ケルベロスという番犬
久谷はこの堀口の顔をずいぶん前から知っているような気がした。久谷はケルベロスが目を覚ましたのだと直感していた。
「久谷係長、人類の滅亡を背負う覚悟はありますか?」
「は?」
取調室の前に立った堀口は片側の口角をあげて笑みを浮かべている。久谷は凶悪犯を見るような顔で堀口を見る。
「冗談や誇張ではないんです。知ってしまった最後、地球の滅亡の鍵を背負ってしまう。その重いくびきに耐えますか?」
この期に及んで堀口は冗談を言わない。久谷はそう確信していた。堀口という人間は、久谷に「これまで通り平穏に生きるか」「地獄の窯に首を突っ込むか」と言ったことを訪ねているのだ。
「お前は耐えるのか?」
久谷は自分の口から意外な言葉が飛び出して困惑していた。
「私は戦いますよ。」
「なら、行こう。1か月相棒だったんだ。二人で殉職したと思えば。」
久谷は内心「しまった」と思った。死を連想する言葉を使ったことをやや恥じた。
「尊敬してますよ係長。お話ししましょう。」
二人は取調室に入った。
「宮地徹博士ですか。堀口と言います。水谷研究室で研究していました。」
「名前は知ってるよ。堀口なんだっけ?ケルベロスって呼ばれてるんですよね?」
「自分で名乗ったわけでは無いんですよ。」
二人の間に静寂が流れた。久谷はそれを見ていた。
「宮地さん、あの研究は不完全です。」
「知ってます。」
「しかし、あの研究には隠されたもう一つの側面がありますね。」
「気付きましたか?」
「気付きましたね。もう一つ、気付いたことがあります。」
「何ですか?」
「宮地さん、あなたが祈るような気持ちで犯行に及んだ放火殺人、殺人には成功していますが放火には失敗しています。」
宮地はガタンと大きな音を立てて椅子から転げるように立ち上がった。
「ウソだろ……」
「ウソじゃありません。確かめてきました。事故のあった研究所の近くの街路樹で見つけてきたこれ、何だと思いますか?」
堀口はビニール袋をポケットから取り出した。宮地はその袋を奪い取るように観察する。
「うわぁぁぁああああああ!!!」
「宮地博士、地球の滅亡を見るのがお嫌ならば、私が代わりに背負いましょうか?それとも、全部黙って成り行きに任せますか?」
久谷はとうとう耐えられなくなった。
「どういうことだ説明してくれ!」
「菱尾という男は重傷の花粉症だったようですね。花粉を世界から消そうとしたんですよ。」
久谷は状況が呑み込めていないようだ。
「菱尾はスーパー農作物の研究を隠れ蓑に実際には病原体の研究をしていたんです。菱尾が作った作物は、菱尾が作ったオリジナルの病原体に対する耐性を持っているんです。病原体で除草しようとしたんですよ。」
「良く分からないが……」
堀口は姿勢を崩さずに説明を重ねる。
「菱尾が作った病原体が世界に広まれば、菱尾がデザインした農作物以外の種子植物は全て死に絶えます。病原体は花粉の形成不全を誘発し、地球上のすべての種子植物は現世代1代限りで全滅します。山林も原野も、農作物も、草花もそれらをエサにする動物すらも全て死に絶えるのです。」
久谷はやっと事の重大さが呑み込めてきた。
「そんな病原体あるわけが……もしやそのビニール袋の中身が……」
ビニール袋にはちぎり取られた枝とそれについた葉が入っている。
「この白い点がそうですよね?宮地博士。」
「全て焼いた……全て焼いたはずなのに……」
堀口はなおも続ける。
「受粉しないと果実は実らないんですよ。穀物も果物も。この事実を急いで公表して、病原体の感染範囲の種子植物を全て焼き払えばあるいは。しかし、一か月たってしまいました。病原体が風に乗ってどこまで運ばれたやら。」
「菱尾が残した遺伝子組換え作物は?それなら生き延びれるんだろ?」
宮地が答えた。
「世界中で一年に必要な作物の種子や苗をどうやって製造すればいいんだ?菱尾の研究はあくまで実験段階なんだぞ?世界に供給するのに何年かかるか……」
「お前ら、さっきから悪い方に悪い方に話をしてないか?」
堀口は少しイラついているようだ。久谷にはそれがはっきり分かった。
「だから、最初に言ったんですよ。一つだけ可能性のある話をしましょう。菱尾がばらまいた病原体と思しきサンプルを入手するのには成功したのです。この病原体をターゲットに、この病原体を死滅させる病原体を新たに作ってばらまけば、勝てるかもしれません。しかし、その場合も菱尾がやったのと同じ『安全かどうかも分からない未知の病原体をばらまく』事になります。それが人類の新たな敵になる可能性は否めません。そして、これらの話を公開すれば、世界はパニックになります。」
久谷は警察を辞めた。視界に入る人間すべてが近い将来、実らない穀物に絶望するのだ。商店から食糧が消え、残ったわずかな食料を奪い合う。その未来に慄きながら久谷は退職金のすべてを保存食糧につぎ込んだ。そして、人と会わないように生活しながら、毎夜悪夢にうなされた。自分の「ごめんよ、ごめんよ」と謝る声で目が覚める。夢の中では亡者が自分に追いすがる。「なぜ教えてくれなかったのだ」と、「なぜお前は生き延びるのか」と。涙ながらに寝醒めるたびに思うのだ。あのケルベロスと呼ばれた若者が、人知れず滅亡に向かう世界を救済してくれることを。ただ切に願い続けるのだ。
一縷の望みは残したけど、全く救いがないよね。