第15話「須藤凛花」
そこは、とても暗い場所だった。
光なんてものは存在しない。眼球の機能が失われたと錯覚するほどに、真っ暗な世界。
安らぎの闇とは違う、心を静かに蝕むような闇だ。
「……ん」
意識が覚醒して来た藍徒は、その場に立ち直った。けれど視界は黒に染まっていたため、自分の立っている場所が掴めず、足が少しふらつく。
どこまでも黒く染まって見える世界に、藍徒は驚きを隠せなかった。
「……一体どうなったんだ? あの、明らかにヤバそうな奴から逃げようとして、それで……」
あの目に入っただけで身が震え出した、黒い人影。あれから逃げなければと、藍徒は灯火の手を取り、必死に駆けようとした。
しかし、あの人影から伸ばされた影に足を飲まれ、そのまま深く沈み込むような感覚と共に、意識は消えていった。
そこまでが、記憶として残っている。
「ーー灯火は?」
不安が急速に彼の思考を染め上げた。そして、同時に自分の失態に舌打ちをした。
辺りを見渡そうとしたが、自分がどこを向いているのかも分からなかった。見えないが、彼はきっと焦りの色を顔に浮かべていただろう。
「おい、灯火! いるなら返事してくれ!」
その焦りを払拭するように、大きな声で彼女の名前を呼ぶ。
しかし、自分の震えた声が反響して聞こえるだけだった。
続けて、呼んだ。何度も。何度も。
声が枯れるほど、名前を呼び続けた。
それでも、自分の名前は呼び返されなかった。
虚しさが焦燥感に塗れた心を引っ掻いてくる。
胸が苦しくなる。呼吸が荒くなってくる。
心がごっそりと抜け落ちていく感覚を自覚して、前がどこかも分からずに、震える足を動かす。
「おい……灯火、どこにいるんだよ」
真っ暗な世界を歩きながら、枯れた声でまた彼女を呼ぶ。果ては無いのではないか、と思うほどに足は前に出ていく。
藍徒の心は地面を踏みしめるたびに、傷が付いていく。「虚無」は、既に彼をがんじがらめにしていた。
もう、足を止めようとした瞬間。光が失われる寸前の瞳に、白い蝶が横切って行った。
穢れなどない白い翅をはためかせ、揺れるようにその場を飛ぶ美しい蝶。
そのまま、蝶は奥の闇に消え入ろうとしていた。
「ーーっ。待ってくれ」
その飛ぶ様が目に入って、もう一度足は前に出る。自分に絡まってる「虚無」を振り解いて、その蝶を希望に見立てて追いかける。
ひらひらと舞い、黒い世界に唯一の光を放つ蝶はどこか儚げで、胸が掻き毟られるのを感じた。
必死に追いかける。これを見失ってしまったら、また自分は「空っぽ」に逆戻りだと思ったから。
長いこと追いかけていると、やがて蝶ははためていた翅を閉じて、何も無い空間に留まった。
白くて優しい光がささやかに輝く。
やつれていた心にその光は眩しかった。見惚れていると、白い蝶は翅をもう一度開いた。
そして、また飛び立つはずのその蝶の体は静かに四散した。
白い翅は紙吹雪のように細かく分かれ、飛んでいた時と同じように、ひらひらと舞い落ちた。
「……あんまりだよ。そんなの」
拳を握りしめて、落胆の声を漏らす。まだ光を放っている蝶の亡骸を見つめる。下を俯いて、ただ悲しそうな瞳で見つめる。
「あなたは、一体誰なの?」
どこからともなく悲痛な声が聞こえてきた。
それは、「ニセモノ」の彼女の声だった。
それを聞いて、感情は落胆から一気に憤怒に変わった。真っ暗な虚空を睨みつけて、枯れた喉から捻り出すように声を出す。
「……ふざけるな。テメェ、灯火をどこやった……!」
「あなたは、一体誰なの?」
「ふざけんなっていうのが聞こえねぇのか! 灯火をどこにやったかって聞いてんだよ! 今すぐ答えろ!」
誰もいない空間に、怒鳴りつける。
自分の激情を撒き散らしても、返事は来ない。
「クソが、クソが、クソが、クソが……! 早く灯火を見つけて、こんなところ出る……」
苛立ちを吐き捨て、あてもなくまた歩き出そうとした。
その瞬間、頭の中に何かが入り込んできた。
貫かれたかのような激痛が、脳を刺激する。
「ッッ! な、んだよ、これ……」
頭を抑えて、激痛に悶え苦しむ。
息が荒くなっていき、蝶の亡骸を見つめる目も霞んでいった。
そして、流れ込むように、悲しい記憶が自分の五感を支配した。
「ニセモノ」の悲痛な声と共に。
「私を、私だけをずっと見ていて」
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「ねぇ、凛。来週空いてる日ある?」
「木曜なら。どこか行きたいところでもあるの?」
「うん。新しく出た恋愛小説を買いに行くからついて来て欲しいんだ。それすっごい人気なんだよ。前から楽しみにしてたんだ」
「女って、本当に恋愛小説好きだよね。いい加減飽きないのかって思うよ」
