悪女・婚約破棄。アリスのレゼンデートル
ルシアンと婚約を結んだことがそもそもの間違いであったと人々は囁き合った。
だが《婚約破棄のお手本》を作り上げてみせたアリス・イリスに対しては、それは侮辱というものだった。
ルシアン・ベルヴィルとはいわゆる政略結婚を目的として婚約を結んだ。
しかしルシアンは一つの家の名を背負える器量ではなく、お家の責そっちのけで浮世から足の離れた責任のない色恋に意識を傾ける男であった。その癖はアリスと婚約を結んでも直らなかった。
ルシアンはカミーユという令嬢を意中に置いており、そしてカミーユは、ある意味では貴族娘の鏡ともいえる、とんでもない浪費家であった。
湯水のように浪費する贅沢三昧の財布は親とルシアンである、ルシアンはベルヴィル家の財産を食い潰すように貢いでいた。アリスと婚約を結んだその後も、崩れて液状化を起こしたエクレアよろしくの脳髄と直結した耳には、誰の声も届かなかった。
「おお、愛しのカミーユ! ああぁ、夜明けの透明な光はキミの心を照らすためにあり、昼の煌々はキミの見目を照らすため、夜の帳の月明りはまさに、キミの髪を照らし輝かせるためにあるのだろう……! そう、世界は、キミと、そしてキミに寄り添うボクのためにあり! そしてボクは日中問わずにそのことを世界に唄い続けるだろう」
死ね。
ベルヴィル家がイリス家を政略結婚の番いとして選ぶに、イリス家が断れなかったのは、祖父の代までマトモであったベルヴィル家への大変な恩義ゆえだった。イリス家は残念ながら、財産的にも影響力の面でも、特別に大きな力は持ち得ない……。立場というものが、この悪夢のような、名目上における《政略》を実現させてしまった。
「あら、アリスさん、ご機嫌麗しゅう。カミーユはあなたとも仲良くしたく存じますわ。ぜひベルヴィル家の繁栄に尽くせるよう、頑張ってくださいね?」
「ああ、カミーユ。ボクは一番の友人として、キミのその心遣いを嬉しく思うよ。キミはいつも、他人の先々にまで、温かい慮りを寄せてくれるね……!」
普通の令嬢であれば、ここで絶望するか、政略結婚ではあるが縁を切るなりするだろう。
しかしアリスは違った、そのどちらの選択にも背を向けた。
アリスという、女の口元には。
いつだって、まるで【悪女】のような笑みが浮いていた。
アリスはルシアンの救いようのない素行に一つだけため息をつくと、婚約を結んで早々、お家の責を全うすることに全てを傾け始めた。それはベルヴィル家の発展のための奮迅に他ならず、つまりルシアンを含む傍目からはルシアンのための奮迅とも取れる姿である。
アリスが妻の立場で表立つのにルシアンは事もあろうに愚痴をぶつぶつとあげつらったが、アリスのあげる利得が自身に恵みをもたらすと見るや、その不平不満も、少なくとも表向きには引っ込めた。
さて、アリスが注目したのは、近辺の流通においてベルヴィル家が担える、仲介役の力であった。最終的には近辺といわず近隣一帯に影響力を示すことを目指し、『物流の流動化を担う、一役を買うこと』を主目標に据えて、卓越したその力を振るった。
アリスの尽力は尋常ではなかった。
一分一秒も削る……。
己の精神と身体すら顧みない、まるで、……破滅へ堕ちてゆくような働き方である。
しかし、そうした働きは必ず一定の成果をあげる。
尋常ならざる尽力、その甲斐あって。
劇的に、突然、全てが変わったわけではない。
だがしかし、徐々に、徐々に――、確実な向上を辿って、ベルヴィル家の担える責任能力は大きくなっていった。
