001 その男、諜報員につき
「ふっふ、これで我々の計画も最終段階ということですな」
「これまで辛酸を舐めてきた分、倍返しでも気が済まん」
薄暗い部屋の中で数人の男たちが気味の悪い笑みを浮かべながら、ほくそ笑む。
研究室と呼んでも差し支えなさそうなその部屋には、何度も繰り返しただろう実験のレポートが机の上に乱雑に並べられている。
そして部屋のいたるところにはこの世の物とは思えない奇怪な生き物が力なく横たわっていた。
「何度も失敗してきましたが、次こそは……」
「これが成功すれば、私たちを馬鹿にしてきた奴らなど一瞬で……」
彼らが行っているのは『遺伝子操作』に関する実験だ。
遺伝子操作とは本来であれば組み合うことのないはずの遺伝子同士を、強引に組み合わせることで、自然には存在しない生物を生み出そうと言う神をも恐れぬ行為である。
当然そのような実験の成功例はほとんど無く、そもそもその実験からして全世界共通の禁忌として取り締まられていた。
しかし人目を忍んで実験をしている彼らの遺伝子操作は成功まであと一歩と言ったところだろう。
彼らが作っているのは戦闘力の高い種同士の遺伝子を組み合わせた、軍事用のキメラだ。
成功すれば莫大な成功報酬が用意されているということで、彼らの興奮は冷めない。
「————なあ、ちょっといいか?」
だがその時、興奮する彼らとは打って変わって、まるで氷塊をも連想させるほどの冷めた声で呟く者が一人。
声から察して年若い男だろうと想像できるが、それはおかしい。
何故ならここには、これまでの人生のほとんどを研究に費やしてきたような壮年の研究者たちばかりなのだから。
「ッ!?」
研究者たちは聡明な頭脳を以て、すぐにその異常事態に気付く。
咄嗟に声のした方から飛び退き、体勢を整える。
「……?」
しかしそこでまたもやおかしなことが起こる。
今しがた声のした方を見る研究者たちだったが、そこには誰もおらず、ただ研究に使ってきた機材などが転がっているだけだ。
だが一人だけではなく複数、それも全員が同じタイミングで誰かの声を聞くなんて偶然とは考え難い。
では今の声は一体……。
研究者たちがそう思った時、それは現れた。
「————」
顔をすっかり覆う仮面に、灰色の髪。
どこか幻想的とも思える仮面とは反対に、仄暗い髪色が際立つ一人の男が、研究者たちの視線の中心に突如現れた。
今まで研究者たち全員が確かにいないと確認したはずの場所に、降って来るわけでもなく、ただそこに立っていた。
研究者たちは思わず息をするのさえも忘れる程に、緊張を隠せない。
あまりにも突発的な支配者の登場を、誰が予想できただろうか。
もはや抵抗する気も逃げ出す気も起きない。
触らぬ神に祟りなし、という言葉がまさにそれだった。
目の前の誰かをとにかく刺激しないことが何よりも大事であると、研究者たちの脳が告げていた。
それだけの存在感を放つ男は、今もなお悠然と立ち尽くしている。
「————お前らを排除しにきた」
しかし何の抵抗さえする気が無かった研究者たちに告げられたのは無慈悲な言葉だった。
その言葉の意味するところを研究者たちが理解した時、彼らの頭と胴は既に繋がっていない。
瞬きなどしていなかったはずだ。
それなのに誰一人として、仮面の男の行動を捉えることが出来た者はいない。
恐らく彼らは自分が死んだと言う事実さえ気づかなかっただろう。
咄嗟に身を守ることも逃げることも許されないままに、その生命活動を終えた研究者たちは糸の切れた人形のように床へ倒れ伏していく。
「————そうか、お前たちも生きてるのか」
仮面の男はその顔を、これまでに作られてきた失敗作品であるキメラたちへと向ける。
失敗作品というだけあり、それらはもはや生物の原型を留めていない。
しかし仮にも生物であるが故に、仮面の男の存在感に気付いたのだろう。
檻の中で、まるで王を前にしてひれ伏すように頭を垂れている。
「————今、楽にしてやる」
仮面の男は数歩だけ檻へ近づく。
そしていつの間に取り出したのか分からない一本の小さなナイフを静かに一閃する。
