第16話「同情」
藍徒は全てを見た。
「ニセモノ」の悲痛な記憶の全てを。
彼女の歪んだ笑顔を最後に、記憶は脳から離れていった。
また、真っ暗な世界が視界に飛び込む。
藍徒は、困惑と憐憫が混ざり合ったような感情の中にいた。
「……何だよそれ。テメェは、『ニセモノ』にされたのかよ……」
誰かに向けた訳でもない、恨み節のような独り言を吐くと、目の前の黒い世界に亀裂が入った。
それを見て、悪夢が覚めるのを自覚した。
音を立てて亀裂は広がっていき、そこからか細い光の筋が漏れている。あれだけ焦がれていた光が、今は足元を照らしていた。
名残惜しくともなんともない。ただ、全てが砕け散る前に白い蝶の亡骸に目を向けた。
もう、蝶は光を放っていなかった。
「……クソが」
気がつくと、さっきまで殺し合いをした駅のホームにいた。しかし、そんな痕跡などないように、赤い血はもうどこにも見当たらない。あるのは、元の姿に戻ったサバイバルナイフだけだった。
「藍徒さん?」
そう名前を呼ばれて、慌てて声のする方向に振り返る。そこには、悲しげな表情を浮かべた灯火がいた。
「良かった……無事だったんだな、あか」
安堵が感傷に浸っていた心に染み込む。灯火の名前を呼ぼうとして、目の前の光景に喉の奥が詰まった。
灯火は目を閉じて横たわっている凛花に、膝枕をしていた。それを見て、藍徒は言いかけた言葉を思わず仕舞い込んだ。
「藍徒さんも見たんでしょ? この人の記憶」
仮面を付けたまま眠っている凛花の髪を優しく撫でて、何も言ってこない藍徒にこう訊いた。
「藍徒さん、この人を殺すつもりなの?」
「……当たり前だろ。この女は、俺たちを殺そうとしてきたんだ。眠って無防備な今がチャンスだ。灯火、そこどけ」
無表情のまま、足下に転がっているサバイバルナイフを拾う。それも血塗れだったはずなのに、刃は何の不純も無く、ホームの蛍光灯に照らされて鈍色に輝いていた。
そのまま、静かに呼吸を繰り返している凛花の首に刃先を向ける。
「本気なの?」
灯火が藍徒の目を見据えて、もう一度訊いた。
藍徒も同じように目を見据え、低い声で言い放った。
「あぁ。その代わりに、痛みも感じないように一瞬で殺してやる。だから、そこをどいてくれ」
そんな無表情な藍徒の声を聞いて、灯火は悲しげな目で凛花の寝顔を覗いた。誰にも救われない悲哀が描かれた仮面を被った「ニセモノ」の彼女。
そんな彼女の仮面を、灯火は静かに外した。
凛花の表情は、穏やかなものだった。
長く伸びた睫毛や、小さな口から漏れ出す寝息。そして、生きている証である心臓の鼓動。
確かに生きている彼女に刃先は向けられたままだが、ナイフを持つその手は、あの時と同じように震えていた。
それが分かっていたから、灯火は藍徒に優しい声でこう言った。
「もうやめなよ、藍徒さん」
「いいから、どけって」
「分かるよ。あなたがそんなことしたくないくらい」
「どけって言ってんだよ!!」
藍徒は自身よりも大事な彼女に、初めて声を荒げて怒鳴った。そのがなり声に凛花は眉を少し眉を潜めたが、依然として瞼を閉じたままだ。
無人のホームに反響した声が消えていくのを感じて、藍徒は今度は静かに自分の葛藤を述べた。
「……したくねぇさ。だけど、絆される訳にはいかないんだ。そんな甘い考えじゃいつか足下をすくわれる。『選定』はそんな甘いものじゃないんだ」
「藍徒さん……」
「それに、事実としてこの女は俺たちを殺そうとしてきたんだ。お前のことを傷付けた。許すなんてこと出来ない」
深く息を吸って、一歩ずつ踏みしめるように凛花へ近づいていく。
『暴動の初動【ライオット・ファースト】』
擦り切った魔力を振り絞り、もう一度全身に『暴動』を駆け巡らせる。
宣言通り、痛みも何も感じさせずに一瞬で絶命させるつもりだ。ナイフを震えた腕で力強く握りしめて、継ぎ接ぎだらけの決心をなんとか固める。
