第17話「須藤 花」
「……ん」
少し、気怠げな声が漏れた。
苦しくて重い微睡みの中にいたはずなのに、何故か今は心地よい目覚めを感じる。
血が通ってきた頭で、重い瞼に意識を働かさせて、目を開ける。
そこは、彼女にとって知らない天井だった。
眩しい照明の光に顔をしかめて思わず横を向くと、優しく微笑んでくる「空っぽ」が視界に入ってきた。
急に顔を引きつらせて、目の前の少女を死んだ目で睨み付ける。
「……! 貴女、なんで……!?」
「良かった……気が付いたんだね」
「……は?」
そんな凛花の形相は、安堵で破顔した表情を浮かべた灯火の前で、力無いものへとなってしまった。
意味が分からない。どうして、自分の身を案じていたような口振りをしている。
気味が悪いほどににこやかな灯火を見て、凛花が真っ先に思い浮かんだことは、自分は「空洞」に囚われたのではないかということだ。
その証拠として、さっきから体が言うことを聞かない。
きっと、自分が気を失っている間に拘束をされたに違いない。
抜かった、と言いたげな表情をして凛花はもう一度灯火を睨み付けた。
「……私をどうするつもり? 人質として、『偽造』に脅迫をするの? それとも、腹いせとして嬲り殺すの?」
「違うよ。そのどちらでもないよ。私たちはあなたを助けたいだけなの」
光が灯っていない双眸を見つめる目は、どこにも屈折していなかった。
余計意味が分からなくなって、そこから更に嫌悪感も生まれてきた。
「何を言っているの? 貴女は」
「文字通りだよ。あなたを助ける。それだけ」
「だから、その意味が分からないって……」
「お、目覚ましたか」
言葉の続きを遮るように、もう一人の「空っぽ」が仰向けに倒れている凛花に向かって、声をかけた。
「よう、須藤凛花。寝心地はどうだった?」
「……冗談に付き合っている暇はないわ。貴方たちは私をどうするつもりなの?」
「せっかくいい布団で寝させてやってんのに……まぁ、いいや」
そう言われて、凛花は自分に触れている柔らかな感触に気づいた。
拘束具などではなく、布団の上で眠っていたことに認識すると、本当に怪訝そうな顔で凛花は目の前の二人を見つめた。
「……一体、これは何の真似?」
「灯火の言ってた通りだよ。俺たちはお前を救いたいんだ。だから、単刀直入に言う」
その場に座り込み、真剣な眼差しで藍徒は「ニセモノ」に向かって、こう告げた。
「お前、『偽造』を棄てて『空洞』になれ」
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「よっと」
眠っている凛花を起こさないように、優しく敷いたまま布団の上に降ろす。
藍徒のはもちろんのこと、灯火の「刻印」も色がだいぶ薄くなっていた。
心身ともにボロボロだ。
二人も静かに凛花の傍に座り込み、深いため息をつく。
それは、一段落したことへの安堵感からのようなものにも、これからの展開に憂鬱さを隠せないようなものにも見えた。
「とりあえず、これからのことを考えていかないとな……」
「きっと、『偽造』は黙ってないだろうね」
この穏やかな寝顔をしている少女を救う。
出来れば、自分たちと一緒に。
ともすれば、『偽造』との衝突は避けられない。
「きっと、ヤバイんだろうな……話し合いとかで全員『空洞』になってくれねぇかな」
身が震えそうな怪物とも戦った。「ニセモノ」とも死闘を繰り広げた。
自分たちはここ最近死の匂いしか感じていない。
自分たちが必死に喰らい付いた刺客を、意図も簡単に御するほどの『偽造』の勢力を考えると、思わず笑ってしまいそうだった。
今までの戦いを全て無駄だと思ってしまったから。
はっきり言って、絶望的だ。
「絶対無理だよ。それに、ヴィルムートっていう人を藍徒さんは許せないでしょ?」
灯火の言葉を聞いて、藍徒は凛花の悲痛な過去から仮面の男を探り出す。
仮面越しから憐れむような目で彼女を見て、そして優しい笑顔をした黒い紳士服の男。
その笑顔が、彼女の壊れた心につけ込むようなものであったことには、藍徒と灯火には分かっていた。
