プロローグ
プロローグ
「はっはっ、は――――」
私は森を掻き分けながらひた走る――。
長い黒髪が汗で張り付いて気持ち悪いけど、足も手も止めている暇はない。
追手が消えた気配はない。
私は今、追われていた。
私は異能を操る魔人である。
異能は、灰の神が魔人に与えた力で、私の場合は触れたものを何であれ『灰』か『塵』に変え、消し去ることができる。
私たち魔人は人間と戦争をやっている。
私の役割は、魔界に建てられた人間の砦を『消し』破壊することだった。
その後の戦闘は、仲間達が行う手はずとなっている――。
戦争なのだから、敵がいるのは当然だろう。
その敵が目ざとくこちらの存在に気がついた、それだけだ。
相手は普通の兵士――板金鎧や槍や剣で武装した者――とは違い、手には何も持っておらず、鎧も着ず軽装だった。――恐らく青のローブを着たあれは、人間で言う所の神殿の聖戦士であろう。つまり、特別に訓練され選ばれた戦士ということだ。
酷いものに狙われた。小柄なその人物は、羽が付いたように駆けてくる。
反面、こちらは転がり落ちる小動物のように無残に走り回っていた。しかし、私とて二本しかない足がある、使い方には自信があるはずだった。
ただ、相手が猛禽の類だったというだけの話だ。翼の生えた空の王には如何な動物とて地上にいる限り逃げられないだろう。
そうしているうちに鬱蒼とした森に入っていた。両手で掻き分けた草木は一瞬で灰に変わり、消えていく。
相手の姿は見えなくなったが、追いかけてくる気配はする。いや、森の中こそ猛禽の本領である。それこそ空を飛んでいても不思議ではない。
私は、手近な大木を手で触れて消していく。触れたものを一度に全て消す消し方より、今のように部分的に『切断』するほうが難しいのだが、そんなことも言ってられない。
切断させた木はメキメキと音を立てて倒れた。
「これで――」
一息つく、移動の痕跡は消えただろうし、運が良ければ逃げきれるかもしれない。念には念を入れて、進行方向も変える。
しかし、その企みは一瞬にして潰えた。
あらぬ方向から風切り音とともに投げつけられる投槍、わたしはそれを左手にぶつけることで『消して』しまった。
「――しまった!」
今の投槍は、わざと防がせるためのものだ。射手はその『手応え』でこちらの位置を探ってくるのだろう。私は、まんまとそれに引っかかってしまった。
相手がこちらに真っ直ぐ向かってくるのが分かる。私の小細工は全てこれで無駄に終わってしまったということだ。
私は再び森を駆ける。邪魔になる茂みを両手で掻き消し、灰に変えながら。
結局最初から最後まで彼は狩人で、私は獲物だった。
森が開けた場所に出て『しまった』と思った時には遅かった。もう足が動かないほど疲れていたし、まだ、追跡者は私の後ろをピタリと付けてきている。
そして、私が疲れて反撃できなくなるのを待っていたかのように――実際そうなのだろう――森から飛び出し武器を投げつける。
武器の名前はボーラ。狩猟用の道具で、相手の足に投げつけ、命中させる事によって動きを止めさせるものだ。
まさに、今の私にうってつけの武器だ。私は堪らずそれを足に受け、転倒する。思わず習慣で腕を地面から庇ってしまう。
彼は強引に俯せになった私を仰向けに起こし、馬乗りになる。
そして彼は虚空から短剣を一振り取り出し、私に告げた。
「塵芥の少女だな?」
彼の姿は――。
いや、それよりも塵芥の少女――それは人間が私を呼ぶ時の名前なのだろう。こう見えても私の悪名は高いほうだ、破壊した砦は十や二十ではきかないだろう。
そして、人間も防衛の拠点を作っては壊されしていては堪らないだろう。それは私も最重要殺害対象として認識されてもおかしくはない話である。
「――ええ」
目の前の人物を見ながら、上げようと思えば上げられるはずの腕に苦心する。
「何故、反撃しない? 噂通りの人物なら人間を一人消すくらい、当たり前にこなす筈だ」
たしかに私にはそれができた、今彼と私の体は密着していたし、腕を振り回せば当てるくらいのことは容易にできるだろう。当たれば彼の身体は塵となり、この世から消え去ってしまうだろう。――もっとも、その前に私の腕は彼の短剣により切断されているだろうけど。
「それが出来るのなら、もうやってるわ……」
だが、私の腕は動かない。動かない理由がある。
――私に人は殺せない、殺すだけの勇気がない。それに、目の前の彼は――。
「付いてくるのなら、教皇命令があるし、君を教皇の元まで連行したい。抵抗しないのなら案内するよ、命の保証はできないけれど」
彼が生真面目な正確で嘘がつけないなどということは、顔を見ただけでも分かる。しかし、連行はするが命の保証はしないとは馬鹿馬鹿しい律儀さだ。
「それは、断るわ。私にも魔人の矜持がある」
彼は、顔を顰めつつも、再度通告する。
「――ならば、君を安全に連れて行く手段はない。この場で始末して死体を持ち帰ることになる。――もう一度聞く、反撃しないのか?」
ああ、彼の人生の中にはこの状況で反撃しない相手はいなかったのだろう。だが私にはどうしようもない、なぜなら彼は――。
「貴方は、子供だから、殺せない」
そう、彼はまだ少年だった。年の頃なら十歳より上程度だろうか、蜂蜜よりも金色の髪に真っ直ぐ見つめてくる青い瞳が眩しい。
その彼が、武器を握っているのが狂おしい。そして、そんな彼を殺せよう筈がない。悔しいが、本当に悔しいが、それが死に瀕した私の決断だった。
彼は短剣を持っている手ではなく、左手をゆっくりと動かして、私の頬を撫でた。それはひんやりと、冷たかった。
「なんで、涙を流している……?」
どうやら、私は泣いているらしかった。それもそうだ、これだけの激情に駆られれば、涙の一つも流すだろう。
それを見た彼は、立ち上がった。
「分かった、命令が変わった。僕は君を助けよう」
彼は、そう宣言する。そして手を差し伸べる。
私はその手を取らず、自力で立ち上がる。理由は簡単なもので、手を取ってしまえば彼を消し去ってしまうからだった。どう気が変わったのかは分からないが、彼は私を助けると、そう言った。この短いやりとりでも分かる。彼は嘘をつかないだろう。
――彼は真っ直ぐな人間だ、目を見ただけでも分かる。私は、彼の言葉を信じようと心から思った。
あの涙が、私の運命を変えるとは、私自身この時は欠片も思っていなかった。




