水玉はじけて輝くひかり―4―
一体何がしたいのか、と考えたのはなにも修二だけではなかった。何の目的もなく、ただ感情的になって飛び出した佳帆もそれは同じだった。
闇雲に走り、何処へ行くかも考えず、佳帆は逃げた。あの部屋にいることが耐えられなかった。嫌な考えを持っている自分に耐えられなかった。何より、悲しそうな顔の修二を見ることができなかった。だから逃げた。
いくら逃げたって何も変わりはしないと、わかっているのに佳帆の足は止まらない。
蝉の声が聞こえる。太陽は雲に隠れたとは言え、夏の空気も容赦ない。汗が滝のように流れる。でもちょっとでもあの場所から、修二から逃げたくて、佳帆は走る。
やがて足に限界がきた。肺も暑さが充満して呼吸が苦しい。肩で息をしながら、佳帆は見回す。どこまで走ったのかと。
佳帆は眼を疑った。足が痙ってしまうのではないかと思うほど走ったはずなのに、ここはカラオケボックスからさほど離れていない、修二の自宅だった。そして、その自宅の前には、修二がいる。無我夢中で滅茶苦茶に走って、最後にここにたどり着いてしまったのだろう。よく見れば修二も汗だくで肩で息をしている。彼も必死になってさがしていたのだろうと、佳帆は申し訳ないと思う反面喜んだ。
――あんな風に飛び出したのに心配して追って来てくれるんだ、と。
「お前、一体何がしたいわけ?」
佳帆は心が黒くなっていくのを感じた。心配したとか、そういう言葉を期待していたのだ。
でも修二の問いは最もだと思う。結局飛び出した理由を語らない限り、前には進めない。
修二の部屋を見上げる。そこにはたくさんの光を宿した水晶が、在った。
「別に」
「別にってそんな訳無いだろ、なんか変だぞ」
修二は責めているつもりはない。純粋に心配の気持ちから言っている。だが彼の生来のぶっきらぼう加減が今回はうまく作用しなかった、佳帆の心がどんどん黒く染まっていく。
「じゃあ修二君の部屋に行きたい」
「はぁ? 会話繋がってないんだけど」
「行きたい」
このまま感情に任せて行動してはダメだ、と佳帆は心で苦悩していた。が、体が言う事を聞かない。口からは思っていることと違う言葉が出てきてしまう。
私はあの部屋に行って何をする気だ? 心が漆黒に支配されていく。
なおもぶつぶつ言いながら自宅へと招き入れる修二に無言で従いながら、佳帆も修二宅へあがる。
玄関から見上げた空は、どんよりと暗くなっており、先程まで聞こえていた蝉の声はいつの間にか聞こえなくなっており、ついに――
雨が降り始めた。
※
「ねえ、私たち、付き合い始めてどれくらい?」
部屋に入るなり、佳帆は修二に問いかける。
突然の質問に顔を赤らめはぐらかそうとする修二。だが有無を言わさない佳帆の空気に飲まれ、おずおずと答える。
「二年の、今年の春からだから、半年も過ぎてないな」
真っ直ぐな、修二の瞳。その瞳には佳帆の姿が映っている。
佳帆は思う。なんて暗い顔をしているのだろう、瞳の中の神之木佳帆は、と。
「短いけど、それでもいっぱい思い出はあるよね」
無表情のまま口を動かす、瞳の佳帆。佳帆自身はどこか遠くでその風景を観察しているかのような、他人事のように感じていた。
「ああそうだな、花見もしたし、山登りもした。お前が赤点とって勉強合宿したり、色々な」
沢山の楽しい記憶が修二の頭の中を巡る。中には辛いことや悲しいこともあったが、総じて楽しかったと言えるような、そんな宝石のような思い出たち。
瞳の中の佳帆の目が、窓辺の水晶に動いた。
「このお部屋にも、沢山の思い出が詰まってるよね」
「ん、だな」
佳帆は唇を噛んだ。
「それって、私との思い出だけ?」
佳帆が動き出す、窓辺に向かって。修二は何も言えず、佳帆の背を追った。
窓を開けるとまだ降り出したばかりの雨が部屋に入ってきた。佳帆の手元には、水晶。
光をたくさん浴びて、水晶自体が輝きを放っているかのような、神秘性を宿している。
でもこれは……
「わかってるよ、私との思い出だけなはずない。茜さんや、浩平くんや……前の、彼女とか。そんなのわかってる、わかってるよ!」
この部屋に、いらないモノ。
