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陽光溢れたその部屋を今は月が冷たく照らし、灰色の光の脚を壁際に置いたガラス瓶まで伸ばしている。瓶を通った月の光は金に凝って床に流れた。
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梅雨明けの頃には新生活にも慣れが出て、幽霊の噂は噂のままで笑い話に変わっていった。
千春はつわりが済むが早いか、大家の許可を得て梅の実を集め、梅酒作りに精を出した。
固い産毛の生えた実を籠から取っては布で吹き、ヘタを楊枝で抉り出す。甘酸っぱい初夏の香りを彼女は何より喜んで、実を取り上げては匂いを嗅いだ。
ぼとん、ぼとんと青梅が瓶の中へと落ちていく。氷砂糖と交互に重ね焼酎で満たし蓋をして、千春はちらりと僕に笑うと「来年のお楽しみ」と言い置いたなり瓶をどこかへ遣ってしまった。
それを戸棚の奥に見つけたのは、荷造りを半ば終えた夜、部屋に住み着く香りの帯が隠し場所を教えたからだ。
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その香りに気が付いたのは、熟して落ちた梅の実が土にまみれて腐る頃、夕立を吹き抜けた風の中に春の香りを嗅いだ日だった。
ちょっと意外に思った僕は香水でも付けたのかと千春に聞いた。彼女は洗濯物を畳む手を止め、覚えがないと首を傾げた。洗濯物に鼻を埋めて、洗剤の香りだろうと言われてみればそんなものかと僕も思った。
風通しの良い部屋の中を滞りなく季節が流れ、落ち葉が風に遊んだある日、僕の仕事の留守中に、激痛に襲われた千春は救急車で搬送された。
病院に駆けつけた僕が見たのは、ケースの向こうの小さな赤子と冷たい千春の亡骸だった。
赤ん坊は女の子だった。千春と引き換えに生まれ出た命を僕は憎みこそしなかったが、かわいいなどとは思えずにいて、葬儀の席に現れた千春の両親が引き取ることを申し出たとき、ただ何となく承諾した。
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「ただいま」
仕事を終えて部屋に帰る。
勿論のこと返事はなく、耳に痛い静けさだけが毎日僕を出迎えた。
居間に入った僕の目に大きな窓が映り込む。在りし日の千春は窓辺が好きで、天気のいい日は日向に座り外を眺めて過ごしていたが、今その窓は電灯の下、僕一人を映して暗い。
二つの日常の大きな落差に呆然としていた僕の鼓動は、その時いきなり鼻を襲った花の香りに跳ね上がった。
カーテンをそっと引き開ける。やはり窓は閉まったままで、そこから見える梅の枝にも蕾の兆しは見られない。しかしそれは間違いなく、去年千春と親しんだ梅の花の香りであった。
前にも同じことがあったな、そんなことを思い出し、やりきれない思いでカーテンを閉めた。洗剤の匂いと彼女は言った。あれから洗剤は変えていない。苦笑いし、振り返る。
死んだ彼女がそこに居た。
目には見えない香りの気配。何度窓辺に見ただろう、笑みを浮かべて空を仰いだ彼女の印象そのままに、そこだけ春を思わせる香りの気配が立っていた。
よろめきながら近付く度に香りは益々精度を増した。
手にこそ触れなかったが、鼻に髪の温みを感じ、思わず閉じた瞼の裏で、千春は僕の首を抱くと「おかえりなさい」と言って笑った。
続く。明日6時に公開します。