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「香水、付けてるんですか?」
通りすがりに事務員が聞いてきた。
千春を亡くした当初は避けられていた生活の話題も、時が経つにつれて次第に顔を出すようになった。
「え、まあ」
僕はそう答えて曖昧に笑う。事務員は訝しげな目を向けてくるが、本当の所は答え様もないので仕方がない。
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あの遭遇以降、千春の気配は頻繁に部屋に出没するようになった。
その香りは帰宅した僕を玄関で出迎え、食事時が近付けば台所へ移動し、暇な時は隣でテレビを観た。
そんな日々を送るうちに、僕はいつしか香りを追う名人になった。たとえ目を瞑っていても一嗅ぎでどこにいるか分かったし、僅かな香りの違いから心の機微まで読める気がした。
香りの機嫌が良かったならば、僕が「千春」と名前を呼ぶと鼻を撫でて僕に答え、虫の居所が悪ければ、黙ってどこかへ消えてしまう。僕はそんなやり取りに満足し、かすかな香りを消さないように細心の注意で日々を送った。
風にはいつも気を付けた。微妙な空気の流れでさえも香りは曖昧にぼやけたし、窓など開けようものならば再び居所が定まるまでにかなりの時間が必要だった。
換気なんて以ての外だ。僕は冬なのを幸いに窓を閉め切り、玄関からの出入りを極力減らし、ますます部屋に閉じこもった。
そんな努力の甲斐あって香りは消えずに部屋に留まり、そんな毎日が変わらず続くと思われていた矢先、連絡もせずに部屋を訪れた千春の母親によってこの均衡は終わりを告げた。
彼女とともに寒風が吹き込んだ瞬間、嫌な予感が僕を襲った。しかし赤ん坊を抱いた老人を寒空の下追い返すことも出来ず、慌てて中に招き入れると急いでドアを閉め切った。
部屋に入った姑は幾度か鼻をひくつかせると、訝るように眉をひそめた。片手を上げて鼻を覆い、やおら周囲を見渡して、物言いたげに口を開く。僕の背筋に緊張が走る。
その時赤ん坊が火がついたように泣き出した。姑が何度も揺すってあやすが、なかなか子供は落ち着かない。僕は少しほっとしつつも、その調和を欠いた光景に苛々として目を逸らせた。
やがて子供が泣き止むと、居ずまいを正した姑は僕に相談事をもちかけた。要約するとこうである。
先ごろ千春の父親が脳出血を起こして倒れ、手の掛かる体となった。今のままでは孫の面倒を見切れない、子育てには協力するから、ここを出て一緒に住んではくれないか。
突然のことに困惑したが、この部屋には千春がいる。彼女を置いて引っ越すことなど出来ない相談だったので、どう断ろうかと思案を始めた。
その時だ。
姑の傍の座布団に寝かせていた赤ん坊が、いくつか続けて咳をした。
次が最終話です。続きは明日6時に。