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中編

数単語ですが化学な単語が飛び出しますので

化学アレルギーの方はご注意下さい

 

 

 

「♪――――――」

 

 微笑んだ彼女が、口ずさむ。

 ベンチに腰掛け、ふらふらと足を揺らしながら。髪を掻き上げ視線を下げている彼女は、こちらに気付かない。

 

 にこにことご機嫌に歌う声は冷えた冬の空気よりも澄んで高く、泣きたいくらいに美しかった。

 

 不意に顔を上げた彼女と、目が合いそうになる。

 

 慌てて視線を逸らした俺を気にした様子もなく、彼女は楽しげに歌い続けた。

 

 

 

「あさいー、なんやそれー」

 

 手に持ったビラに目を落としていた俺へ、浅川が声を掛けてくる。

 

「んー?声楽部の宣伝ビラ」

「セイガク部?テニスでもやんのか?」

「いや、全然違う。あー、簡単に言うと、合唱部?みたいな?」

 

 厳密に言えば違うだろうが、素人目には似たようなものだろう。

 

「合唱?歌うん?なんやっけ、まいふぁーてるまいふぁーてる、みたいな?」

「あー、だいたいそんな感じ」

「え?あさいそんなことやんの?」

 

 いやまあ、普通の大学でそんなんやってる男子の割合は少ないかも知れないけど。

 

「高専んとき、声楽部だったんだよ」

「へぇ。なんやイメージ変わるなー」

「よく言われる」

 

 苦笑して頷いた。

 

「軽音部っぽいとか、いやいやテニス部だろ、とか」

「わかるわ。チャラいもん、あさいー」

「でも声楽部なんですー。この顔でオペラとか歌っちゃうんですー」

「うっは」

 

 完全に草を生やして浅川がうつむいた。肩がぷるぷると震えている。

 

「ちょ、想像着かんわ。なー、発表会とかあるんやろ?絶対呼んでな、行くから。なんとしても行くから!」

 

 あいだに草を生やしつつ、浅川が俺の肩を叩く。

 

「俺様の美声に酔えば良いさ」

「ぶっ、は、ちょ、これ以上笑わせんで。死ぬ。ハラ痛い死ぬ」

 

 撃沈して腹を抱える浅川を見下ろしてから、ビラに目を戻す。

 

 あのとき、あそこで彼女が歌っていたのは、ミュージカルナンバーだった。テレビ版かブロードウェイ版かわからないけれど、英語歌詞の『シンデレラ』。

 なにげなくチョイスして口ずさむ曲としては、少しばかりマイナーな曲じゃないかと思う。少なくとも、ミュージカル好きじゃないと知らないだろう。

 

 ミュージカルサークルも見に行ったけれど、いなかった。

 合唱系や軽音のサークルもいくつか回ったが、そこも外れ。

 歌うサークルで回ってないのは、もうここだけだ。

 

 …サークルには、所属していないのだろうか。それとも、卒業してしまったのだろうか。

 

 浮かんだ考えを、頭を振って追い払う。

 まだ、わからない。諦めるべきじゃない。

 

 正直に言えば、迷子になって声を掛けたとき、彼女じゃないかと期待した。ドスの利いた低い声と、メンチ切った表情で、即違うと思ったけれど。

 

 

 

「…えらかったな」

「…ああ」

 

 毒草研のゼミを見学した感想は、それに尽きた。

 十五分のパワーポイントを用いた口頭発表に対し、質問・コメントの時間が一時間。一時間、みっちり、叩かれる。

 

 もちろん褒めてもくれるのだが、褒め:叱りが1:9。ツンデレの黄金比である。

 

 そしてくだんの梨原先生。彼女はツンデレを通り越してツンドラだった。もはや草さえ生えない極寒の地だった。

 

「…泣いとった、よな?」

「…たぶん」

 

 どうやら今日発表した四年生は、初めてのゼミ発表だったらしく、容赦のない攻撃を受けて、後半は顔を上げられなくなっていた。

 べつに、怒鳴ってるとか、激怒しているとかじゃない。

 ただ、静かに述べられる指摘が容赦なさ過ぎるのだ。

 

「いやあの、うん。今回はちょっと、発表の出来もいまいちだったと言うか、ね?」

 

