爪なんてただの体の一部です
「先輩って、爪、長いですよね」
脈絡のない話に私はキーボードを叩いていた手を止める。
タタンッ、と勢いをつけてエンターキーを押してから、声をかけてきた後輩の方へ視線を投げれば、後輩の方は私ではなく私の手を見ていた。
確かに爪は長い。
でも別に手入れをしているとか、マニキュアを塗っているとかではない。
そんなことをしている暇があるなら、こうして小説を書いている方が有意義だ。
「彼氏さんは、短いですよね」
それが一体どうしたと言うのか。
後輩の言いたいことが分からずに首を傾げる。
「野球部だからね」
「ですよね」
そこで一旦会話が切れる。
後輩は静かに私のマグカップを引き寄せて、珈琲の粉を入れた。
ありがとう、と言えばのんびりと首を振る。
私と後輩の二人分の珈琲の香りが、部室いっぱいに広がっていった。
普通ならポットなども置けないのだが、うちの文芸部はパソコンを使わなくてはいけないので、自然とコンセントを自由に使用出来るようになっている。
「爪の短い人に、恋人は多いそうです」
どうぞ、なんて言いながら目の前に差し出された、しろくまのマグカップ。
ゆらゆらと薄く細い湯気を立てるそれを見ながら、私は後輩の言った言葉を咀嚼して飲み込む。
理解をするために。
マグカップの持ち手に手を伸ばして掴む。
チラリと自分の爪を見たけれど、特に感じることはない。
ただ昔から嫌に爪の形やら何やらを褒められたことはある。
形が綺麗だと言われ、傷がないと羨ましがられ、マニキュアの塗りがいがありそうだと目を輝かされたこともあったな。
「私、長いけど付き合ってるわね」
なるべく下に珈琲が触れないように、少量ずつ啜れば後輩は「そうですよね」と神妙な顔をして頷いた。
一体どこから得た知識なのか知らないけれど、そんなことを考えているから今日は一文も打てないのよ、とは決して言わない。
書くペースには人それぞれ個人差があるから。
爪を切るのは面倒だ。
生活に支障が出ない程度に伸ばして、適当な頃に切ってしばらく放置を繰り返している。
だから手入れとかネイルとか興味はない。
彼は野球部だから爪が短い。
手を使うしスポーツだし球技だし、爪が割れたりしたら大変だから手入れは怠らないだろう。
そこはある意味私よりも女子力的なものがある。
「……多分、相手を傷つけないためでしょう」
小さな音を立ててマグカップを机に置く。
両手で自分のマグカップを包み込んでいた後輩は、不思議そうに目を丸めて私を見た。
まつ毛長いなぁ、なんて関係ない方向に働きかける頭を元に戻す。
マグカップを置いたおかげで空いた手を後輩に向けて、自分の爪を見せた。
確かに形は悪くないと思う。
しかし、そんなに爪の形やら何やらに固執する必要は感じられない。
思い返すのは行為の最中のこと。
夕方の部室で思い返すことではないのだが、私が頭の片隅でそんなことを思い出していることなんて、目の前の後輩は知らない。
大きな瞳を更に大きくして首を傾げている。
動く度に軋むベッドの上で、綺麗に整えられていたはずのシーツに沈んだ二つの体。
自分でもどこから出るのか不思議でならない、艶めいた声と彼の熱っぽい吐息。
指と指を絡めていたはずなのに、ラストスパートにかかかれば私の手は彼の背中へ伸びる。
限界の近い彼が繰り返し名前を呼ぶのが愛おしい。
胸元や首元に散らばる赤い花びらに、胸が見えない手で掴まれたような気分になる。
揺すられる体を支えるように彼の背中にしがみつく。
長く伸びた私の爪は彼の皮膚に刺さって、彼はいつも少しだけ痛そうに眉を寄せて笑う。
私が私の体を支えるためには、手じゃなく爪を使うしかなかったりする。
爪を彼の背中に食い込ませて体を支えるのだ。
長い爪はしっかりと皮膚を切り裂いて、赤の滲む線を数本浮き上がらせる。
それに私と彼が気付くのはいつも行為が終わった後。
「ごめんね」と言いながら、手の平で私のこさえた傷を撫でれば彼が笑う。
学生らしく鍛えられた成長過程にある体。
そこに傷を付けているのは紛れもない私自身。
謝りながらもそれに対する達成感にも似た、充実感や満足感があった。
「その傷がいいものか悪いものかなんて、人それぞれ感じるところがあるだろうけどね」
過去に彼の友人に言われたことがある。
もう少し傷を付けないように出来ないのかと。
見ているこちらが恥ずかしい、と。
その時には、見せ付けるためだし、なんて心の中で吐き捨てて笑顔を貼り付けていたものだ。
あの日焼けの少ない逞しい広い背中を思い出す。
その背中の肩甲骨ら辺。
そこに数本の赤い線が今でも走っているだろう。