「……ああいう奴が一番虫酸が走る。きっと、道具としてしか見てないんだろうな。こいつのことも」
彼女の寝顔を見ると、自分のことでもないのに、悲しさと悔しさが疼いて唇を嚙む。
そして、藍徒はおもむろに立ち上がって部屋を出ようとする。
「……灯火はここに残って、そいつを見ててくれ」
「どこ行くの?」
「ヴァイオレットさんに、訊きたいことがあるんだ。ここで話しちゃ、そいつが起きちまうかもしれないだろ?」
藍徒は優しく笑った。
情けないものだったが、その笑顔に嘘はどこにも見当たらなかった。
それに応えるように、灯火は微笑みを返しながら無言で頷いた。
音をなるべく立てないように、ドアを開けて部屋を出る。
そのまま下まで降りてスクランブル交差点まで軋む足を進めると、無人の都市の有り様が視界に入ってきた。
凛花の魔法によって抉れたアスファルトや、吹き飛ばされた信号機が昨夜の死闘を物語っている。
地面があまり抉れていない交差点の真ん中で、藍徒は仕舞っていたベルを取り出して鳴らした。
「おはようございます。藍徒様」
音が消えると同時に長くて白い髪をなびかせて、ヴァイオレットはいつものように現れた。
いつも通り、彼女は美しく丁寧にお辞儀をした。
「おはようございます。少し訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「何なりと」
「この『選定』、他のチームを全滅させる以外に道はあるんですよね? 例えば、自分のチームに他の奴らを引き込むとか」
「……貴方は、彼女を『空洞』の一員にしたいと?」
「はい」
ヴァイオレットの目を見据えて、藍徒は躊躇いもなくそう答えた。
そんな藍徒の目を見て、ヴァイオレットは彼の言っていることに理解できないような表情をした。
「はい、可能です。……けれど、何故ですか? 貴方たちは彼女に殺されかけたというのに」
ヴァイオレットが自分に疑問を投げかけるのが珍しかったのだろうか。藍徒は苦笑をしながら、こう答えた。
「……勝手な同情ですよ。あの女が、どこか自分たちに似ていると思ったから、救いたいと思っただけです」
その答えを聞いてヴァイオレットはきょとんとしていたが、そのあと大人の女性らしい穏やかな笑みを浮かべた。
「そんな貴方たちだからこそ、あの方は信頼を寄せているのですね」
「ん? 何か、言いましたか? ヴァイオレットさん」
「いえ、独り言です」
クスクスと笑うヴァイオレットに、藍徒は首を傾げていた。ひとしきり笑うと、ヴァイオレットは佇まいを正してこう答えた。
「須藤凛花様を『空洞』の籍に置くということ自体は、容易なことです。彼女のグリモアの余白に『空洞』の紋章を書き込めば、移籍は完了いたします」
「紋章って、『刻印』のことですか?」
「はい。彼女の『刻印』に埋められたグリモアの摘出については、私にお任せ下さい」
そう言われて、腕の「刻印」を見る。自分たちのグリモアと書かれているものと同じ、輝く王冠に二対の剣が交差している模様。
「俺、絵心皆無だから灯火に書いてもらわないとな……」
そんな独り言に自分で苦笑すると、藍徒は「刻印」から目線をヴァイオレットに移して、彼女に頭を下げた。
「いつもありがとうございます、ヴァイオレットさん。なんとか足掻いてみます」
「いえ、私にはこれくらいのことしか出来ませんが、貴方たちの健闘を祈っています」
ヴァイオレットはいつもより笑顔で、藍徒に別れのお辞儀をした。指を鳴らすと、一瞬にして彼女の姿は見えなくなり、いつもの無人の都市らしい光景に戻る。
ヴァイオレットを見届けて一人になった藍徒は、少し足早に彼女たちがいる部屋へ駆けて行った。
その表情は、何かを決心したようなものだった。
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「……『偽造』を棄てろですって?」
「ああ。それが、お前を救える唯一の方法なん……」
「ふざけないで!」
藍徒が言い終わる前に、凛花は疲労で身動き取れない体を震わせて叫んだ。
