして、呪文を唱える。
『暴動の初動【ライオット・ファースト】』
そう唱えると、全身に血潮と共に『暴動』が流れ込んできた。もう慣れた感覚には新鮮味の代わりに、妙な親近感が湧いてくる。
軽く閉じていた瞼を開けて、藍徒は足に力を込めてベランダの柵から飛び出した。
何も無い空中に体を投げ出すと、全身に風が強く当たる。
マンションのベランダから隣のビルに飛び移り、そのままそのビルの屋上を駆け抜けてまた隣へと飛び移って行く。そう繰り返して、都市を一望出来る高さの場所までたどり着いた。
鮮やかな照明で煌めいていた夜景も美しいものだったが、朝焼けに照らされた都市の光景も目を見張るものがあった。
景色に少し見惚れたあと、藍徒は都市を隅々まで見渡した。
「よし……今日も異常は無いな」
そして異常がないことを確認して、来た道のりをもう一度駆ける。
風を感じながら足を疾駆させていると、大分靴底が擦り切れていることに気付いた。
「もうそろそろ靴変えるか……」
誰も聞いていない他愛のない独り言を零しながら、弾きだすように空中に飛び出す。
少しすると、マンションが見えてきた。飛び出していったベランダに目を向けると、自分に向けて手を振っている長い黒髪の少女がいた。彼女に微笑みを返して、藍徒は彼女の隣に降り立った。
「お疲れ様、藍徒」
「起きてたんだな、花。灯火は? まだ寝てんのか?」
「えぇ。ほら、あそこで」
花は後ろを向いて部屋の中に目を向ける。藍徒も同じように振り返り、開けっ放しの窓から部屋の中を覗いた。
そこには布団の上で小さく丸まって眠っている灯火がいた。彼女の寝顔があまりにも穏やかなものだったから、藍徒と花は顔を見合わせて笑った。
そして瞳を合わせたまま、花は藍徒に口を開く。
「それで、今日も異常は無かった?」
「あぁ。言われた通り、上空の方まで『暴動』で移動して都市の全貌を見渡してきたけど……本当にそんな感じで大丈夫なのか?」
「心配しなくても大丈夫よ。幸いにも以前貴方たちを監視するために仕掛けておいた魔法が、まだ機能しているようだから」
そう言うと花は虚空を指でなぞるように何かを描いた。すると、この都市のおおまかな全体図が映し出され、そこからおびただしい数の印が浮き上がった。
全ての印を確認して、花は小さく頷く。
「こちらの方でも、異常は無いわね」
「なぁ、そんなもんがあるんなら俺わざわざ行かなくても良かったんじゃないか?」
「そんなことは無いわ。私の魔法の監視が行き届くのはこの都市の地上付近だけ。上空から襲ってくるかも分からないのだから、警戒は厳重にするべきよ」
空中で点滅を繰り返している印に花が息を吹きかけると、全体図は風に溶けるように消えた。
外に目を向けて朝焼けの都市を見つめる。少し風が吹いて、彼女の長い髪が靡く。
「そういえば、もう『刻印』の方は大丈夫なのか?」
「えぇ。もう随分と回復したわ。これならいつでも魔法が使える」
彼女は服の袖を捲って、藍徒に右腕を見せた。
その右腕には『空洞』の紋章が黒く刻まれていた。
「矢継ぎ早に質問なんだけど、お前の魔法ってなんだ? 使えるのは『禁忌』だけなのか?」
「いいえ。私の使える主な魔法は『烈火』。貴方たちとの交戦で見せたあの炎の球体を放って、対象を焼き払ったり、爆散させたりすることが出来る魔法よ」
それを聞いて、藍徒は下のスクランブル交差点に目を向けた。『烈火』による爆発によって穿たれたアスファルトが、未だに静寂な無人の都市に爆音と爆風が轟いていたことを物語っていた。
「なんなら、今から見せましょうか?」
「いや、いい。というか、やめろ。これ以上この場所が穴ぼこだらけになったら困るし、灯火も起きちまうだろ」
「ふふっ、冗談よ」