窓の下から、石が割れるような音が響いた。でもそれも雨音にかき消され、もう何も聞こえない。
「お前……なにしてんだよ!」
修二は佳帆を突き飛ばし、窓から身を乗り出して窓下を確認した。そこには、無残にも割れた、水晶の残骸。
雨が強くなって来る。
「さっき。俺大事なものだって、言ったよな? お前、一体何してんだよ、なんで壊してんだよ!」
「私にとっては大事じゃない!」
怒りに震える修二と、寂しさに震える佳帆。両者はともに、雨に濡れていた。
「言うに事欠いてそれか、ふざけるなよ!」
「私真剣だもん!」
雨とも涙とも知れない雫をこぼし、佳帆は修二に訴える。だが修二の情には訴えきれなかった。
「もういい。お前帰れ。これ以上話しても無駄だわ」
窓を閉め小さな、でも確かな怒気を込めて修二が呟く。その瞳にはもう、神之木佳帆の姿は映っていない。佳帆にはそれがわかった。
「修二君の、馬鹿ぁ!」
部屋を飛び出し、家を飛び出す佳帆。追う気力も失せた修二は壁を背に、部屋に腰を下ろした。そのまま髪を掻きむしる。
「馬鹿って、子供か……」
そのまま頭を抱える修二。混乱の極みにいるのは疑いようもなく、佳帆の行動は修二にとって常軌を逸したものだった。大事なものと、聞いた上で人の物を壊すなんて、異常以外のなにものでもない。
私にとっては大事じゃない! 不意に佳帆の声が脳裏に蘇る。
それって、私との思い出だけ? 寂しげな表情で、見つめ返してくる、佳帆の姿。
修二君の、馬鹿ぁ! 涙を流し、必死で訴えていた事。
「……あーくそ! 馬鹿はお前だろうが!」
修二は立ち上がり、部屋を飛び出す。がすぐに思い返して戻ってきた。浮かない表情で、勉強机の前に立ち、おもむろに引き出しを開ける。
そこには可愛らしい色の封筒が、いくつかあった。
「これでこれとも……お別れだな」
その封筒をズボンのポケットにねじ込み、再び走り出す修二。
玄関を出ると外は土砂降りで、先が見えないほど街が黒く染まっている。だが止まってはいられない。修二は一瞬の躊躇も見せず既に姿の見えない佳帆の背を追った。
※
佳帆は自分の犯した過ちの重大性を理解していた。
水晶を落とすとき、その行為はどこか他人事のようだったそれまでとは違い、はっきりと自分の意思で行ったと断言できる。
真っ暗な空を見上げた。カフェを出たとき陽炎の一人が言ったように、今は雨が降っている。心うちを表しているかのような、土砂降り。
雨が降っていて良かったと佳帆は思う。もし雨が降っていなかったら、今頃大粒の涙を流しながら歩いていたことだろう。全身ずぶ濡れで、汗も涙も雨と一緒に流れ落ちていく。
「どんだけ走らせれば気が済むんだお前は! 話がある!」
雨の轟音の中で、修二の叫び声が耳に届く。佳帆が振り返ると、そこには傘もささずに走ってきた修二の姿があった。
――なんで追ってくるの? あんなにひどいことして、許されるはずがない。怒られるのは怖くないといえば嘘になる。でもそれ以上に、修二の悲しい顔を見るのが佳帆には何よりも辛かった。
「無駄じゃなかったの、私と話すの」
気分が最低状態のためか、普段言わない憎まれ口を叩く佳帆。全身ずぶ濡れの修二は呆れた顔をしつつ、
「それが人の物を壊した奴の態度か」
と言った。それはそうだろう、憎まれ口を叩いていい立場ではない。でも言わずにはいられない。
「だってあれは――」
「前の彼女にもらったものだから、そう言いたいのか?」
そう言いたい。だが口に出すのはもっと嫌だと佳帆は口を閉じる。修二がゆっくりと佳帆とのの距離を詰めてきた。修二の顔をまともに見られない佳帆は、水たまりを見つめた。
「そうだとしても、壊す必要あったのかよ? 俺は大事なものだといったぞ」
修二の言葉には刺がある。水晶を壊した事、怒らない方がおかしい。
しかし、佳帆はそんな言葉は聞きたくない。それはつまり、前の彼女の方が、大事だと言っているのと同義なのだから。
「お前のやったこと、俺ちょっと許せそうにない」
聞きたくない。
「泣いたって変わらねえぞ」
聞きたくない。
「それで壊れた水晶が戻るとでも――」
