後編
どんな流れで、そんな話になったのだか、覚えていない。
その日は研究室の三年生歓迎会として、飲み放題で予約した居酒屋での飲み会をしていた。
酔った坂城先生に度胸あるなあと絡まれたり、サトウさんに頑張ってねと激励されたりして、いつもより飲んだと思う。
飲み会も二次会もお開きになったとき、俺はかなりふらふらになっていて、帰る方向が同じだと言うハイミさんが、付き添って帰ってくれることになった。
襲うなよ、と言う声で送り出される。
なら女性に送らせるなよと思ったが、彼らは彼らでやるべきことがあるらしい。
季節は晩秋で、ハイミさんは未だにマスク装着だった。強いのかあまり飲んでいないのか、その足取りはしっかりしている。
飲んでいる間はマスクを外していたのだろうけれど、席が遠かったので顔は見ていない。
他愛もない雑題がどう転がったのか、『真冬のローレライ』の話になる。
酔って箍が外れていたのだろう。俺は自分が出会った彼女について、熱く語っていた。
「本当に、綺麗な歌声だったんです。彼女は、俺にとってシンデレラで、硝子の靴の代わりに、もう一度歌声を聴かせてくれれば、すぐに彼女だってわかるのに」
我ながら、恥ずかし過ぎる台詞だった。けれど、酔った俺はそんなこと気にせず。それを聞いたハイミさんは呆れたように言った。
「美化し過ぎじゃねぇ?実際会ったらがっかりするかもよ?」
「美化してるかもしれませんけど」
やめておけば良いのに、拳を握って熱弁する。
「でも、シンデレラの王子さまは一目惚れしたシンデレラと、結婚したじゃないですか。予感がするんです。俺、もう一度会ったら、きっと彼女に恋をする」
あまりにも臭い台詞。浅川辺りに聞かれたら大爆笑されただろう。
ハイミさんは笑い飛ばしはせずに、いつも通りの不機嫌そうな顔で呟いた。
「シンデレラはさ、」
「はい」
「シンデレラは、硝子の靴なんか使わずに、見つけて欲しかったんじゃねぇか?灰被ってても、汚い服でも、靴なんかで確かめるんじゃなくて、王子さま本人に自分を、見つけて欲しかったんじゃねぇかと、あたしは思う」
俺に負けず劣らず、メルヘンな台詞だった。
ちゃんと自分を見て欲しい。なんて、恋に夢見るような言葉。
「歌を聞かずに、ですか?」
「ま、歌しか見てなかったっつーんなら、仕方ねぇけどな。シンデレラの場合は、どのくらいの時間かはわかんねぇけど踊ってたんだろ?惚れた女の握った手くらい覚えとけって、思わねぇ?」
「手を握ってみるために、まず靴でふるい分けたんじゃないですか?童話じゃシンデレラにしか履けなかったみたいに言われてますけど、実際靴なんて合うひとは何人も見つかるでしょ?まず靴を履けるひとで人数絞って、それから王子さまが実際に会って、本当のシンデレラを見つけ出したんだと思いますよ」
童話について真面目に語るなんて馬鹿げてる、とは、俺もハイミさんも言わなかった。
なるほどなと頷いたハイミさんに、続ける。
「俺の場合は、うーん、歌しか覚えてないわけじゃないんですけどねぇ…」
はっきり言おう。酔ってた。酔ってたんだ。
酔った俺はその勢いのまま、とんでもないカミングアウトをした。
「でも、声以外の記憶頼りに選ぶなら、ハイミさんなんですよ」
「…は?」
ハイミさんが、ぽかん、と、俺を見上げる。
見上げる顔に笑みを向けて、語った。
「ほら、四月頃に、迷子で、声掛けたじゃないですか。あのとき、迷子で困ってたのもあるんですけど、実は後ろ姿で彼女なんじゃないかって期待して声掛けたんですよ。未だに見つからないかなって探し歩いたりしてるんですけど、彼女だ!って思ったの、ハイミさんだけなんです。だから、ハイミさんが彼女じゃないなら、俺の記憶は頼りにならないんです」
しばし言葉を失ったあとで、視線を下げたハイミさんがため息を吐く。
「馬鹿言うなよ。この声だぞ?」
「…ですよね」
自分では気付いていなかったが、俺はハイミさんが彼女だったらと思っているのかもしれない。
不器用で、でも優しくてお人好しな彼女が、あの歌声の主だったらと。
でもハイミさんは頷いてはくれなくて。
それから俺とハイミさんは、無言で夜道を歩き続けた。
「おぉーう!ローレじゃんかあ!!」
俺の家の近くには、居酒屋があった。
二次会終わりとは言えまだ飲み会をしていてもおかしくない時間帯で、並んで居酒屋を通り過ぎようとしたときに、その前にたむろしていたひとりに声を掛けられた。
「…酔い過ぎだろ。あたしに吐くなよ」
そのひとに振り向いたハイミさんが、顔をしかめて答える。
…ローレ?
