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見ると赤ん坊の顔の上に香りの帯が漂っており、次第に凝縮する気配の下で赤ん坊はますます酷く咳き込む。終いには息も出来ぬげで、白い泡を吹き痙攣している。僕は思わず息を呑んだ。
いつもとは全く違う、千春の刺すような実在感。目眩がするほどの芳香が鼻を襲い、僕の息まで苦しくなる。今なら手を伸ばせば触れられそうだ。
千春。
動けない僕を尻目に、姑は赤ん坊を抱き上げると窓に向かって突進した。ますます濃くなる匂いの雲が彼女の後を追いかける、それが数え切れない手になって赤ん坊の顔に絡み付く。姑の指が窓に届き、それに気付いた僕が叫んだ。
「やめろ!!」
しかし時すでに遅く、全開にされた窓から流れ込んだ一陣の風によって千春の気配は掻き消えてしまった。
新鮮な空気が部屋を満たす。血相を変えた男の顔を老人が穴が空くほど見つめている。恐ろしいものでも見たように、その顔には恐怖が張り付いている。赤ん坊の声が響き渡る。
「出て行ってください」
僕の声が震えた。老人は時が止まったように動かない。
「出て行け!!」
我に返った姑は何やら早口に口ごもると追い立てられるように部屋を出た。赤ん坊の泣き声が遠ざかり、開け放たれた玄関を僕は呆けたように眺めていた。
香りはじきに戻ってきた。崩折れた僕の傍に。しかしその香りにはもう前ほどの親しみを感じられず、込み上げてくる感情に圧倒されて、僕はこの部屋を出る決心をした。
*
「もしよかったら、梅の実を分けていただけないでしょうか」
塀の向こうから千春の声が聞こえてくる。大家を相手に談笑する声からすると、彼女の希望は叶えられ、千春は今年も梅酒を漬けるだろう。全く、その行動力には舌を巻く。
やがて戻ってきた千春は、戦利品を抱いて誇らしそうに笑っていた。側を通るとき籠に盛られた梅の実が香り、その香りを追うように振り向いた千春が言った。
「それにしても勿体無いわね、あの木・・・」
*
固く締まった瓶を開けると、琥珀に染まった酒の中で翡翠色の梅が踊った。部屋に千春の気配を探れば、案外近くにそれはあり、呼ぶと隣に寄って来た。
タンブラーを二つ取り出して、二つとも酒を口まで満たす。豊かな香りが鼻をくすぐり、口をつけ、飲み下す。咳が出た。
「・・・辛いな」
飲み慣れた味とはほど遠く、焼酎の刺激ばかり強くてまともに飲めたものではない。それでも無理に飲み干すと、酒にくらんだ頭の中で、いつかの千春の声がした。
「まだよ。来年のお楽しみって言ったでしょう」
ああそうか。あれからまだ一年も経っていない。
二つ目のグラスも一気に干したが、瓶の中にはまだたっぷりと千春の梅酒が残っている。瓶を傾け、次の一杯を注ごうとした時、ふ、と部屋が明るくなった。雲を抜けた満月が庭の梅の木を照らしている。
月に輝く白梅は神々しいばかりに美しい。花の香りはどんなだろう。その艶やかな香りを思うと、部屋に重く立ち込めた酒の匂いが俄かに鼻につき出した。闇の中、千春に聞いた。
「いいか、千春。開けるぞ、いいか」
香りはそよとも動かない。僕は続けて声をかけた。
「開けるぞ、千春、いいか。はっきり言えよ、おい」
香りは依然動かない。僕はよろめく足で立ち上がり、窓の鍵に指を掛けた。金属が夜気を指に伝え、ふと気づけば隣にあった千春の気配が消えていた。
信じられない思いで香りの位置を部屋に探る。家具のない部屋はだだっ広く、月明で隅々まで見渡せたが、千春はどこにもいなかった。僕は庭に目を移す。
千春はそこに立っていた。去年の夏とまるで同じに、青梅の籠を抱いた千春が、満開の梅の木の下僕に笑いかけている。僕は急いで窓を開けた。
ガラス窓の向こうに千春の姿は無かった。吹き抜ける風にも花の香りは混じっていない。僕は知っていた。
塀の向こうの梅の木は切り倒されてもう無いことを。
狭い庭にひとりたたずむ。振り向けば月光が僕の部屋を照らしていた。空き缶の転がる部屋に裸足で上がり、金色に輝く瓶を抱えて再び庭へ戻る。逆さまにして、中を空けた。
塀の手前、ちょうど梅の木が覗いた辺りに、月に輝く青い実がぼたぼた音を立てて落ちた。黒く湿った春の土から甘い香りが揺らめき立ち、それを散らした風に混じって、千春の声を聞いた気がした。
梅が咲いているうちに公開できてよかったです。
お読みいただきありがとうございました。