「さっきから、私のことを救いたいとか言っているけど、貴方たちに私の何が分かるの? 同じ欠陥人間だから分かった気にでもなっているの?」
「落ち着いて……」
「黙って!」
灯火の仲裁を叫び飛ばして、目の前の藍徒に食ってかかる。藍徒は依然として、彼女の目を見据えたままだ。
「貴方たちが何を考えているかは知らないけれど、私は貴方たちなんかに屈服しない。人質なんて生き恥を晒す気は無いわ」
死んでいる目で必死に自分たちに喰い下がる彼女を見て、藍徒は躊躇うように口を開いた。
その言葉は、彼女の擦り切れた精神を崩壊させると分かっていたが、それは告げるべきことだった。
「……須藤 花」
「……え?」
「須藤 花。それがお前の名前だろ?」
凛花のさっきまでの威勢は瞬く間に消え、今は驚愕と恐怖で表情が塗り固められていた。
頭を抑えて、息が荒くなっていく。目線はあちこちに泳いでいる。
凛花は震えた声で、拙い言葉を並べた。
「ど、うして……? 私の、名前を……」
「お前の記憶を覗いた。だから、分かった気でいるんだ。お前の苦悩を」
私の記憶。覚えているのは、とても熱かったことと、
ーー君のことなど、彼女は愛していなかったのだよ。初めから。
そう言われて、心が欠けたことだった。
あの日、忘れてしまったはずなのに。
「嫌……嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌ぁっ!!」
その答えを聞いた瞬間に、彼女は悲痛な悲鳴を上げた。
それを信じたくなくて、あまつさえ消し去りたいと言わんばかりの悲鳴を上げた。
「お願い! 殺して! 今すぐ私を殺して!」
動かないはずの体を激情で無理矢理起こして、藍徒に縋るように懇願した。
藍徒の腕に爪を立てながら掴み、うずくまる。
尖った爪を突き立てられて、腕から少し血が滲む。
「殺して……お願いだから、殺してよ……」
虚ろな目で 、呪いのように繰り返す。「殺して」と。
藍徒は顔をしかめた。腕の痛みではなく、彼女の姿をがあまりにも痛々しかったから。
「もう、こんなこと知られたら生きていけない……幸せになれない……だから、私を殺して……」
「ふざけんな」
藍徒は自分に縋り付く凛花の手を振り払って、掴み返して自分の顔の近くまで引っ張る。
藍徒は憐憫を隠して、真っ直ぐに見える瞳で凛花を見つめた。
「お前の苦悩を、俺らは知ってる。どうしようもなく辛かったことを知ってる。だからこそ、俺らはお前に同情したんだ。勝手だと思うかもしれないけど、お前を救いたいんだ」
「どうして……? 私は、貴方たちを」
「ああ、殺されかけたさ。そんなこと、身に染みて覚えてる。これは、俺たちの自己満足だ。お前を救うことが俺らの望みなんだ」
「そうだよ。だから、殺してなんかやらない。
私たちと一緒に幸せになるの」
藍徒と灯火は掛け値無しの笑顔を見せた。
そんな笑顔を見せられて、凛花は嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流した。
そして、いずれ来るであろう運命に恐怖した。
「私が、『空洞』になったら、ヴィルムート様は黙っていない……」
「それも承知の上だ。もとより、誰にも譲る気は無いんだわ。レミルさんとの約束なんだよ。『空っぽ』って名前を捨てるって。自分たちの生きている意味を見つけるって」
藍徒と灯火はそんな絶望的な運命に臆せず、立ち向かうと決めた。
いや、「臆せず」なんて嘘だ。足なんて今でも震えている。
それでも、望んだことだ。
「空っぽ」な自分たちが願った、叶いそうにない夢だ。ここで膝を屈する訳にはいかない。
「……今度は、信じてもいいのかな?」
凛花は泣きじゃくった顔で、強がりを見せる彼らに、待ち望んでいたように訊いた。
「保証なんてどこにもない。けど、俺たちはお前と一緒に生きている意味を見つけたいんだ。『空洞』に、なってくれるか? 花」
溢れんばかりの涙を零して、花は大きく頷いた。
この時、「ニセモノ」であった須藤凛花は、「空っぽ」な須藤 花になった。
涙で濡れたその顔は、仮面のような悲しみに塗れたものではなく、彼女の心の底からの笑顔だった。