「あんただって、女でしょうが」
「まぁ、いいんだけどね。わかったよ。木曜ね」
「うん。ありがと」
そこには、笑い合う二人の女性がいた。
はしゃいでいる方は長い髪を揺らしながら子供のように笑い、対照的に短い髪の方は、彼女の無邪気な様に困ったような表情で笑っていた。
暖かさを感じる光景。
桜の花びらがひらひらと舞って、彼女たちにささやかな幸せとして肩に落ちる。
制服姿の彼女たちは桜並木道を、暖かな陽射しを受けながら、歩いていた。
長い髪の少女ーー花は、横並びで歩いている短髪の少女ーー凛に、意地悪な笑みを浮かべ、答えを知っているようにこう聞いた。
「ねぇ、凛」
「ん? どうしたの?花」
「私のこと、愛してる?」
少し呆気に取られた凛だが、すぐに笑顔でこう返した。
「うん。愛してるよ。花」
それを聞いて花は満足そうに笑って、凛の手を握った。そのまま、手を繋ぎながら彼女たちは桃色がちらつく道を歩いて行った。
彼女たちにとって、これは普通の光景だった。
日々の生活に寄り添うような、普通の幸せ。
確かに、そこにはあった。
彼女が「ニセモノ」になる前までは。
雨が降ったある日、彼女たちは約束した通り恋愛小説を買いに大きな書店に赴いた。
いつも人でごった返しているその書店は、何故か誰も居なくなったかのようにがらんとしていた。
「今日、お客さん少ないね……雨だからかな?」
「でも、小雨ぐらいだったよ? なんか気味悪いし、早く買って帰ろう?」
「う、うん……」
やはり人がいないことに不気味さを感じて、花は急いで「話題の新刊」というコーナーに行き、本棚にランキング順に並べられた文庫本の一番上を手に取ろうとした。
「きゃあっっ!」
その時、凛の悲鳴が聞こえてきた。
慌てて、凛がいる方向へ振り向いた。
そこには、既に本を呑み込んで大きくなっていた炎があった。弾ける音を立てて、炎はどんどん広がっていく。
自分の中で、逃げられないという恐怖が視界を染め上げていくのを感じた。
「な、何で……意味わかんない……」
ただただ、花はその場で頭を抑えてそれを見ないようにすることしかできなかった。
目の前に起こっていることに、理解が追いつかなかった。いや、理解したくなかった。
それでも、花は凛の元へ行こうと顔を上げて、震える足を前へ出そうとした。
「あれ……凛、どこ……?」
何故か、凛は花の視界から消えていた。
不安になって辺りを見回してみるが、どこにも見当たらない。
まさか、炎に呑まれてしまったのではないか。
そんな不安が脳を埋め尽くすから、花は彼女の名前を叫んだ。
「凛! どこ、凛! 返事して!」
必死に叫んだ。だが、返ってくるのは炎が燃え広がる音と、むせ返りそうな煙だけだった。
煙を吸い込んで、喉が焼けたような感覚になり、意識が朦朧としてくる。足がふらつく。
「凛……どこ?」
それでも呼び続けた声は、もう誰の耳にも入らず、焼き尽くされた。
浮かべていた涙は、瞬く間に蒸発した。
須藤 花は、この世界から消えた。
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「はじめまして。僕はレミル。レミル・ネイバーだよ」
気がつくと、知らない場所にいた。
まるで中世の城の中のような場所。煌びやかな装飾に思わず目が行く。夢を見ているかとも思った。
まだ自分に何が起こったか分かっていないまま、花は目の前の道化師に笑顔を向けられた。
やけにこちらに好意的な道化師と、言葉を交わしてみようとする。
「あの……ここは?」
「ここは、僕の家だよ。そして同時に、ここは君が元いた世界じゃない。全く違う世界なんだ。いわば、『異世界』ってところだね」
「……は?」
目の前のおかしな格好の男は、言っていることもおかしかった。
異世界? 意味が分からない。
やっぱり、夢を見ているのだろうか。
「君は、覚えているかい? あの火災によって、命を落としかけたことを」
「……! そうだ、私は……」
記憶は、花にあの炎を見せた。
今も耳元で弾けた音がリフレインしてる。
全身を焼き尽くされて、自分は灰になった。
そんな思い出したくもない記憶を、花は思い出した。
そして、大事な人のことも思い出した。
「凛は……? 凛はどこなんですか? 無事なんですか?」
不安で埋め尽くされた感情で、必死にレミルに問いただしていた。その質問に、レミルは少し悲しげな表情で答えようとした。
「大丈夫。生きているよ。だけど……」
「君を置き去りにして逃げたのだよ。彼女は」
部屋の扉があるところに、仮面をつけた男が立っていた。部屋の中央にいる花たちに、愛想笑いを浮かべて近づいてくる。