再びグリモアを開こうとする彼女を止めると、花は意地悪な笑顔を見せてまた景色に視線を移した。
そんな彼女を見て藍徒は嘆息を吐くが、同時に打ち解けあえたことに嬉しさを感じていた。
打開策が打ち砕かれたあの朝から数日が経った。幸い、未だにどのチームからも襲撃を受けていない。そのおかげで、自分たちの魔力は殆ど回復して、いつでも戦闘に対応出来るような態勢は整っていた。
不気味なぐらいに穏やかな日常を送っていた。
自分たちが命の危険に晒されているという自覚さえ、意識していなければ薄れてしまいそうなほどに。
ーーまぁ、自覚してるから警戒してるんだけどな。
心の中でそう呟いてはいるが、頭の中では今日も平和であると無意識に思っていた。
「ここが『空洞』の『居場所』ですか。こんなにも居心地のいい『居場所』とは、羨ましい限りです」
当然と言えば当然のように、その平穏は崩れ去った。後ろの方から聞こえてきた抑揚の無い声が、背中をなぞった。
振り返ってみると、蔑んでいるような表情の仮面を身につけている男が部屋の中に佇んでいた。
「ーーッッ!」
藍徒と花はさっきまで慢心していた思考が、急激に恐怖と焦燥感に染め上げられていくことを自覚した。
仮面の男はたじろいでいる花に向かって、声をかけた。
「お久しぶりです。凛花殿。いや、今は『空洞』の花殿とお呼びした方がよろしいですかな?」
先程とは打って変わって嘲笑混じりの声色で言葉を放った男に、花は睨みながら震えた声を出した。
「ドレークス……」
「おや、呼び捨てですか。以前のように、『さん』付けではないのですね。寂しいものです」
「おい」
物寂しそうに言葉を紡ぐ男に、藍徒は低い声で男の言葉を遮った。すると、男はたった今気付いたかのように、藍徒に向かって声をかけた。
「おや、貴方が雨沢藍徒ですね。申し遅れました。私は『偽造』の一員である、ドレークスと申します」
そう言い終わると、ドレークスは藍徒に向かって深く大袈裟にお辞儀をした。依然として藍徒と花は静かにドレークスに鋭い眼光を突き立てている。
「そして、この健やかな寝息を立てて眠っているお嬢さんが雨沢灯火ですか? これは、可愛らし……」
ドレークスは下げた頭から覗き込むように、真下で未だに眠っている灯火を見ていた。
だが、一瞬にして灯火の姿は消えた。
ゆっくりと頭を上げると、さっきまで自分を警戒していた藍徒と灯火の姿も無くなっていた。
ふと、ベランダの方を見遣ると藍徒が花と灯火を抱えて外に飛び出していた。
彼の必死な表情を見て、思わずドレークスは声を漏らした。
「……子兎が」
仮面の中でニヤリと嘲笑の笑みを浮かべて、ドレークスも空中に体を投げ出した。
※※※※※※ ※※※※※※ ※※※※※※※
「あんな奴に灯火の寝顔じっくり見させてたまるかよ……とりあえず、逃げるぞ!」
「灯火! 起きて!」
「……ん。……どうしたの?花」
「……襲撃されたわ。『偽造』に」
「ーー! 早く逃げないと!」
「だから、今逃げてんの! 落ちないように掴まっとけよ!」
灯火と花を片腕で乱暴に抱えて、大きく地面を蹴る。高く飛び上がって、さっき同様に建物を飛び移る。
とにかく今は逃げなくては。あれは確実に厄介な相手だ。『暴動』を足に込めて、さっきとは比べ物にならないスピードで必死に駆ける。
「どうして、あの男は私の魔法に引っかからないの?」
「当然です。貴女にあの魔法を手解きしたのは、私なのですから」
花が口惜しそうに呟くと、後ろの方から嘲笑の声が聞こえてきた。
慌てて振り返ると、自分たちの後方にドレークスが同じように宙を飛んでいる姿が見えた。
藍徒はその事実に吐き捨てるように、吼える。
「ーーッッ! バケモンかよ! テメェ!」