そう言えば、案内されたときもローレって。ローレ、ローレ!?
一発で、酔いが覚めた。
ハイミさんの名前は、ハイミ・ナナのはずだ。サトウさん始め、研究室の先生や先輩からナナちゃんと呼ばれているから、間違いない。
ならば、ローレと言うあだ名はどこから来る?
俺はハイミさんと会話する男性に近付いて、声を掛けた。
「すみません、ハイミさんって、ハイミ・ナナさんですよね?なんで、ローレなんですか?」
「っ、浅井。タケ、答えなくて良、」
「こいつ、冬限定の声楽部員なんだよ」
もう一度怒鳴って彼を止めようとしたハイミさんの口を、片手で塞ぐ。暴れて脚を蹴られたが、気にしなかった。
「冬限定の声楽部員?」
「ああ。花粉症でさ、冬しか歌えねぇの。冬以外はその面だし。マスクと眼鏡取れば可愛いのに、外せもしない。眼鏡高いからとか言って、度が合ってない眼鏡使ってるから人相悪いしな。でも、冬はマスクも取れるしコンタクト使えるし、声も戻るから、美人で超美声なんだよ」
逃げようとするハイミさんを、口を塞いでいない手で抑え込む。
酔っているからかそんな攻防に気付かずに、男性は語り続けた。
「んで、冬の美声と、冬以外は歌えないってのが、まるで人魚姫みたいだよなって話になってさ、名前も魚だし。でも、人魚姫とかマーメイドだとイメージと合わないから、ローレライってあだ名になって、それが縮まってローレ」
「『真冬のローレライ』…」
「お、知ってんじゃん。それ、そいつのことだよ、っと」
そこで呼ばれて、男性がその場を離れる。
「…俺、ちゃんと見つけてたんですね」
声を掛けた俺には答えず、ハイミさんはおもいっきり俺の爪先を踏んだ。
「った」
さすがに手を緩めた俺を突き飛ばして、ハイミさんが足速に歩き出す。相変わらず、歩くのが速い。
「ちょ、待っ」
慌てて追い縋る俺に視線をくれないまま、ハイミさんが呟いた。
「…がっかりしただろ。だから言ったのに」
低く掠れた、鼻声。いつも通り、不機嫌そうで、聞きようによっては男性っぽくも聞こえるような。
その声ですら、今は可愛くてしょうがなかった。
ああなんて、お人好しなひとなんだろう。
「がっかりさせたくなくて、言ってくれなかったんですか?」
真冬のローレライの名前が知られていないのも、きっとこのひとが広めないようにしているからなんだろうな。
「ほんと、損なひとですね」
追い付いて、腕を引く。
ああ、マスクと眼鏡が邪魔だな。
今なら俺も、日本医療の馬鹿野郎と毒吐くだろう。スギ林を見た瞬間、焼き払え!と怒鳴って、嬉々としてブタクサを虐殺し、ヨモギの生えた原っぱに火を放つ。
「あなたが彼女で、良かった」
俺の言葉に、ぱっとハイミさんが振り返る。
少し泣きそうだ。可愛い。花粉がなければ、今すぐマスクと眼鏡を外したのに。
「がっかりなんて、するはずないじゃないですか。がっかりするなら、あなたを彼女だと思ったなんて話、するわけないでしょう?期待してたんですよ、あなたが彼女で、はいって頷いてくれるんじゃないかって」
「でも、あたしは」
もしかして、過去になにか言われたんだろうか。そんな心配、俺には必要ないのに。
「なにが引っ掛かっているんですか?声?表情?口調?そんなの、表面的なものでしょう。あなたがどれだけお人好しで優しいひとか俺は知ってますから、そんな些細なことはどうでもいいです」
立ち止まった彼女の両肩を掴んで、視線を合わせる。
「大事なのはそこじゃなくて」
柄にもなく緊張して、手が震える。
「俺、言いましたよね?もう一度会ったら、きっと恋をするって」
ハイミさんが、目を見開いて息を飲む。
年上だとか、同じ研究室だとか、先輩だとか、関係ない。
たぶん歌とか、顔でもなかった。
「俺があなたに恋をしたら、迷惑ですか?」
「そんな、歌、だけで」
