第20話「理不尽」
「存在しない……?」
「はい。本来なら『選定』が始まるとともにグリモアに『禁忌』が伝承されるのですが、何故か今回はどこにも記述が確認されていません」
ヴァイオレットからそう告げられて藍徒と灯火は今一度、頭の中でグリモアのページを片っ端に開いた。
しかし、彼女の言っていた通り、あるのは自分たちの魔法だけだった。他のページは変わらず真っ白だ。
「……原因は?」
花がヴァイオレットに向かって、低い声で尋ねた。けれど、ヴァイオレットは申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。
「不明です。おそらく、前回の『選定』でなんらかの問題が起きたのでしょう。私には、どうすることも出来ません」
「そんな無責任な……」
「それに、『禁忌』を行使すること自体危険です。……あれは、一種の自滅行為です。貴女も、それを理解しているはずでは?」
花に放ったヴァイオレットの声は、その場の空気を一変させるほど、冷たいものとなっていた。
そう言われた花も自覚はあった。『禁忌』というタブーを犯してしまったことの重さも身に染みている。
「だけど、このままじゃ私たちは……!」
『偽造』の勢力を目の前にして、今の自分たちではあまりにも非力だ。
このままでは、無残に殺されるだけだ。
「いいんだよ、花」
ヴァイオレットに食ってかかる花を制止して、藍徒はヴァイオレットは向き直る。
「ありがとうございました。ヴァイオレットさん。いつも通り、死ぬつもりで足掻きますんで。生きてたらまた世話焼いて下さい」
藍徒は困ったように笑った。いや、実際には本当に頭を悩ませているのだが。
だけれど、その表情に絶望は何処にも見当たらなかった。
そんな力ない笑みを浮かべる藍徒を見て、ヴァイオレットは白くて美しい髪を揺らしながら、丁寧にお辞儀をした。
「私にはこれぐらいのことしか出来ません。ですが、あの方と同じように貴方たちの健闘を祈っています。それでは、私はこれで」
少し残念そうな声を漏らしながら、ヴァイオレットは指を鳴らして、その場から消えた。
理不尽だ。神様とやらは、どれだけ自分たちを嫌っているのだろうか。
これで、対抗できるかもしれない手立ては完全に消えた。
灯火も花も、落胆した表情を浮かべている。
沈み込んだ空気の中、刹那の静寂が訪れる。
まるで時間が止まったかのように、呼吸をする音も聞こえてこない。
それを破ったのは藍徒の独り言だった。
「……腹、減ったな」
「え?」
「灯火、腹減った。俺も手伝うから、飯作ろうぜ」
灯火と花は藍徒の場違いな発言に固まっていたが、やがて灯火はクスリと笑って、台所に向かおうとしてその場を立つ。
「ちなみに、牛丼は無しだからね」
「えぇ……」
「えぇじゃない。まぁ、藍徒さんが手伝ってくれるんなら、今日は手の込んだご飯にしようかな」
台所に立った灯火は嬉しそうに藍徒と言葉を交わしながら、エプロンを着けて、袖を捲った。
笑い合う二人は、まるで愛し合う夫婦のようだった。
依然として布団の中で呆気に取られている花に、台所の方から声が聞こえてきた。
「花は何が食べたい?」
「えっ? わ、私?」
「他に誰がいるんだよ。やっぱり、力つけるためにも牛丼が」
「しつこい」
「だぁぁ! お前まだ魔力残ってたのかよ! 頼むからここで『涙淵』使うの止めろ!」
『涙淵』の結晶を生成しようとしている灯火を、藍徒が慌てて止めている。
そんな彼らのくだらないやり取りを目にして、花は幸せそうに目を細めて笑った。
焦りと不安に駆られる暇はない。
打開策が消えたなら、また見つけるしかない。
抗うために。
その活力のために、「空っぽ」な三人は笑い合いながら今日を生きることにした。
