表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かおり  作者: 内野さびねこ
2/4

2/4


陽光溢れたその部屋を今は月が冷たく照らし、灰色の光の脚を壁際に置いたガラス瓶まで伸ばしている。瓶を通った月の光は金に凝って床に流れた。



梅雨明けの頃には新生活にも慣れが出て、幽霊の噂は噂のままで笑い話に変わっていった。


千春はつわりが済むが早いか、大家の許可を得て梅の実を集め、梅酒作りに精を出した。


固い産毛の生えた実を籠から取っては布で吹き、ヘタを楊枝で抉り出す。甘酸っぱい初夏の香りを彼女は何より喜んで、実を取り上げては匂いを嗅いだ。


ぼとん、ぼとんと青梅が瓶の中へと落ちていく。氷砂糖と交互に重ね焼酎で満たし蓋をして、千春はちらりと僕に笑うと「来年のお楽しみ」と言い置いたなり瓶をどこかへ遣ってしまった。


それを戸棚の奥に見つけたのは、荷造りを半ば終えた夜、部屋に住み着く香りの帯が隠し場所を教えたからだ。



その香りに気が付いたのは、熟して落ちた梅の実が土にまみれて腐る頃、夕立を吹き抜けた風の中に春の香りを嗅いだ日だった。


ちょっと意外に思った僕は香水でも付けたのかと千春に聞いた。彼女は洗濯物を畳む手を止め、覚えがないと首を傾げた。洗濯物に鼻を埋めて、洗剤の香りだろうと言われてみればそんなものかと僕も思った。


風通しの良い部屋の中を滞りなく季節が流れ、落ち葉が風に遊んだある日、僕の仕事の留守中に、激痛に襲われた千春は救急車で搬送された。


病院に駆けつけた僕が見たのは、ケースの向こうの小さな赤子と冷たい千春の亡骸だった。


赤ん坊は女の子だった。千春と引き換えに生まれ出た命を僕は憎みこそしなかったが、かわいいなどとは思えずにいて、葬儀の席に現れた千春の両親が引き取ることを申し出たとき、ただ何となく承諾した。



「ただいま」

仕事を終えて部屋に帰る。

勿論のこと返事はなく、耳に痛い静けさだけが毎日僕を出迎えた。


居間に入った僕の目に大きな窓が映り込む。在りし日の千春は窓辺が好きで、天気のいい日は日向に座り外を眺めて過ごしていたが、今その窓は電灯の下、僕一人を映して暗い。


二つの日常の大きな落差に呆然としていた僕の鼓動は、その時いきなり鼻を襲った花の香りに跳ね上がった。


カーテンをそっと引き開ける。やはり窓は閉まったままで、そこから見える梅の枝にも蕾の兆しは見られない。しかしそれは間違いなく、去年千春と親しんだ梅の花の香りであった。


前にも同じことがあったな、そんなことを思い出し、やりきれない思いでカーテンを閉めた。洗剤の匂いと彼女は言った。あれから洗剤は変えていない。苦笑いし、振り返る。


死んだ彼女がそこに居た。


目には見えない香りの気配。何度窓辺に見ただろう、笑みを浮かべて空を仰いだ彼女の印象そのままに、そこだけ春を思わせる香りの気配が立っていた。


よろめきながら近付く度に香りは益々精度を増した。


手にこそ触れなかったが、鼻に髪の温みを感じ、思わず閉じた瞼の裏で、千春は僕の首を抱くと「おかえりなさい」と言って笑った。

続く。明日6時に公開します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