第1話 「空っぽ」
少年は床に置いた携帯電話を、じっと見つめていた。これから自分の人生が大きく変わるほどの重大な報せが、この薄くて小さい板から届くことを待っている。
少年がいる部屋の中には、文庫本が積まれたものが都市部のビル群のように乱立している。「アニメ化決定」「大賞受賞作品」「累計50万部突破」といった帯が巻かれた本で出来た、偉大で立派な影は、少年の右肩を暗くしていた。
約束の時間まで、あと僅か。静かな部屋の中では、壁にかけられた時計の針がカチカチと鳴る音だけが響く。
少年は唾を飲み込み、携帯電話を見つめる目はより一層鋭くなっていく。
そして、時間が来る。
経過、一秒、二秒、三秒、
「ッックソがァァァァァァ!!!」
少年は耐えきれなくなったのか、絶叫した。
絶叫というか、発狂した。
まるでこの世の終わりを迎えたような表情で。
「藍徒さん。まだ、三秒しか経ってないよ」
少年が発狂することが分かっていたかのように、同じ部屋の隅っこでラノベを読んでいた少女は、少年を宥めた。
「もう、ダメだ。きっとダメだ。今回は自信があると思ったのに……いや、分かってた。分かってたさ。俺なんかが自信なんて持ったらいけないことぐらい。あっちもダメならダメで、連絡して来いよな。「二度とこんなゴミみたいな作品送ってくるな」ってさ……その方が諦めがつくってもん……うぶ!?」
「うるさい」
発狂したかと思えば、少女と反対側の隅っこで際限なく愚痴を垂れ流している少年の口に、蓋をするようになにか咥えられた。
甘くて、苦い、ブラウニーだ。後悔と言い訳が混ざったようなその言葉と共に咀嚼して飲み込む。
「今日のは、自信作」
「……この前も自信作って言ってなかったか? ……まぁ、美味かったけど」
「今日のも、自信作」
咥えられたブラウニーを食べ終えた少年の感想を聞いた後、少女は無表情でピースを作って訂正した。
「…………」
「…………」
改めて、少年と少女は携帯電話を見つめる。
必ずしも、約束の時間に連絡が来る訳ではないと少女ーー灯火に言われた少年ーー藍徒は、再び携帯電話に向き直った。
しかし。
「……来ない」
「もう、フォロー出来ない」
「出来なくても頑張ってください」
「ここら辺で潮時ってことで」
「それ、フォローじゃなくて『諦め』」
「さっきまで『もう、ダメだ』とかなんとか言ってたくせに」
結果、連絡は来なかった。
彼の夢は、ラノベ作家だ。はたから見たら叶いそうにない夢のために、幾つものコンクールに作品を送ってみたが、見事に全て落選。下手な鉄砲を数撃ってみたが、下手過ぎてかすりもしなかった。
ドサッと、仰向けに天井に寝転がる。
頭を少し強く打ったけど、小さな脳みそが揺れることで悲しみが感じづらくなるのなら、この痛みも受け入れることが出来ると思っていた。
「何回目だよ、これ」
痛みは麻痺させるどころか、先月の新人賞は一次審査も通過しなかったという事実を引っ提げて、目の前にちらつかせた。
天井の消えてある照明を眺めたあと、約束の時刻とは随分違う場所にあるところを指している時計を見て、大きなため息をつく。
慣れている。いつものことだ。
白けた目を心の中の自分に向けて、ゆっくりと立ち上がる。
「……ラノベ読むか」
「そうそう。パクってパクって」
「パクんねぇよ! 勉強のために読むんだよ!」
心外な。と言いたそうな顔をしながら、藍徒はラノベの塔の一番上の方を手に取って読み始める。
すると、灯火は胡座をかいて読んでいる藍徒の足の上に座った。
「もっと後ろに倒していいですか?」
「新幹線かよ。どうぞ」
ノールックでもたれかかった灯火の頭が、胸の中心にとんと置かれた。その収まりの良さと頭のしっかりとした重さが、今の藍徒には何故か心地よかった。
瞼を少し閉じてから、藍徒は再びページをめくり始めた。
読むスピードが一緒なのだろうか。
「藍徒さん、まだそこ読んでない」「灯火、読むの遅いよ」という文句は聞こえて来ない。
シリアスな場面に入って少し経つと、藍徒の口からこんな問いかけが零れた。
「やっぱり、才能不在なのかね。俺は」
自分自身を嘲笑っているような、憐れんでいるようなその問いかけを聞いた灯火は、その小さな口で、
「才能なんて、あってないようなもの」
少し笑みを浮かべてそう言った。
彼女の優しい笑みを見て、口を緩ませる。そして、鬱屈としていた気持ちをため息と共に吐き出して、いじけている自分を否定した。
「そうだよな。あぁ、また才能が無いことを言い訳に不貞腐れるとこだった」
「だから、受かんないんじゃない?」
「あ、灯火…そんなこと毎度言われたら、俺の豆腐メンタルが……」
灯火の的を得た言葉に対して、藍徒は胸を撃ち抜かれたかのようなポーズを取った。しかし、顔は笑っている。灯火も情けないその笑顔を見て、無表情な顔を崩して笑顔を見せる。
ふと、思い出したかのように窓の外を見ると、横殴りの雨が降っていた。
外に人は、誰もいない。陽の光は勿論見えない。
「それでも」
不意に口から出て来たその言葉は、きっと強がりだろうと、灯火も藍徒自身も思った。
それでも、言わなければ。
言わなければ、そこで途絶えてしまうのだから。
「どれだけ才能が無くたって、それでも俺は諦めないよ」
「うん。知ってるよ」
雨は、止まない。空が青く澄みわたる兆しも、燦々とした陽光に照らされる予定も、無い。
むしろ、膨れ上がる虚無感に合わせるように雨は強くなっていく。腑抜けた夢も、安っぽい希望も、根こそぎ押し流すような、そんな雨に見えた。
けれど、がらんどうの少年少女は、そんな雨に曝されることを選んだ。