 明らかに俺たちへのフォロー要員として派遣されたサトウさんが、引きつった笑みで言う。

 現在の居場所は学食で、今日の昼食代はサトウさんの財布から出た。

 

「僕らのフォローもちょっと手薄だったから、あの子には本当に申し訳なかったと…」

「でも、あれに耐えられるくらいじゃないと厳しい、ってことですよね?」

「まあ、うん、そうなるね。ちゃんとやらないと、ああなっちゃうってのも、確実だし…」

 

 不都合な真実をちゃんと言ってくれる辺り、サトウさんもなかなかのお人好しだと思う。

 

「でも、そのあとの梨原センセの発表は痺れましたわ。さすが、あんだけボロクソ言うだけのことあるわー思いました」

「そのあとの梨原先生と先輩方の論争も、すごかったですけど」

「あー、あれ、後半もはや口喧嘩やったなー」

「あれはね…うん。梨原研の発表は、あんな感じだよ」

 

 喰らい付いてくる学生を、梨原先生がちぎっては投げちぎっては投げと言う様相になっていた。端から見ていて、もはや高度過ぎて理解出来ない領域だったと思う。

 

「発表内容は録音されてて、後日質疑応答含めたものが文書化されてパワポと一緒にネットにさら…、上げられるから、それをもとに調べたり質問したりも出来るよ。あ、もちろん、鍵付きページだから研究室に所属する人間しか見られないよ」

「いま、晒されるって」

「言ってないよ」

 

 にこーっと笑って、サトウさんがそらとぼける。

 言ったって。絶対、言ったって。

 

「梨原研の場合は個別ゼミでも同じことやってるみたいだよ。たとえ身内のみの口頭発表でも、自分の発言には責任を持てって」

「…怖」

 

 それは、発表も上手くなろうと言うものだ。

 

「そうだね。正直、そのレベルについて行けない子だと梨原先生に着くのは厳しいかな。上の学年がフォローしてくれるとは言え、最終的に発表するのは自分だから。坂城先生だとそこまで厳しくはしないんだけどね」

 

 苦笑したサトウさんが頬を掻く。

 

「だからほんと、ナナちゃん、あ、梨原先生にいちばん噛み付いてたマスクの子ね。あの子はすごいなあと思うよ。あの子、本当に優秀で、学部一年のときから梨原先生に指導受けてたから」

「一年から?」

「うん。学内のプロジェクトでね。だからナナちゃん、研究室の所属期間的には僕より先輩なんだ。梨原先生にもすごく信頼されてるし、四年生の時点で博士まで進んで当然みたいな認識されてたよ」

 

 マスクの子、間違いなく、俺を道案内してくれた彼女だろう。

 先生相手にびしばしと、意見をぶつけまくっていた。

 

「すごいひと、なんですね」

「うん。すごいすごい。納得行かないことがあったら、一年のときから教授相手でも、遠慮なく意見ぶつけに行ってたらしいよ。あの見た目だし、ナナちゃんのこと怖がってる先生もけっこういるみたい。実際は、本当に優しい子なんだけどね」

 

 あの見た目、を思い出したらしい浅川が、苦笑いを浮かべる。

 

「梨原センセもやけど、オレはあのひとの駄目出しも怖いっす」

「でも、怖いの見た目と態度だけだよ?ちょっと、春と夏と秋は機嫌悪いけど、冬は全然怖くないよ」

「それどっちか言うと、機嫌悪いのがデフォやないすか!」

 

 浅川の突っ込みにサトウさんが笑う。

 

「花粉症なんだよ。花粉さえ飛んでなければ機嫌良いから」

「…ちなみに花粉の種類は」

「スギとヒノキとイネ科とイチョウとブタクサとヨモギと…」

「あ、もういいです」

 

 完全に、春から秋までカバーしていた。

 

「症状は」

「目と鼻と咽って言ってたね。呼吸と視界が阻害されるせいで、咽痛めるしたまに頭痛もするって」

「…それは、不機嫌にもなりますね」

 

 むしろそれで少しも気分を害さない方が驚きだ。

 俺が同じ立場だったら、スギ林を見るたびに、焼き払え!と言う気持ちになると思う。

 