「歌は、関係ないです。だって俺、今の声のハイミさんが彼女だったら良いって思った。歌じゃなくて、彼女だったからでもなくて、真面目で優秀なのに、遅刻しても迷子を助けちゃうようなハイミさんに、俺の目の前に、実在するハイミさんに、惹かれたんです」
ハイミさんは困ったように目を泳がせ、視線を逸らしたまま言った。
「酔ってるだけ、だろ」
「なら、明日」
信じない言葉に、反射的に言い返す。
「明日改めて言います。明日も覚えていて、その上で告白しますから、信じて下さいね」
「え、いや…」
「今日は遅いですし帰りましょう。…と言うか、俺の理性がやばいです」
「は!?」
びくっとしたハイミさんの手を掴んで、歩き出す。
「家まで送りますよ。どこですか?」
「いや、あんたを送るために来たんだし」
どさくさに紛れて家を知ろうとしたが、あっさり回避される。たぶん、無意識だ。あまり、男に対する警戒はなさそうだから。
「なら、そこです。俺の家。気を付けて帰って下さいね?」
「あ、うん」
「また明日」
にこやかに手を振って、別れる。
ようやく彼女を見つけ出した俺は、上機嫌だった。
明日、もう一度伝えたら、ハイミさんはどんな顔をするだろう。
浮かれた頭でそんなことを考えながら、眠りにつく。
幸せに眠って起きて、昨日の自分の行動にちょっと羞恥で悶えたが、それも彼女を見つけられてそれがハイミさんだったことの前には、些細なことだった。
だった、のに。
その日からいくら探しても、俺はハイミさんと話せなくなった。
最初は、すれ違いかな、と思った。
たまたま席を外すくらい、あるだろうと。
ゼミには普通に出席しているし、研究室にも顔を出している、らしい。
だが、ゼミに来るのは時間ギリギリだし、ゼミが終わると早々に姿を消してしまう。俺が研究室を訪れるときには、見計らったようにいない。
避けられている、と確信するまでに、そう時間は掛からなかった。
「どうすりゃ、良いんですかっ…」
「いや、うん。まさかナナちゃんと浅井くんがそんなことになっていたなんてね…」
悲痛な顔で訴えた俺を、サトウさんが苦笑してなだめる。
「んー…良い子なんだけど、あんまり、その、声とか顔目当てで近付いてくる相手が、得意じゃないみたいでね」
「声目当てでも顔目当てでもないですよ!きっかけはどうあれ、今のハイミさんを好きになったんですからあっ」
机に突っ伏す俺の頭を、サトウさんがぽんぽんと撫でてくれる。
「ナナちゃんも、戸惑ってるだけだと思うよ?ちゃんと話し合えば…」
「その、話し合う機会を与えて貰えない場合は、どうすれば良いんですか」
「それは…」
困ったように笑うサトウさんに泣き付いたところで、くすくすと笑う声が聞こえた。
「なかなか、面白いことになっていますね」
「な、しはら、せんせい」
笑っていたのはいったいいつ来たのか梨原先生で、研究室を見回して言う。
「ナナを探しに来ましたが、つまりここにもいない、と言うわけですね。このところ捕まえにくいと思ったら…」
「ナナちゃんに用事ですか?」
「はい。書類について確認があって…まあ後日でも良いのでメールででも確認します。それで、」
梨原先生がくるりと俺に顔を向けた。
「あなたはどうしたいのですか?」
「え?」
「会いたいのでしたら、わたしの名前で呼び出しますよ。そうすれば、絶対に来ます」
「え、いや、でも、」
研究室の担当教員に、恋愛の面倒まで見て貰うのは…。
断ろうとした俺に梨原先生が投げたのは、斜め上を行く理由だった。
「ナナが捕まらないと不便なので、早く解決して欲しいのですが」
ああ、そう言う…。
「自分の教え子のあいだで惚れた腫れたと言う話になっても、良いんですか?」
「わたしの恩師は、」
言葉をとめた梨原先生がため息を吐いて肩をすくめた。
「自分の教え子だったわたしの親友と結婚しました。彼女の大学院卒業と、同時でした」
「それは…」
「平たく言うと、それくらい慣れています。と言うか、ナナは少しそのあたりの知識が幼過ぎます。この辺で、多少の経験は積んでおくべきでしょう」