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音が聞こえてくる。
もう少しで消え入りそうな呼吸と、滴り落ちる血の音が、暗く冷たい部屋に反響する。
部屋の床には、凄惨な死体が転がっていた。
足の無いもの。腕の無いもの。頭の無いもの。
そもそもヒトの原型をとどめていないもの。
どれをとっても、ただの肉塊に変わりないものが、血溜まりの中でいくつも朽ち果てていた。
そんな現状を目の当たりにして、ヴィルムートは仮面では隠し切れないほどの憤りを露わにした。
「……貴様、何のつもりだ」
「いやね、この前は勝手に部屋にお邪魔しちゃったから正面から入ろうとしたら、キミの仲間がボクを殺しにきたからさ」
その怒りの矛先を向けられた異常者は、ヘラヘラと笑いながら右手で掴んでいる死体のなりかけのような『偽造』の人間をその場に捨てた。
「邪魔だったから殺しただけだよ」
そう言い放って、その死にかけの人間を大きく蹴り飛ばした。血飛沫を飛び散らせながら、部屋の隅まで飛ばされた配下を、ヴィルムートは蔑んだような表情で見下ろしていた。
「あれ? 助けないの? 大事な仲間なんでしょ?」
嘲笑を浮かべて挑発をしてくるスレイマンに向き直って、ヴィルムートは不気味なほどに落ち着いた声でこう言い返した。
「……あぁ。あとで必ず助けるさ。貴様を葬った後にな……! ドレークス!」
ヴィルムートがそう叫ぶと床に蔓延っていた影から、刀身の長い銃剣を両手に持った仮面の男が現れた。
スレイマンはニヤリと口を横に裂いたような笑顔で、その男に丸腰で襲いかかる。
迎え撃つためにドレークスはスレイマンの胸を貫こうと、右手の銃剣を彼の心臓めがけて投げた。
しかし、放たれた銃剣はスレイマンによって素手で弾かれ、そのまま金属音を鳴らしながら床に落ちた。
スレイマンはなおもドレークスの方向に足を疾駆させて、襲いかかる。
そして、二人の距離がゼロに等しくなった。
スレイマンは死んだ目を大きく見開いて、ドレークスの首筋に向かって右手で手刀を作って叩き込もうとした。
すると、その瞬間スレイマンの右手の手首から先が切り落とされた。噴出した鮮血と共に、右手はその場に転がった。
致命傷の代わりに、返り血を浴びたドレークスは血の付いた銃剣を再び彼の心臓に突き立てようとする。
しかし、心臓に達する前にまだ残っている左手で銃剣は砕かれた。四散した鋼が床に散らばる。
「足元がお留守ですよ」
ドレークスの嘲笑に満ちた声を聞いて、スレイマンは笑顔を消して自分の足元を見た。
そこには、床に転がっていたはずのもう一つの銃剣によって貫かれた自分の左足があった。
踏み込もうとした足は機能を失って、その場にスレイマンは倒れこみそうになる。
だが左足に突き刺さっている銃剣を引き抜いて、ただの肉となった左足を無理矢理地面に立たせた。
「いいねぇ……いいね、いいね、いいね、いいねぇぇ!!」
そして、異常者は右手と左足の激痛に悶えることもなく、それどころか歓喜の声をあげて歪んだ笑顔を見せた。
彼の白いスーツは、自分の血で真っ赤に染まっていた。
「そうだよ! これなんだよ! ボクがしたかった殺し合いは!けど、これじゃあボクが一方的にやられてるだけだ。次は、ボクの番だよ」
歪んだ笑顔のまま、スレイマンはまたドレークスめがけて使えない左足を無視して駆けようとした。
その時、ドレークスの後方にいたヴィルムートの手から、スレイマンの目の前に赤黒い十字架が落とされた。
床に落とされたそれは、無数の赤黒い糸となってスレイマンを縛り上げた。
ヴィルムートはがんじがらめにされて身動きが取れないスレイマンに向かって、憤りを抑えて問うた。
「一つ聞いておく。貴様は何故我々を襲った?」