「薬も飲んでるし、食生活とかも気を付けてるらしいんだけどね。一向に症状が緩和されないみたいで。日本医療の馬鹿野郎って、ときどき呟いてるよ」

「それは…」

「たまに、サナダムシ腹に飼おうか真剣に迷うらしい」

「サナダムシで花粉症予防って、ガセネタだった気が…」

 

 寄生虫を腹に住まわせるとか、明らかに追い込まれている。

 少し意表を突かれた顔をした浅川が、ふっと笑って言った。

 

「なんや、おもろいひとっすねー。そんなん聞いたら、怖くなくなりますわ」

「うん。怖くないひとだよ」

 

 サトウさんはにこっと微笑むと、自信たっぷりに頷いた。

 

 

 

「…はぁ」

「なんやー?ため息なんか吐いてー」

 

 ため息を吐いた俺の顔を、浅川が覗き込んだ。

 

「いや…なんでもない」

「いやいや、なんでもない顔やないやろ。なんや?ホームシックか?」

「違うよ」

 

 浅川の言葉に首を振ってから、ふと、浅川ならなにか情報を知らないかと思い直す。

 よくよく考えてみれば、彼女を目撃したのは第1エリアだ。浅川なりその知り合いなりが、同じひとを目撃している可能性もある。

 

「なあ、浅川」

 

 駄目でもともとと、話すことにする。

 

 編入前に見学に来たときにこの大学で、すごく綺麗な声で歌うひとを見かけたこと。その声が忘れられなくて、探していること。そのために歌を歌うサークルを回ってみたが、彼女は見つからなかったこと。

 

 話を聞いた浅川は眉を寄せて考え込んだあとで、申し訳なさそうに言った。

 

「んー。悪い。オレは知らんわ。けど、なんか知ってるやつおらんか、ちょっと声掛けてみるわ」

「え、いや、そこまでは」

「ええてええて。声掛けるくらい大した手間やないし、それで見つかったら儲けもんやろ?」

「…ありがとう」

「どういたしまして。ほな、ちょっくら聞き込み行って来るわー」

 

 にかっと笑った浅川は、ひらひらと手を振って歩き去った。

 

 笑われてもおかしくないと思っていたのに、この大学にはお人好ししかいないのだろうか。

 

 

 

 次の日、興奮した浅川が俺を捕まえた。

 

「なあなあ、その、歌ってたやつって、めっちゃ美人やなかった?」

「え、いや、顔はあんまり見てないんだけど…」

 

 歌ばかり印象に残って忘れかけの顔を、どうにか思い出す。

 下向きばかりで、まともに上げたところは一瞬しか見なかったけれど、

 

「美人だった、と思う」

「キタコレ!」

 

 よっしゃ!とガッツポーズをして、浅川が目を輝かせる。

 

「ならきっと、そいつは、『真冬のローレライ』や!」

「真冬のローレライ?」

 

 なんだその、学校の七不思議的なワードは。

 疑問をあらわにした俺に、浅川が前のめりで語る。

 

「なんや毎年冬だけ表れる女でな!めっちゃ歌上手くてものっそ美人なんやって!ほら、あさいが見た女っぽいやろ!?声楽部の非公式部員らしいで!」

「冬だけ…」

「ん!真冬にだけおって、人魚か思うくらい歌上手くてべっぴんやから、『真冬のローレライ』っちゅーて、一部で有名だったらしいわ!」

 

 俺としては『シンデレラ』のイメージが強い彼女だが、確かにあの澄んだ歌声なら、『ローレライ』でもおかしくないだろう。

 

「で、それ、誰だかは、」

 

 言葉の途中で急に萎れた浅川に、なにかを察して質問を止める。申し訳なさそうに眉を下げた浅川が、一転してローテーションで答えた。

 

「それがな、声楽部のやつも通称が『ローレライ』で通っとるし、正規の部員やないしで、名前はおろか学部や学年すら知らないらしいんや。学年は、どうもオレらより上らしいっちゅーのはわかったんやけど、今年もいるかはわからへんかってん…」

「そっ、か…」

 