と言うか、逃げてどうするんだと思いますね。逃げきれるわけでもないでしょうに。
口調は呆れ混じりだったが、その口許には仕方ないとでも言いたげな笑みが乗っていた。
愛されているな。そう感じた。
この、優しいけれど人付き合いが苦手なひとを落とせるくらいに、先輩は魅力的な人間なんだ。
あの不器用なひとはそのことに、気付いていないみたいだけれど。
あなたが振られようが断られようが、わたしはどちらでも良いですけどね。
その後、続けられたひとことに、相手も忘れて全力で突っ込んだ。
「それ、どっちも振られてるじゃないですか!!」
「くはっ、ばれましたか」
梨原先生はけらけらと楽しげに笑ったあとで俺の頭を撫で、
「まあ、対話の時間は作ってあげますから、あとは自力で頑張って下さい」
と言って出て行った。
『明日三時、F804』
俺の携帯にそれだけ書かれたメールが届くのは、その夜のこと。
「いるわ。入って」
梨原先生個人の研究室の扉は外から中が見えない。だからハイミさんは梨原先生の声に素直に従って扉を開け、
「っ!?」
開けたとたん梨原先生に腕を引かれて部屋の奥に投げ込まれた。
たたらを踏んだハイミさんが転ばないよう、慌てて立ち上がって抱き留める。
やり方がワイルド過ぎる。
俺に気付いたハイミさんがぎょっとして逃げ出そうとするその前に、梨原先生が立ち塞がった。
いつの間に、季節が変わっていたのだろう。
ハイミさんの顔からは眼鏡とマスクが消えていた。
「なかなか面白いことになっているみたいじゃない、ナナ」
梨原先生の言葉を受けて、ハイミさんが顔を逸らす。そんな甘えは許さず、梨原先生がハイミさんの顎を掴んで無理矢理視線を合わさせた。
「ナナ、四つ目の約束、言ってみなさい」
四つ目?
内心首を傾げる俺とは対照的に、質問の意図を理解したらしいハイミさんが数秒唇を噛んでから、口を開く。
「表現せよと約束した以上、自分に不都合な表現であろうと後輩の表現を妨げないこと」
ハイミさんの返答で梨原先生の意図を理解し、目を見開く。
梨原先生は本気で、対話の時間を設けてくれるつもりらしい。
ハイミさんの目を覗き込んで、梨原先生が首を傾げる。
「破るの?ナナ」
ハイミさんがうなだれて、それでもかすかに首を振る。
梨原先生は満足そうにうなずくと、俺に目を向けた。
「この部屋を、三時間だけ貸してあげます。外から鍵を掛けていきますから、ふたりで思う存分話し合って下さい。ただし、乱暴は駄目ですよ?」
「ありがとうございます」
「ナナ、万一のことがあったら、これ、鳴らしなさい」
「ちょ、」
梨原先生がハイミさんに渡したのは、防犯ブザーだった。
「万一とか、ないですから!」
「保険です。保険。では、ごゆっくり」
にっと笑って、梨原先生は出て行った。かちゃり、と鍵の掛かる音が響く。
防犯ブザーを持って呆然としているハイミさんは可愛くて、何時間でも見ていたかったが、残念ながら時間が限られている。
「ハイミさん?とりあえず座って話しましょう」
「え?あ、ああ」
若干上の空のまま、ハイミさんがとすんと椅子に腰を落とす。
花粉にやられていないハイミさんの声は、歌声から想像したより低くてハスキーだった。歌の発声と普段で、声質が変わるひとなのだろう。
正直なところ、彼女の顔はろくに覚えていなかった。なので改めて素顔のハイミさんを見ても、こんな感じだったような、くらいしかわからない。
だが、記憶以上に今目の前の彼女を綺麗だと思うのは、確かだった。
なるほど、人魚もかくやと思える美貌である。こんなひとが一年の四分の三も顔を隠さなければならないなんて、女神の嫉妬としか思えない。
「花粉症、治まったんですね」
「ん、ああ。そうだな。今年はちょっと、早かった」
「へぇ。俺、全然花粉症とかなくて、そう言うのわかんないんですよね」