「……ボクが襲撃することを恐れてキミたちが戦力を整えていたから来たんだよ。だって、わざわざ準備してくれていたんだから、遊びに行かなきゃ勿体無いでしょ?」
「まったく、貴様と『同盟』なぞ組んだあの『背徳』の老骨は何を考えているのだろうな。貴様を見ていると吐き気を催すのは、私も同意するが」
依然として笑っているスレイマンを見て、ヴィルムートは嫌悪感を隠せなかった。
まるでゲームを楽しんでいるかのように、嬉々として笑っている異常者。そのゲームの代償として失われた右手と左足など、なんとも思っていないように彼は満足そうだった。
「貴様は本当に欠陥人間だな」
「それはキミだって同じだろう? いや、この『選定』に参加している時点でもう普通じゃない。もともと血生臭い祭りなんだよ。『道化師』の『選定』っていうのは。その十字架だって、誰の心臓から作られたのかな?」
「…………」
ふと部屋の隅を見ると、新たな死体が転がっていた。それは心臓を抉り取られて、胸の部分からは血が止めどなく溢れ出していた。
その死体はさっきまで僅かな息をしていた『偽造』の人間だ。
「キミも相当イカれてると思うけどね~」
ヴィルムートの左手は血で染まっていた。
それに気付いたスレイマンは、ケラケラと彼に笑いかける。その声色はお前も同類だと言っているようだった。
そんなスレイマンの挑発にヴィルムートは冷たい微笑を返した後、彼の死んだ目を見ながら別れを告げた。
「さぁ。貴様ともここでお別れだ。その吐き気のする欠陥を抱いたまま、死ね」
「言われなくてもそろそろ帰るよ。もうじき、お迎えが来る頃だから」
ヴィルムートがグリモアを開こうとした瞬間、窓ガラスが割れた音がした。
慌てて音のする方向に振り返ると、そこには月光に照らされている無表情の少女がいた。
「……貴様、『憂鬱』の人間か?」
ヴィルムートはその少女を睨みながら、低い声で問いかける。ドレークスも新たな銃剣を取り出して、その少女に向ける。
すると、少女はその問いかけに答える前にその場から一瞬にして消えた。
「ーーッッ!? 何処へ消えた!」
仮面の下では驚愕の表情を浮かべながらも、暗い部屋の中を見渡す。
すると、その少女はがんじがらめになっているスレイマンの傍にいた。
「やあ、リベル。タイミング的には、バッチリだよ」
「……主人。少し油断し過ぎです。スーツが汚れてしまっているではないですか」
「ごめん、ごめん。つい楽しくなっちゃって」
「右手は既に回収致しました。早く帰って縫い合わせましょう」
少女はスレイマンに絡み付いている赤黒い糸を、無理矢理引き千切った。
解放されたスレイマンは、依然としてこちらを睨み付けている『偽造』に向かって、お礼を言った。
「ありがとうね、ドレークス。次会う時にキミがまだ生きていたら、また遊ぼうね」
「逃がしません……!」
ドレークスは月光に照らされて鈍色に輝く銃剣を構えて、スレイマンと少女に切りかかろうと駆ける。
しかし、寸前のところで彼らは一瞬にして消えた。横に薙ぎ払われた銃剣は肉ではなく虚空を切り裂いて、風を切る音だけが虚しく響いた。
最後まで、あの異常者は笑顔だった。
ヴィルムートは転がっている死体を見つめながら、ドレークスに問うた。
「……何人、殺された」
「……七人です」
ドレークスのグリモアに映し出された十字架は、半分ほど光を失っていた。
「……ドレークス。魔獣の準備を進めろ。近々、『空洞』に攻め入る」
「彼らを抹殺するのですか? それよりも、戦力を補充した方が……」
「いや、違う。引き入れるのだよ。彼らを、我々と同じ『偽造』として。そして、今度こそあの男を殺す……!」
そう言い放った後、ヴィルムートは靴の音を響かせて、血生臭い部屋を出て行った。
割られた窓ガラスから入る月光の下で放たれたその言葉は、焦りと憤りに満ちていた。