 欲しい情報が手に入らなくて残念だが、前進したのは確かだ。

 どこの誰かもわからなかったのが、非正規とは言え声楽部に所属していることがわかった。

 それだけでも、ありがたいことだ。 

 

「ありがとな、浅川」

「いや。またなんかわかったら、教えるかんな!」

「ん。助かる」

 

 俺は浅川に笑みを向けて、もう一度ありがとうと言った。

 

 

 

 いくつか研究室を回って、けっきょく毒草研に行くことにした。

 研究内容を聞いていちばん惹かれたのが、毒草研だったのだ。

 厳しい、と言う点は正直不安だが、まあ、なんとかなるだろう。

 

 研究室を決めれば次は指導教官と、毒草研の三人の先生とそれぞれ面談することにする。

 

 坂城教授からは、勇気あるねと言われ、高木先生からも、あれ見ても来るとか根性あるなと感心された。

 

 そしてついに、梨原先生(ラスボス)との対面。

 

「…なんで一緒?」

「だって怖いやん!」

 

 俺が梨原先生にアポを取ったと聞いて、一緒に行く!と言い出した浅川が宣言する。

 怖いなら、この研究室にしなければ良いのに。

 

 少し呆れつつも、仕方ないなあと笑う。

 なんだかんだ世話になってるし、これくらいのわがままは聞いてやるべきだろう。

 

 梨原先生に指定されたのは最初の研究室見学で、間違って指定された部屋。

 

「ん?ああ、来たか」

 

 今日はヘッドホンなしで作業していた彼女が、振り向いて呟く。

 

 ヘッドホンはなくても、相変わらず眼鏡マスク装備で、不機嫌そうだ。

 

「梨原先生はそのうち来るから、それまで適当に話してろってさ。なんか聞きたいこと…より先に自己紹介か。M1、南風見はいみなな。梨原先生付きは、ほかにドクターふたりとM2M1がひとりずつ、四年がふたりいるけど、ドクターは社会人と留学生だからあんまり顔会わせる機会ない」

「三年の麻井あさい颯音はやとです」

「同じく、浅川あさかわとおるです」

 

 なにか聞きたいことはと言われた浅川が、なにをとち狂ったか、とんでもない質問を投げる。

 

「あの、ハイミさん、『真冬のローレライ』って知ってます?」

「は?」

 

 案の定と言うかなんと言うか、なに言ってんだこいつ、と言う顔をされる。

 

「いや、実はっすね」

「浅川」

「ええやん。いろんな学年に訊いた方が、情報集まりやすいやろ」

 

 俺の制止を無視して、浅川が彼女、ハイミさんに俺のことを語って聞かせる。

 

「真冬のローレライ、ねぇ」

 

 話を聞き終えたハイミさんは、少し呆れた口調になって言った。

 

「あたしは見たことねぇな。つか、それ研究室関係ねぇだろ。あたしはともかく梨原先生にそう言う無関係な話振ると、睨まれるぞ」

「うわ、すんません」

「いや、あたしになら良いけどさ、梨原先生には気を付けろよ?」

「はいっ」

 

 びしっと背筋を正して、浅川が返事する。

 わかれば良いと頷いたハイミさんは席を立つと、電気ケトルに水を汲んだ。

 

「珈琲で良いか?紅茶とか緑茶とかもあるけど」

 

 カップをみっつ並べて、俺と浅川に問う。

 

「なんでも良いはやめろよ?あ、冷たいのが良いなら、麦茶と烏龍茶があるな」

「えっと、紅茶が良いです」

「オレは、緑茶が」

「バラバラかよ」

 

 文句を言いつつ、ハイミさんがカップにそれぞれティーバッグを放り込む。自分のぶんは、個包装タイプのドリップ珈琲にするらしい。

 

「ここの流しに有機物流すと、梨原先生に殺されるから注意しろよ」

 

 適当にカップにお湯を注ぎつつ、ハイミさんが言う。

 

「この部屋一応実験室扱いだから、流して良いのは三次洗浄液からな。飲食も、本当は禁止。酸塩基は中和させること。重金属と有機物は絶対に流さない。ラーメンのスープとかは、トイレで流せ」

 