その瞬間、檻の中にいた全ての生物たちが生命活動を終えた。
一体どうやって檻の中のそれらにナイフを届かせたのか、そんなことはもはやどうでも良かった。
仮面の男は部屋の中を見回し、研究のレポートの一枚を手に取る。
これだけの研究結果を出すためにどれほどの血の滲むような研究をしてきたのかは分からない。
しかし研究内容が悪すぎた。
この努力をもっと他のものに向けられなかったのか、そんなことを言っても後の祭りだろう。
「……ったく、どんどん汚れちまうな」
自分の身体を汚す真っ赤な返り血で汚す男は自嘲気味に呟くと、ゆっくりとその仮面を外していく。
途端これまでの灰髪が、一切の多色の浸食を許さない夜色の黒髪へと変貌する。
恐らく仮面に幻術系の魔法がかかっていたのだろう。
そしてもう一つ驚くべきなのは、その若さ。
声からしても若いのは窺えたが、仮面の下にあったのは青年と称するに相応しい顔だった。
どう見ても15、6歳にしか見えない青年が見せた先ほどのナイフの技量は、とてつもないレベルで洗練されていた。
常人では決して至ることの出来ないだろうナイフの技量。
それだけでなく、自分の気配の操り方についても言うまでも無いだろう。
青年はナイフの血をレポート用紙で拭き取ると、腰に差した鞘に戻す。
目的を達成した青年は血を拭いたレポート用紙を床へ放り出すと、部屋の出口へ向かう。
そして部屋を出る時、ポケットに入れていた発火石を取り出し背中越しに投げる。
床へ落ちた発火石は一瞬のうちにレポート用紙を燃やすと、研究者たちの死体、檻の中の死体へと燃え移った。
数刻後には、彼らがここにいたことを示すものは一切燃えてなくなるだろう。
仮面を外した黒髪の青年は広がっていく火の海に、それ以上の意識を向けることなく、その場を離れた。
◇ ◇
「ジン、戻りました」
「うむ。よく戻った」
軍の諜報部に所属しているジンは遺伝子操作の実験を行っている団体の壊滅という任務を終え、帰投していた。
部屋の中にいるのはジンにとって上司でもあり、今回の任務をジンに任せてきた張本人でもある。
出来れば早々に休息を取りたいと思っているジンではあるが、任務の結果報告をするのは諜報員としての義務だ。
だが返り血すら落とすことなく上司の前にやってくるのはジンの胆力あってのことだろう。
そんなジンの性格を熟知している上司も衣服を血で汚すジンに苦笑いを浮かべている。
「今回の任務も滞りなく」
「そうか、よくやってくれた。遺伝子操作など、人間の行っていい所業ではないのでな」
もはや結果など分かりきった報告に、ジンの上司は労いの言葉を零す。
かつて遺伝子操作によって生み出されたキメラたちが軍事力として戦争に利用されてからというもの、遺伝子操作に関する実験などは禁忌として厳しく取り締まられている。
しかしそれでもなお密かに実験が行われるのは、リスクを冒すだけの利用価値があるからなのだろう。
「他に何か報告することはあるか?」
「……そういえば、実験途中のキメラが数体いましたので独断で排除しました。大丈夫でしたか?」
「うむ、それについては特に問題ない。むしろそうしてくれた方が助かる」
「それなら報告は以上です」
上司の言葉に、ジンは足早と部屋の出口へと向かう。
「あ、少し待ってくれ!」
「……なんでしょうか?」
突然呼びとめられたジンは訝しみながら振り返る。
「じ、実はお前に任務を一つ任せたいのだが」
「今、任務から帰ってきたばかりですけど」
「そ、それは確かにそうだが、お前にしか出来ないのだ」
「……?」
本来であれば、一つの任務が終わった後すぐに別の任務を任せられると言うことはまずあり得ない。
なにせ諜報員として働くには相当の緊張感の下で任務を遂行しなければいかないので、精神的疲労はかなりのものになるのだ。
だが上司曰く、自分にしか出来ない任務らしい。
それは一体どんな任務だろうかと、ジンは首を捻る。
しかし上司の次の言葉は、ジンの予想斜め上をいく言葉だった。
「じ、実はだな————《ユミル=ロズワール》が学園に通いたいと言い出したのだ」