「わからない方が良いよ、んなもん」
ハイミさんが肩をすくめる。
「あの、」
そのとき彼女の目に、少し怯えが見えた。
硝子越しでない瞳は、表情がよくわかる。
「ナナさんって、呼んでも良いですか?」
だからつい、思っていたのと違う言葉を吐いてしまう。
ハイミさん、ナナさんは一瞬きょとんとしたあとで、べつに良いよ、と答えた。不機嫌さのない瞳は柔らかく、口許はわずかにほころんでいるように見えた。
…花粉症がないだけで、ここまで違うのか。
今ランプの魔神が現れたら、間違いなくナナさんの花粉症を治してくれと頼むだろう。
「そう言えば、ハイミって珍しい苗字ですよね?どんな字を書くんですか?」
「ん」
ナナさんが、学生証を放ってくれる。
『南風見 魚』
これは…。
「読めないだろ」
「そうですね。みなみかざみ、さかな、って読むと思います」
「せめて名前だけでももう少し読みやすくして欲しかったな」
「名前だったら、俺も読みにくい方だと思いますよ」
「ああ、颯音、だっけ?」
なにげなく名前を呼ばれて、どきりとする。
彼女の低く掠れた声で呼ばれると、慣れきったはずの自分の名前がひどく特別なものに感じた。
ああ、好きだなあ、と思う。
「ごめんなさい、ナナさん」
「な、にが?」
「好きです」
唐突な謝罪に戸惑ったナナさんは、唐突な告白が理解出来なかったようだった。
ん?と首を傾げて、俺を見つめる。
「あなたが好きです、ナナさん。もう、嫌だとか言われても、気持ちは変えられません。あなたに、恋してしまった」
わかって貰えるように、もう一度言う。
ナナさんは呆然と俺を見返して、真っ赤に頬を染めた。
「な、え、は…?」
意味をなさない言葉を吐いて、ぎゅっと手を握り締める。
「待っ」
その手が防犯ブザーの紐を引きそうになって、とっさに彼女の両手を掴んで止める。
「な、鳴っちゃいます、から」
鳴ったらきっと梨原先生が斬り込んでくる。その確信がある。
どうやら無意識だったらしいナナさんが、はっとして手を緩めた。
「悪い」
「いえ。こちらこそ、驚かせてごめんなさい」
落ち着いたのに安堵して、手を離す。
「…あたしが好きとか、本気か?」
「本気ですよ」
「だって、中身と外見が、かけ離れ過ぎ、だろ?」
ああ、どこかの馬鹿が、そう言って彼女を傷付けたのか。
こんなにも優しくて、可愛いひとを。
「ナナさんは、ナナさんですよ」
しかとその目を見つめて、きっぱりと言う。
南風見魚の声でも、顔でもなく、南風見魚そのものを好きになったのだと、伝わるように。
「言ったでしょう?俺は俺と関わった、悪人面でドスの利いた声でいつも不機嫌そうなのに、ほんとはひと一倍優しくてお人好しな、目の前のナナさんに、惹かれたんです」
ナナさんは呆れたように俺を見つめたあとで、ふっと笑った。
純粋無垢ではなくて、どこかニヒルな、ナナさんらしい笑み。
「悪人面って、ひっでぇ言いよう」
ま、否定はしねぇけどな、と、ナナさんが肩をすくめる。
「顔は人魚で中身は海賊、とか言われんだけどな」
「それつまり、花粉症中は中身も外見も海賊ってことに」
「つまりあんた、海賊が好きなのか」
「そうじゃなくて、ナナさんが、」
「あー、うん」
頷いたナナさんが立ち上がり、俺に向かってぽんっと防犯ブザーを放る。
「まあ、考えとく。んじゃ」
「え?」
ドアへ向かうナナさんを、ぽかんと見つめる。
「べつに外から鍵かけても、中から開けられるだろ」
「あ」
ナナさんがノブに付いたつまみを回して、開錠する。
少し振り向いて、俺に言った。
「あ、研究室を未施錠で無人にすることは禁止されてるから、浅井は留守番してろよ?」
「え」
「じゃあな」
言うだけ言ってナナさんは、とっとと部屋を出て行く。
「ええ、待っ…まじか…」
追い掛けたいが禁止と言われれば逆らえない。
「逃げ、られた」
まんまと。
やはり彼女の方が上手、と言うことだろうか。
でも、