「聞きたくない、そんな話聞きたくない! 嫌だったんだもん。前の彼女とか、その人に貰った物とか、嫌だったんだもん! 未だにそんなものが修二君の家にあるなんて、信じたくなかった! 信じたくなかったよ! でも藤咲君の話聞いて頭真っ白になって……水晶どうにかしたいって! それしか考えれなかった……だってそんなの耐えられない。前の彼女にもらったものが大事だなんて、私耐えられないよ」
堰を切ったかのような慟哭。修二は初めて佳帆の心うちを垣間見た気がした。思い込みは激しいが、いつも笑顔を絶やさない優しさで溢れたような、そんな性格だと今の今まで勘違いしていた。違った。そんな天女のような少女ではなかった。もっとごく普通の、身近な存在だった。
だから、言わなくてはならない。その水晶についてと、今も隠していること。そして、自分の想いを。
「で、お前は浩平の冗談を真に受けて、壊した訳だ、当の本人には確認せずに」
「でも大事だって言った!」
佳帆の顔がぐしゃくしゃに濡れている。修二にはそれがすべて、佳帆の涙に見えた。
「……あぁ大事だったさ。占いが好きなお前にプレゼントしようと思って必死でバイトして買った水晶だったからな」
その言葉を告げた瞬間、佳帆の顔から悲しみの色が消えた。無表情、といえば簡単だが、色んな思いが混じりあったかのような複雑な面持ち。
「お前の早とちりだよ、全部。前の彼女からのものなんて、今俺の部屋に一つもない」
修二はズボンのポケットが熱くなったような気がした。
「そんな、じゃあ私のやったことって……」
「それこそ、無駄だったな」
しまったと思うより先に、修二の下から駆け出す佳帆。咄嗟に腕を掴んでなければ、そのまま見失っていたかもしれない。
「待てこら! 走るな!」
「離して!」
「逃げないなら離す! まだ俺の話の途中だ!」
「お願い離して!」
「いいから聞けって!」
「なにを!? 私修二君の大切なもの壊したんだよ! しかも勘違いで! 修二君に嫌われても水晶どうにかしたいって思ったのに、勘違いって! 離して、離してよ!」
癇癪気味に騒ぎ立てる佳帆。これでは埒があかない。修二の頭にこの癇癪を収める方法は一つしか思い浮かばず、ためらわずそれを実行する。
「あぁもう黙れって!」
佳帆の腕を強引に引き、力一杯抱きしめる。
佳帆の顔は見えないが、騒いでいないところを見ると、面食らったのだろう。
修二も修二で、心臓がバクバクいっているのだが。
「嫌、離して」
小さい声で、それほど嫌がった様子もなく佳帆が修二の耳元で呟く。
「離したら、またうだうだ言いそうだから離してやらん!」
力一杯抱きしめられているのであまり動けない佳帆だが、横目でちらりと修二の耳を見ると、真っ赤になっていた。
「恥ずかしいよ」
「うるせえ黙れ」
素直に黙る。雨が降っているが、今はまだ夏。こうして抱き合うのはまだ少し暑い。
「暑い」
そう言って、佳帆は修二の背中に腕を回す。
「誰のせいだと思ってるんだ」
修二は体を震わせて、より一層強く抱きしめた。
「私」
「だったら少しぐらい我慢して抱かれてろ、アホめ」
照れ隠しだろうか、修二の口調がいつになく荒い。
「口、悪くなってる」
それが佳帆にはたまらなく嬉しい。
「生まれつきだ、ほっとけ」
「はい……」
佳帆は瞼を閉じた。愛しい人の温もりに溺れるために。愛しい人の存在に寄り添うために。
雨は今も降り続いている。けど、氷雨ではなく、暖かな雨だと佳帆は感じた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
「だいぶ」
「離しても、逃げないか?」
「逃げるから、このまま」
ちっと舌打ちの音。
「恥ずかしいなんて嘘だろ」
「嘘じゃあ、ないよ?」
佳帆はあまりない力を腕に込める。それに反応して、修二も力を入れて抱きしめ返してきた。体の密着した部分から修二の鼓動の音が聞こえる。
「そのままでいいから聞け。……あのな、確かにお前が壊した水晶は元に戻らない。勘違いとは言え、お前は俺の想いのこもった水晶を壊した」
「うん」
「でも壊す前も壊したあとも、一番傷ついたのはお前だ」
修二は囁く。佳帆は首を振った。
「違う、修二君だよ」