その男を見たレミルは花の前へ出て、物腰の柔らかそうな表情をしかめ、低い声で仮面の男に話しかける。
「ヴィルムート……何をしているんだ? 開会式はまだだよ」
ヴィルムートと呼ばれた仮面の男は愛想笑いを深めて、レミルに仰々しくお辞儀をした。
「これはこれは、レミル様。突然の訪問、失礼致します。いや何、素晴らしい人材の確保の為です。ご容赦頂きたい」
「何を勝手に……」
「レミル様」
レミルの言葉を遮って、ヴィルムートは仮面越しからレミルの目を見据えて、こう言い放った。
「貴方も分かっている筈だ。彼女は『偽造』に相応しいと」
「それは、彼女がそれを自覚したらの話で……」
「だから今から、自覚させるのです。もっとも、貴方もたった今そうしようとしていたではありませんか」
「……それは、余りにも酷だ」
レミルは花を少し見て、悲しげに目を伏せた。
「道化師の貴方には心が痛むかもしれませんが、これは、彼女にとって知るべきことです」
ヴィルムートは最後にそう言い、花の元へ再び歩き出した。
レミルはもう何も言えなかった。
ヴィルムートは仮面のような笑顔で、怯えている花に声をかけた。
「ご機嫌よう、須藤 花。私は、ヴィルムート・スペルビア。『偽造』のリーダーだ」
「『偽造』……?」
「そう。『道化師』を手に入れるために我々は『選定』に参加している。単刀直入に問おう、『偽造』のメンバーにならないか?」
花の思考回路はショート寸前だ。
聞いたことのない単語ばかりを聞かされて、黒尽くめの男によく分からないものに勧誘されている。
恐ろしかったが、花は震えた声のままヴィルムートに必死に言葉を返した。
「わ、私はそんなことより、凛が心配です……凛に会わせて下さい」
それを聞いたヴィルムートは、ニヤリと笑って人差し指で花の額に触れた。
「あぁ、会わせてあげよう。その代わり、後悔しないように」
すると、花の脳内にある光景が流れてきた。
それは、見るべきではない光景だった。
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花がいつも遊びに行っていた凛の部屋に、二人の男女がいた。
彼らは抱擁を交わし、熱い口づけをしていた。
熱い吐息が部屋に聞こえてくる。
唇を離して、男の方が口を開く。
「凛……お前、女に迫られたんだって?」
「うん? 私が好きなのは、アンタだけだよ。あんな根暗な女のこと好きなわけないじゃん」
「そうだよな」
「ていうか聞いてよ。あの女さぁ、私のこと愛してる? とか聞いてきたんだよ。マジでキモいんだけど」
「ヤバイな、その女」
二人は幸せそうに笑っていた。
でも、どこか歪んでいるようにも見えた。
短髪の少女は、また口づけをした。
それは、彼女にとっての幸せだった。
※※※※※※※ ※※ ※※※※※※※※
「いやぁぁぁあぁぁっっ!!!」
光景が途絶えると同時に、花は絶叫した。
目の前の光景を、全否定した。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
こんなの、信じない。信じたくない。
やめて。やめてくれ。
「愛してる」と言ってくれた。
手も繋いでくれた。なのに、なんで。
「君のことなど、彼女は愛していなかったのだよ。初めから」
その聞きたくもなかった答えを聞いて、花の心はどこか欠けてしまった。
そのまま壊れた人形のように、花はうなだれた。
「ヴィルムート!」
そんな花の姿を見て、レミルの激が飛ぶ。それを意に介さずに、ヴィルムートは満足そうに笑っている。
初めて見せる、作り物ではない笑顔で笑っている。
「ククク……これで、欠陥人間の完成だ。それに、この娘なら『禁忌』も使えるかもしれん」
うなだれたままの花の肩に、ヴィルムートは優しく手を置いた。その肩は、悲しみで震えていた。
そして、欠陥人間である彼女につけ込むように、希望を与えた。
「だが、安心したまえ。『選定』に参加し、見事『道化師』を手に入れたならば、そのチームには欠けた心を埋めることが叶えられる」
「欠けた……心」
「そう。たった今欠けてしまった君の心を埋めることが出来る」
「……私は、幸せになれますか……?」
その希望に縋るように、花は顔を上げて仮面の男を見上げる。
ヴィルムートは、ゆっくりと頷いた。
花の双眸には、もう光がなかった。
「さぁ、私の元で『偽造』として『道化師』を目指すか? 須藤 花」
ヴィルムートは、歓迎をしているように大きく手を広げて、花に改めて問うた。
花は死んだ目をヴィルムートに向けて、歪んだ笑顔を向けながら、一つ訂正した。
「……はい。けれど、私は須藤 花ではありません。私の名前は、須藤凛花です」
この時、須藤凛花という「ニセモノ」が生まれた。