「気持ちは信じて、くれた、んだよな?」
にやにや笑いながら戻って来た梨原先生に、振られた?と訊かれるのは、それから数分後。
ふたたびナナさんに逃げられるようになったけれど、今度は梨原先生は助けてくれなかった。
「良いことを教えてあげましょう」
にこっと笑った梨原先生が、不意に言う。
「…なんでしょう」
半分くらい魂が燃え尽きたんじゃないかと思えるテンションで、俺は答えた。
場所は梨原先生の個人研究室。ゼミに所属するにあたり、はい、と軽く渡された鬼のような量の課題を、提出して駄目出しされたところだ。
いったいいち、辛い。
「ん?あまり聞きたくないみたいですね。では、やめておきましょうか。とっておきの情報だったのですが」
このひと、クールそうな見た目に反して、絶対心のどこかに小学生を飼ってると思う。
燃え尽きたぜ…状態の魂を奮い立てて、興味あります!と言う雰囲気を造り上げる。
「いえ!ぜひ聞きたいです!」
「ほんとうに?」
「本当です!どうか聞かせて下さい!」
「そこまで言うなら聞かせましょうか」
もったいぶりやがってと言う気持ちは、内容を聞いたとたんに吹き飛んだ。
鉄の扉が音を立てないように、慎重に開ける。
重たい扉はかすかにキィ、と鳴って、開いた。
冬の冴えた空気が、頬を襲う。
冷やされた耳が、声を拾った。
冬の空気よりさらに澄んだ、美しい声。
細く開けた扉の隙間から身を滑り込ませ、そーっと扉を閉める。
扉からは死角になった場所にある、ベンチ。
壁の隅から、こっそり覗き込む。
いた。
大学の中で、いちばん高い棟の、屋上。
星の綺麗な、晴れた夜。
『よく、ひとりで歌っていますよ』
とっておきの秘密だと、梨原先生が教えてくれた。
冬の夜の、ナナさんの習慣。
ああ、この歌だ、と思った。
硝子の靴を履いたシンデレラが、目の前に現れたみたいに。
初めて見たときと同じように、ナナさんは周囲なんて気にせず歌っている。星を見上げて歌う彼女が、壁に隠れて覗く俺に、気付くようすはない。
純粋無垢な人魚。そう表現したくなるような、ただ歌うのを楽しむ姿。
けれどその実は、労働を強いられ虐げられた灰被りだ。
ひとに傷付けられ、それゆえに、臆病で怖がり。
誰だかは知らない。けれど、恐らくそれなりの数の愚者が、その顔に、歌声に、吸い寄せられて、それ以外の彼女をまるで化け物のように罵ったのだろう。
ローレライの歌声に惑わされ、海の藻屑となった船乗りたちのように。
どうせこちらが出口だ。気付かれても、簡単には逃げられない。
俺は足音を忍ばせつつ、歌う彼女へと近付いた。
ふと、彼女が視線を下げる。
初めて見たとき、俺は彼女から視線を逸らした。
初めて見たとき、彼女は俺になんて見向きもしなかった。
今、俺は視線を逸らさず彼女を見続け、彼女は俺と、視線を合わせた。目を見開いた彼女の、歌声が止まる。
「あさい…ど、して、ここ…」
「こんばんは、ナナさん。ここのことは、梨原先生から聞きました」
ああ、俺の人魚の瞳に、俺が映っている。
それが、無性に嬉しかった。
そっと、目の前の灰被り姫に微笑み掛ける。
おもむろに歩み寄る俺を見て、ナナさんは困り顔で辺りへ目を走らせたが、逃げ出しはしなかった。
隣に座った俺に、警戒もあらわに問う。
「なにか、用か?」
「いいえ。ただ、会いたくて…」
空に目を向け、息を吸い込んだ。
口を開いて、そっと歌い出す。
「♪―――――」
知っているひとは知っている、それなりに有名なミュージカルナンバー。青年が、一目惚れした少女に向かって恋心を告げ、少女がそれに答える、と言う曲。
冒頭の青年のソロ部分を、夜空に向けて歌う。
怖くて、顔は見れなかった。我ながら、婉曲過ぎる告白。
隣でくすっと、ナナさんが笑ったような気がした。
青年のソロ部分を歌い上げ、次は少女の返答部分だ。
すうっと、ほんのかすかだが息を吸い込む音が聞こえた。
