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春の夜の闇はあやなし梅の花
色こそ見えね香やは隠るる
ー凡河内 躬恒、『古今集』41
窓越しに見上げる梅の花は闇を背景に雪のように輝き、酒にかすんだ僕の目には引っ越して来た日と同じに見えた。伽藍堂の室内もそっくり同じで、違いといえば部屋に散らかる大量の空き缶くらいだろうか。
雲の向こうのおぼろな月が缶の林を照らしている。生活音の絶えた真夜中、梅見の酒も乙なもので、それを言い訳にして僕はまた新しいビールを開けた。
ただ一つだけわだかまる、大きな違いを忘れるために。
*
千春とここに越して来て一年が経つ。
勘当同然に家を出て、僅かばかりの収入で何とかしようとしていた僕たちは、一日不動産屋を巡った挙句厳しい現実に直面し、疲労と失望で沈んでいた。
それを見かねたのだろう、最後に訪ねた不動産屋がいかにもしぶしぶ紹介したのが、古いアパートの一階にあるこの小さな角部屋だった。
ドアを開けた途端、こぼれんばかりに花を咲かせた梅の古木が目に飛び込んだ。春霞の空高く枝を真っ直ぐ差し出した、艶やかな姿に打たれて僕はその場に立ち尽くし、隣で千春は今日初めての明るい顔を見せて笑った。
満開に咲いた梅の花は、長く暗い冬を経て今ようやく春を迎えた僕たちを祝福するようで、ここから始まる未来なら、千春と生まれる子供と歩む、ささやかながら幸せなものとなる筈だった。
しかし諸々の要件を考慮に入れても破格の家賃だったので、何となく不審に思った僕は、内見に乗り出す千春に代わり不動産屋に理由を尋いた。
「何でも無い」と彼は言ったが、答える目が妙に泳いだ。それを僕は見逃さず、畳み掛けるように問い詰めると、不動産屋はためらいながら眉をひそめてこう付け加えた。
「詳しいことは知りませんがね、実はこの部屋、幽霊が出るという噂があるんです」
窓辺の千春が鼻で笑った。彼女はいつでも強く明るく、気楽な感じを僕に与える。僕は不動産屋から目を離し、千春の方に目をやった。
窓越しに花を見ていた千春は、思い立ったように鍵を外すと、そこから庭に降りられる、大きな窓を全開にした。
日差しが染めた彼女の髪を風が優しく梳いていく。目を閉じて楽しんでいる花の香りは玄関先まで吹き寄せてきて、同じ香りに僕も浸った。
一通り中を見せた後、「よろしいのですか」と聞かれたので、僕は書類を受け取って躊躇なくペンを走らせた。記入を済ませて彼に手渡し、千春と並んで窓辺に立つ。
風に舞った白い花弁が足元の床にふわりと落ちた。「名残り雪ね」と千春は笑い、手で一つだけ捕えた花を軽く吹いて空に飛ばした。
背後でドアが静かに閉じた。早足な靴音が廊下に響き、その逃げるような足取りがおかしくて、顔を見合わせて僕らは笑った。
四話に分けて投稿します。続きは明日6時に。