とうとう、足下を見れば穏やかな彼女の寝顔があるまでの距離まで近づいた。
最後に、藍徒は心に引っかかっていた疑問を灯火に投げかけた。
「……俺にはよく分からないよ。どうして、お前はこの女を庇おうとするんだ? この女の過去を知って、同情したのか?」
「そうだよ」
そう言い放った答えに、躊躇いなど微塵も感じなかった。灯火は凛花の顔に悲しげに微笑みながら、言葉を紡いだ。
「……だってこの人、私に似てるから。必死になって自分を作ってる、弱い人だと思うから」
「お前に、似てる?」
「……いや、私にはあなたがいるからまだ救われてるよ。でもこの人には、誰もいなかったんだ。この人を愛している人も、この人を愛するこの人自身も。これじゃまるで、あなたに出会う前の私だよ」
灯火は、今にも泣きそうな表情で凛花を見つめている。そんな彼女の言葉を聞いたから、藍徒は立ち止まったまま、そこから動けなかった。
「なんだよ……それ」
藍徒の目には、凛花が以前の灯火にダブって見えた。
いつも一人で、愛している人から裏切られて、その嫌悪感を自分自身に向けている、可哀想な人。藍徒は、その人をよく知っていた。
それは足が前に出ない理由であり、彼の葛藤を打ち消したものでもあった。
手から落とされそうなサバイバルナイフをもう一度握りしめて、静かにその場に置いた。
そして、『暴動』が藍徒の体から抜け落ちていく。
「藍徒さんも気付いてるはずだよ。この『選定』にでてる人は形こそ違うけれど、同じように心のどこかが欠けているって。みんな同じように救われたいと思ってるはずなんだよ」
藍徒は片膝をついて、凛花の寝顔を見つめた。
眠っているはずの彼女の目尻からは、雫が一つ零れていた。
それを見て、藍徒の継ぎ接ぎだらけな決心は瓦解した。
「俺は……どうすれば……」
涙を見せないように顔を伏せて、嗚咽を喉から鳴らしながら藍徒は苦悩な声を上げた。
凛花の悲痛な過去は、同じように欠落している藍徒にとって、救いたいと思うものだった。
痛いほど自分の心に響くから、たとえ綺麗事だと思われてもその欠落に寄り添いたいと思った。
だけれど、彼の中の葛藤はそれを許さない方へ傾いた。『選定』に参加している以上、死とはいつも隣り合わせと言っても過言ではない。
いつ殺されるか分からない。そんな中で、相手に絆されるなんてことはあってはならない。
アラートと共に生まれたそんな考えが、さっきまで彼の信じていた答えだ。
「大丈夫だよ」
一人で勝手に苦しんでいる藍徒に、何かがふわっと首から上を包み込んできた。
優しく抱きつきながら、灯火は藍徒の耳元で静かに言葉をかけた。
「……あなたに救われた私は、今ここにいるよ。だからきっと、この人も救えるはず。今度は、私もいるんだから」
迷いを打ち消すのは、その言葉だけで充分だった。歯を食いしばるが、視界を滲ませる涙は止まらなかった。
藍徒は灯火の肩に熱い涙を零して、嗚咽と共に真っ先に浮かんできた言葉を告げる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ゆっくりと灯火は藍徒から離れていき、目を見合わせた。少し赤くなっている藍徒の目を見て、灯火は少し笑った。
お互いに微笑み合ったあと、藍徒は凛花を起こさないように静かに抱き上げて、彼らは無人のホームをあとにする。
藍徒と灯火は、自分たちに似ている彼女を救うことを決めた。
だがそんなことをすれば、きっと『偽造』が黙ってはいないだろう。
それでも、彼らの決心は揺らがなかった。
地上から漏れている朝の光を眩しく思いながら、彼らは踏みしめるように一歩ずつ歩いていった。
そうして誰もいなくなった地下鉄のホームに、白い蝶が舞っていたことには、誰も気付かなかった。