建物から建物に飛び移って逃走しているという人間離れした行為自体、藍徒の『暴動』によって強化された身体能力によって可能となっているのにも関わらず、この男はそれをなんてことないようにやってのけている。
まさに化け物じみている。そう思っていると、突然顔に焼けるような熱を感じた。
あまりの熱さに顔をしかめていると、自分たちの周りに灼熱の球体が複数装填されていることに気付いた。
『烈火の焼却【ブレイズ・イレース】』
次の瞬間、球体が眩しい光を撒き散らしながらドレークスに向かって凄まじい速度で放たれた。あの球体に触れれば骨の髄まで焼け焦がされるか、体が風船のように爆散するかのどちらかだ。
しかし、それに臆することもなく、ドレークスは体を翻して次々と避ける。
そして、最後の一投を回避するとドレークスは花に向かって挑発の言葉をかけた。
「やはり、貴女の攻撃は甘い」
.「貴方の認識もね」
そう言葉を返して花は不敵に笑って、右手を前に突き出して握った。
『四散する烈火【ブレイズ・スキャッター】』
過ぎ去った球体は旋回して、ドレークスの背中へ向けて再び直進してきた。
そして、彼女の呪文と共にその球体は一瞬のうちに爆散した。
「ーーッッ!」
飛び散る灼熱の火種が、ドレークスの背中にいくつも降り注いだ。肉の焼ける音がして、体が紳士服ごと焼け焦がされた。そして、一つだけ原型をとどめていた球体が怯んでいるドレークスの胸に向かって放たれた。
「もう私は『空洞』だから」
そう花が言い放つと、球体はドレークスの胸部を溶かして入り込み、爆散した。
ドレークスの肉体は木っ端微塵に四散して、下に血肉の雨となって落ちていった。
「やったか!?」
藍徒はドレークスの肉片が落ちていくのを見て、ドレークスが死んだことを確信した。
しかし、
「確かに侮っていました。あと少し『禁忌』を発動するのが遅かったら、確実に死んでいましたね」
さっきミンチになったはずのドレークスが傷一つない姿で目の前にいた。
藍徒たちは、有り得ない事象を目の当たりにして驚愕の声を漏らした。
「ーー! なんで!?」
「私も『禁忌』を使えるようになったのですよ。もっとも、貴女のように『ニセモノ』をいくつも生み出すことは出来ませんが」
ドレークスはそう答えて、伸ばした手から赤黒い十字架を真上に投げた。
その十字架の中心が音を立てて割れると、そこから無数の糸がうねるように藍徒たちに向かって降り注いできた。
「ーーッッ! ヤバイ、早く逃げ……!」
ドレークスの横を通り過ぎて目の前にあるビルの屋上に着地しようとしたが、寸前のところで糸に足を引っ張られて勢いが死んだ。
「鬼ごっこはここまでです」
そして赤黒い糸に足から全身までをがんじがらめに縛られた。身動きが取れず、頭から地面に落下していく。藍徒の腕から落ちた灯火と花も同様に、全身を縛り付けられ落ちていく。
マズイ。これは本当にマズイ。
この高さから落ちたら頭からでなくてもただでは済まない。痛いほどに風が当たる。
『暴動』を腕に込めて、なんとか破ろうとするが糸はビクともしない。
だんだんと地面に近づいていく。死の予感が確実なものとして思考を埋めていった。
「クソが!! こんなところで、死ねるか!」
むざむざと死ぬ訳にはいかない。
更に『暴動』の力を込める。文字通り、必死になって脱しようとするがもう遅かった。
もう地面はすぐそこだった。
走馬灯なんて見たく無い。ただ、今は果ての無い虚しさが心を染め上げていく。
「死なせはしません。貴方たちは、あの方の大事な駒となり得るのですから」
『偽造』の男がそう言い放った瞬間に、彼らの頭が衝突して脳の中身と血肉で染まるはずの地面は、一面黒い影に姿を変えた。
そしてそのまま沈み込むように、藍徒たちは影に呑み込まれていった。