「♪―――――」
高く済んだ歌声が、夜空に投げられる。
ひた、と、冷たい手が俺の手を掴んで、驚きつつぎゅっと握り返す。
青年と少女が掛け合い、最後には声を合わせてひとつの旋律を奏でる。
勇気を振り絞って視線を落とせば、ナナさんが俺を見上げて笑っていた。
最後のフレーズを、名残惜しくも歌い終える。
「………」
胸が詰まって、なにも言葉が出ない。
握った手が、するりと逃げる。
俺を見上げたナナさんが、表情を改める。
「正直、あんたのことを恋愛対象に見てなかった、と言うか、自分を恋愛っつー枠組みに入れてなかったんだよな」
あ、これ駄目なパターン。
とっさにすがり付こうとした手から逃げられる。
逃げた手が、ぺんっと俺の額を弾く。
「なんつー顔してんだよ」
苦笑混じりに笑ったナナさんに、潤み始めた目を向ける。
「…好きなんです。本当に」
「だからそう言う顔すんなって」
冷たい手が前髪を撫でて、視界が遮られた。
「自分と恋愛なんて一生縁なしだと思ってたからな、いきなり好きだとか言われてびっくりしたんだよ。あんたは、『真冬のローレライ』が好きだっつってたしな。自分で言うのもアレだが、あたしは歌と顔だけ見りゃ天使だろ?勘違いして、実物知って、幻滅したっつーやつも多いんだよ」
俺にも、幻滅されたと思ったのか。俺から離れた手が、ごまかすように自分の髪を掻き混ぜる。
「慣れたっつっても、嫌なもんだしな。酔った勢いで勘違いしても、冷静になりゃ変わるんじゃねぇかと」
「…それで、逃げてたんですか?」
「まあ…うん」
それは、俺に嫌われるのが怖かったのだ、と考えても良いのだろうか。それとも、単純にひとに幻滅されるのが嫌なだけ?
「でも、それはちゃんと、訂正しましたよね?そのあとは」
「言ったろ、驚いたんだよ。自分の中で、ちゃんと整理しようと思ったんだ」
ああ、やっぱり真面目でお人好しだ。
なんとも思っていなかったのであろう俺のことを、真剣に考えてくれたのか。
「…整理は、終わりましたか?」
「んー…結局、よくわかんねぇんだよな」
ナナさんが、困ったように笑う。
「恋愛とか、縁がなかったからさ。あんたのことは好きだけど、それが単なる後輩への親愛なのか、それとも恋愛としての気持ちなのか。区別が付かねぇんだよ」
…ああ、そんなこと言っちゃ、駄目ですよ。
「それ、望みはある、みたいに聞こえるんですけど」
あなたを諦めたくない俺は、都合良く解釈してしまう。
「さあ。あたしにもわからん」
「…なら、俺は諦めませんよ?良いですね?必ずあなたを、惚れさせて見せます」
「あっそ、頑張れば」
ナナさんは、よっ、と立ち上がり、んぅー、と伸びをした。
「あたしの邪魔になんない程度なら、好きにすれば良いよ」
「そう言う甘いこと言ってると、変なやつが寄って来ますよ。もう少し、警戒して下さい?」
「きっぱり断った方が良かったか?」
ん?と問い掛けられて、首を振る。
「いえ。断られたら泣いてました。しばらく立ち直れなかったかもしれません」
「そりゃ困るな。卒研期間は短い」
なんともナナさんらしい台詞を吐いたあとで、不意ににやりと悪戯っぽく笑う。
「ま、歌声はなかなか好みだったよ?」
「―は?」
「じゃ、な」
言われた言葉を俺が理解出来ないでいるあいだに、ナナさんはとっとと屋上から出て行ってしまう。
「え?」
扉が閉まる音を聞いてから、ようやく言われた言葉を飲み込む。
「ええっ!?」
かあっと、顔に熱が昇った。
「ちょ、待っ、な、ナナさん!?」
慌てて立ち上がっても、すでにその姿はない。
「ちょ、ええっ?そんな、えぇー!?」
その場にへたり込んで、頭を抱えた。
俺の人魚はまだまだ、俺を掻き乱してくれるらしい。
硝子の靴は、姫君の手の中に。
拙いお話に最後までお付き合い頂きありがとうございました<(_ _)>
またご縁がありましたらお会い出来ると嬉しいです(*^^*)