 飲食禁止と言いながら、ハイミさんが俺と浅川に飲み物を出す。

 …その辺は、まあ、そう言うことなんだろう。

 

「トイレって」

「危険がないものなら、それがいちばん手っ取り早い。危険物は、ちゃんとわけて正式に廃棄するけどな。ま、最初のうちはいちいち誰かに聞けば良い。廃液に関しては間違いが許されないから、不安なら絶対に確認しろ。下手すると、ちょっとしたミスのために数百万単位で損害が出て、それが部屋の管理責任者、この部屋の場合は梨原先生の責任になる」

 

 一回のミスで、数百万。

 青ざめた俺と浅川に、ハイミさんが頷いて見せる。

 

「今の緊張、忘れるなよ。うっかりが命取りになるからな。んで、なんか訊きたいことあんのか?」

「あ、えっと…」

 

 訊いても怒られないだろうかと案じつつ、おずおずと問う。

 梨原先生がいないなら、ちょうど良い。

 

「梨原先生、すごく厳しいって聞いたんですけど、本当ですか?」

「ひとによるんじゃねぇの?」

 

 彼女は軽い口調で、そう言った。

 

「確かにいろいろ言われるし、細かいとこまで指摘されるけど、それを厳しいと思うか、丁寧に指導されてると思うかは、受け取る相手次第だろ。あたしもよく怒鳴られるけど、あのひとはたとえ怒っても理不尽なことは言わねぇから、あたしは、生徒のことを真剣に考えてる良い先生だと思ってる。真剣だから感情が高ぶることもあるし、どうでもよくないから、細かく見て指摘してくれるんだろ」

 

 目から鱗の台詞だった。

 確かに、あそこまで細かく指摘するのは真剣に聞いていないと無理だろう。

 

 感心して頷いた俺に、ハイミさんがただしと付け加える。

 

「容赦ないのは確かだから、叱られんのが嫌なやつにとったら苦行だろうな。あたしは慣れてるから平気だけど、ひとによってはすげぇストレスに感じるんじゃねぇの」

「どんな感じで、怒られるん、すか?」

「あのひとは、怒るんじゃなく、叱るんだよ。場合によるけど。ゼミ、来ただろ?あんときみたいに理詰めで冷静に責めるときもあれば、一発ばんっと怒鳴るときもあるし、延々と叱責され続けるときもある。確実なのは、ひとこと怒鳴ったあとはクールダウンしてから叱られることだな。怒った勢いのまま怒鳴られ続ける、ってことは、まずない」

 

 まあ、ひとことは怒鳴られるわけだけど、出来たひとだと思うよ。

 ハイミさんはそう言って、少し笑ったようだった。

 

「もうちょっと優しさも見せれば印象変わるだろうに、積極的に嫌われもので行くんだから、損なひとだよ」

 

 分厚い眼鏡で歪められ、大きなマスクで隠されたその笑顔を、邪魔物なんてなく見たいと思った。

 

 損なひとは、あなたもだろう。心の中で、呟く。

 

「頑張る気があれば誰でも受け入れる。けど、頑張る気がないならやめた方が良いな。合同でゼミやるし、梨原先生が苦手ならうちの研究室に入るのは無謀だろうな。…実際、ゼミに出て来れなくなったひと、いたし」

「え…?それ、卒業は」

「したよ。そいつの発表の日だけ梨原先生がゼミ欠席してな。…そのせいで、っつーと言い方悪いが、でも、はっきり言ってその年は研究室全体の質が下がってたと思う。三人先生がいて、それぞれ違う視点で見てるからな。ひとりぶんの助言が消えるのは、大きい。それに、あまり厳しいことは言えないって雰囲気になって、ゼミも停滞しがちだったからな。活発に意見交換出来ないゼミなんて、やる意味が激減だ」

 

 ふーっとため息を吐いて、ハイミさんが言う。

 

「…足手まといは来るなとは言わないが、先輩たちがかなり手厚くフォローしたんだ。指摘の意味、ひとつひとつ優しい言葉で言い換えて、怒ってるんじゃない、アドバイスなんだって。それでも駄目だ怖いっつーのは、単に向上心が足りてないだけだろ」

 

 ああ、このひとは、梨原先生の学生なんだな、と思う。

 強くて、優れたひとなのだ。きっと。

 