「うるせえ、そうなんだよ、そう思っとけ」
――あぁ、なんて。
「わかった」
「だからその、なんだ。悪いなって。そこまで俺を思ってくれていたのに、勘違いとか、そういうのでお前を不安にさせてしまって……ごめんな」
――なんて優しいのだろう、この人は。
実質被害を被ったのは全て修二だというのに、なのにこんな優しい声で私を気遣ってくれている、優しく抱いてくれている。
この人が彼氏で、本当によかったと、佳帆は心から思った。
「謝るのは私のほうだよ。修二君」
もうこのまま腕がなくなってもいい。修二にこの体中に渦巻く想いを全て伝えることができるのなら、それでもいいと、ありったけの力で佳帆は修二を抱きしめた。
修二はその気持ちを確かに受け取っていた。だが逆に、佳帆の体を引き離す。
「あと、お前に隠していたことが一つだけある」
そういうと修二はポケットから濡れた封筒を取り出した。そこには可愛らしい文字で修二の名前と、聞いたこともない女性の名前が書いてあった。
「これ、前の彼女の手紙。お前に隠して持ってた」
佳帆は言葉が出なかった。勘違いで壊したものは修二の贈り物で、それ以外に前の彼女からもらったものがあの部屋にあったという真実に、佳帆は忘れていた涙が溢れてくるのを感じた。
「なんで今言うの? 言わなくたっていいのに――」
涙が零れそうになった瞬間に、修二がびりびりとその手紙を破り始めた。
驚いた佳帆は思わず静止をかけたが、修二の手は止まらない。
「ちょっと! 大事なものじゃないの?」
細かく破ったところで、修二はその破片を空に向かって投げた。当然雨に濡れており、綺麗に舞わずぼとぼとと落ちる想いの欠片たち。
「ああ大事だな、こんな手紙より、お前がな」
そう言ってまた修二が佳帆を強く抱きしめた。意味が分からず困惑する佳帆にに、修二は小さな声で、言う。それは誰でもない、佳帆にだけと届けたい言葉だから。
「今は、お前がはっきり見える。……いや違うな、お前しか見えない」
「……修二君」
「手紙も大事だったが、そんなことよりお前の方が大事で、泣かれる方が嫌な訳で。手紙も水晶もどうでもよくないけど、えっと、なんだその――」
佳帆は修二の背中に回した腕に優しく力を込める。そして少し体を離して、修二の顔見た。
悲しい顔でも、優しい顔でもない、困ったような顔。佳帆にはそれが想像以上に愛おしく見えた。
「私の事、好き?」
「いや、ちが――」
恥ずかしそうに目を背ける修二の顔を追う。すぐに目が合う。
「嫌い?」
「そんな訳――」
「じゃあ好きって言って」
いつの間にか、雨の音が小さくなっている。
いつの間にか、遠くから蝉の合唱が大きく聞こえてきていた。
そのどれよりも大きく小さく。彼の甘い甘い声は佳帆の心に響いた。
「……好き、だよ」
額を合わせ、吐息のかかる距離で。彼はそう呟いた。
「え、なんて? 聞こえなかったからもう一回!」
悪戯っぽく笑うと、顔を赤らめて、そっぽを向く修二。
「あー! うるせえうるせえ! 二度と言うか畜生め!」
その顔があまりにおかしかったので、佳帆は声を上げて笑う。
「とにかく、俺はお前が大事なんだ! 覚えとけ!」
「……はい、分かりました!」
今日幾度目かわからない涙を拭きつつ、元気に応じる佳帆。
「それと、水晶の件、許す気ないからな」
不意に真面目な顔に戻り、修二がそう告げる。佳帆は少し落ち込んだ様子でそれに答えた。
「そりゃ、そうだよね、当たり前だよね」
「一生横にいるってんなら」
顔を上げる佳帆。修二の顔越しに、青空が見えた。
雨が上がっている。
「許してやるよ」
まるで、自分の心情を表したかのような空模様に、佳帆は苦笑した。
今日は散々な日だったと佳帆は振り返って思う。勘違いに始まって、カラオケでも、修二の家でもろくなことはなかった。でも最後に。とても幸せなことが連続した。
きっと今日のことは一生忘れないだろう。どんなに時を経ても、風化することのない、素敵な思い出として。
だから、佳帆は答えた。
大きな声で、はっきりと。
「不束者ですが、よろしくお願いします!」
ちょっと長くなりましたね、すみません。