「言葉はきつくても、否定してるわけじゃないんだよ。ちゃんと聞いてりゃ、わかるはずなんだ。梨原先生に悪いところがないとは言わねぇけど、でも、言葉をちゃんと聞かねぇのは、受け取り側も良くねぇだろ」

 

 少し悔しそうに、ハイミさんが呟く。

 

「怖いひとなんかじゃ、ねぇんだよ。ちょっとコミュ力低いだけでさ。優しくて、生徒のことを思ってくれてるひとなんだ」

「指摘をちゃんとモノに出来ればすごくためになるって、サトウさんから聞きました。梨原先生のお陰で、発表の質が上がるって」

「ん。ともさんも、すごいひとだから。学会発表で優秀賞取ってるし、論文も一本メジャーなジャーナルに載ってる」

 

 え、単なる優しいひとじゃなかったのか。失礼な感想を持ったところで、部屋の扉が開く。

 

「遅くなりました。ごめんなさい」

「梨原先生。こんにちは」

 

 姿を見せた梨原先生に、ハイミさんが立ち上がって挨拶をする。

 真っ直ぐな長い髪をポニーテールにした、少しきつめの顔立ちの美人だ。大学の准教授としては、たぶんかなり若い方。

 

 一気に緊張した俺と浅川の前に、梨原先生が座る。

 

 ハイミさんがなにも聞かずに、濃いめに淹れて氷を浮かべた紅茶を出す。ガムシロップとミルクは、二個ずつだ。

 

「ありがとう…ふぅ、お代わり貰える?」

「はい」

 

 出された紅茶をストレートのまま一気に飲み干して、梨原先生がハイミさんにコップを渡した。驚いた様子もなく頷いたハイミさんが、もう一杯同じものを作る。

 

「会議、お疲れさまです」

「ん。ほんと、代わりにあなたに行って来て欲しいくらい無駄な会議だった」

 

 今度はガムシロップとミルクを入れて掻き混ぜながら、梨原先生が顔をしかめる。

 

 ハイミさんが肩をすくめて、椅子に座った。

 

「それでお給料と研究費貰えるんですから、耐えて下さいよ。後で肩揉みしますから」

「大学から貰える研究費なんて、あってないようなものじゃない。給料だってやっすいし、大学に尻尾振るより国家予算ぶん取る画策するか、製薬会社にでも擦り寄るかしてた方が、有意義よ」

「それだって、准教の地位あってのものでしょう。文系の研究室に比べればまだ理系の研究室の方が優遇されてるんですから、そんなぐずぐず言わないで下さい」

「嫌。金額見なさいよ、研究させる気あるのかしら。と言うか文系のひとたち、腑抜け過ぎでなくて?あの額でよくまあストライキ起こさないわよね」

 

 ぽんぽんと交わされる気安いやり取りに、驚く。

 ゼミの言い合いとは、大違いだ。

 これが、四年間で培った絆なのだろうか。

 

 ぱんっと手を叩いたハイミさんが、梨原先生を促す。

 

「さ、愚痴はあとでわたしが聞きますから、今は学生確保ですよ。学生を育てるって言う建前で、役職貰ってるんですから、役目果たしましょう」

「今七人も持ってるんだから、十分じゃない?うちはちゃんと、ドクター行きも育ててるし、うちでドクター取った子は、ちゃんと就職してるし」

「でも研究室全体で新入生がゼロだったら困るでしょう。梨原先生の学生は増えなくても良いですから、応用植物機能性研究室に、学生を呼び込んで下さい」

 

 駄々っ子のように甘える梨原先生に、ハイミさんが発破を掛ける。意外な関係性だった。

 ただ厳しいひとだと思っていた梨原先生が人間らしく見えて、印象が変わって行く。

 

 これ、わかってやってるなら相当の策士だな。

 

 少し梨原先生に惹かれ始めた自分を感じて、俺は内心でそう思った。

 

「ほら、せっかく忙しい三年生が時間作ってくれてるんですよ」

「わかったって。えーっと、わたしの講義は受けてない子ね。応用植物機能性研究室の、梨原なしはら花梨かりんです。わたしの下に着いた学生には、みっつの約束を守って貰う代わりに、みっつのことを実現させることを約束しています」

 

 だらっとした様子から一転、空気を変えた梨原先生が言う。

 

「あなたたちに守って貰いたいことは、思ったことはなんでも表現すること、決まりを守ること、そして、諦めないことです。わたしもほかの学生もエスパーではないので、あなたたちから伝えて貰わないとなにもわかりません。わたしの下に着くなら、自分からアクションを起こして下さい。たとえ間違っているかもしれないことでも、思ったなら、はっきり伝えて下さい。それで評価を下げたりはしません」

 

 一度言葉を切った梨原先生が、紅茶を口にする。

 

 ふう、とひと息吐いてから、再び口を開いた。

 

「次に、決まりを守ることについてですが、研究をする上で関わるあらゆるものに、決まりや期日、手順があります。それを守っていない研究は、認められません。また、あなたたちが研究をする上で、わたしを始めいろいろなひとが、助言や指摘をするでしょう。それらは、なにかしらの理由があって言われます。ですから、決まりごとはしっかり確認し遵守すること、助言や指摘には耳を傾け、理解することを、忘れないで下さい」

 

 有無を言わせぬ口調だが、内容は至極当然のものだった。

 約束と言われて身構えたのに、少し、拍子抜けする。

 

「最後に、諦めないで下さい。研究を行う上で辛いことや上手く行かないこともあるでしょう。わたしもほかの学生も、甘やかすことはしません。厳しい指摘もどんどんしますし、叱責することも多いでしょう。それでも、研究を諦めないで下さい。諦めてしまえば、それまでやって来たこと全部、捨てることになります。その時間が無意味だとは言いません、あなたが捨てたものを、誰かが活かすかもしれませんから。けれど、わたしは出来れば頑張ったあなたに、ちゃんと活かして欲しい。ですから、どうか諦めずに食らい付いて下さい」

 

 俺と浅川を交互に見ながら、梨原先生は語った。

 戸惑うくらい、ひとの目を見て話すひとだな、と思う。

 

「そのみっつを守ってくれる学生ならば、わたしたちは喜んで迎え入れます。協力は惜しみません。約束しましょう。卒業するとき、あなたが自分に自信を持てること、胸を張って研究者を名乗れる技術と知識を付けていること、辛いときに頼れる、心強い仲間を手に入れていることを。わたしたちは、決して優しくはありません。あなたを苦しめることも、傷付けることもあるでしょう。けれど、わたしたちは常にあなたの味方であり、あなたが成長出来るように支援します」

 

 なんだか、宗教の勧誘みたいだな、と思った。

 

「…いつ聞いても、やっぱり宗教勧誘ですよね」

「うるさいな」

 

 あ、ハイミさん口に出した。

 

 ぎろんと、梨原先生がハイミさんを睨む。クスクスと笑ったハイミさんが、俺と浅川に目を向けた。

 

「平たく言うと、すっげえ厳しくするけどあんたのためだから耐えろ!ってことだから。あと、梨原先生が守ってって言ってることはべつに特別なことじゃなくて、どこ行っても重要なことだ。実際たぶん、そんな当然のことって思っただろ?でも、実践すんのは難しいんだよ。だから、梨原先生は約束って形を取ってる。そんなに身構えなくても良いけど、破ったら大目玉喰らうから」

 

 きっと、決まりを守ることには時間厳守も含まれるんだろうな。

 いつかのサトウさんの言葉を思い出して、思う。

 

 ハイミさんの突っ込みで空気が弛み、そこからは比較的スムーズに話が進んだ。

 厳しいけれど、良い先生。ハイミさんが語ったことを、なんとなくだが理解する。

 

 気付けば俺は、希望担当教諭欄に梨原先生の名前を書いて、研究室希望調査用紙を提出していた。

 

 

 

拙いお話をお読み頂きありがとうございます


…実験室で飲食したらダメデスヨ?

え、わたしですか?

イヤダナーソンナコトスルワケナイジャナイデスカー(;゜-゜)


あ、えっと

この小説はフィクションですので

真似しないで下さいね

お使いの実験室のルールに従って下さい!


続きも読んで頂けると嬉しいです

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