そして転機が訪れる。この先の時代で一般化する『仮想財産制度』の原型となる、家名の影響力を担保とする信用取引形式が大きな評価を得たのだ。アリスの元から発信された先駆け的な試みはたちまち日の目を浴びて、その評価と共に、ベルヴィル家の名は広く知れ渡った。もはやベルヴィル家の立場は確立されたと言っていい。
――さて、精神と身体すら顧みないアリスの働きにおける一方での、ルシアンの素行はといえば、それは悪そのものであった。
彼からすれば湧いて出てきた財産を得て、彼は『金だけ唸るほど持った貴族を絵に描いたそのもの』の姿で遊び歩いた。
カミーユと共に、のし上がったベルヴィル家の金を湯水のごとくに使って、放蕩に耽り、貢ぎ、夜ごとと言わず昼間もまた、この世は我が世と札をばら撒き続け、散財の限りを尽くす。――しかしアリスはベルヴィル家がもたらす家の金で、ルシアンが遊び歩くのを止めなかった。一度も。
それを止める暇もなく働き通していたともいえる。そうして働く姿はたいへんに評価されたが、しかしアリスのそうした働きは長くはもたないだろう、というのが世間の正直な見かたであった……。
だがしかし。
ある日。ルシアンのみならず、誰の目から見ても、あまりにも不意に――彼女が隠し持っていた断罪の剣は振り下ろされた。
「ルシアン。婚約破棄を、しましょう」
自らが倒れるよりも先に――というよりも、かねがね構想していた未来図であったのだろう、限界を迎えるその日よりも先んじて、アリスはあまりにも早い婚約破棄の宣言を、自ら行った。
愚かなルシアン。
彼はあろうことか、それを了承した。
確かに、心を満たす金、そしてお家の立場はもう財産として十二分にある。アリスの座っていた場所、つまり名目だけではない当主の座まで手に入るのであれば――――愚かなルシアンにとって、それは、利しかない話に聞こえてしまったのだ。
しかし。
それらの財産は、お家の立場を“確立”させるものでもなければ、ましてや世の全てを叶えうる金銀財宝でもなくて――――どころか実を明かせば、それは中身の詰まった宝箱ですらなかったのだった。
いや、長たらしく言葉をこねくり回す必要はない。
当たり前のことが起こった。
ルシアンの手腕では、影響力の増大したベルヴィル家の責任能力を欠片も全うできず、あっと言う間に信用能力は地に堕ちベルヴィル家を頼った皆は四散していった。
その婚約破棄の話が社交界に流れた、その途端にベルヴィル家との流通交渉をやめた貴族家もあったくらいだ、支えはたった一秒も持たずにぐちゃぐちゃに折れ潰れて瓦礫と化した。
さて、では。
これまでベルヴィル家を頼っていた多くの者は、この機を迎えて、どのような機転を打ったのか。
そう、乗り換えるようにイリス家を頼る貴族、商家が続出した。
名目上の政略結婚がもたらす、影響力という元手がなければ叶わなかった到達点。
ベルヴィル家から立場と力をごっそり剥ぎ取った、イリス家が望めなかったはずの大きな力が舞い込んだ。
そして誰も目を逸らせない成果実績を掲げて切り盛りの立場に就いたアリスは、ベルヴィル家と比して正常に機能するイリス家皆々の協力を得て、身を破滅に追い込むような働きかたではなく、彼女自身が奮迅に報われる働きで敏腕を振るった。
そうして――崩壊の中でもまったく愚かなまま、「いくらかの交流相手がイリス家へ流れたところで、むしろ己の働きが減ったくらいで、ちょうどよかったくらいだ――」などと本気で考え、まるでなんでもないように薄っぺらい虚勢を張っていたルシアンが、膝をついてアリスに泣きつくまでに、時間はかからなかった。
だがもはや、何もかもが遅い。
そしてアリスは――泣きつくルシアンへ、凶悪な嘲笑いの笑みを浮 かべたのだった。
「ルシアン。あなたはこのたびの政略結婚、最終的に私の立場を確立させる試みにおいて、間違いなく果報者の働きを果たしました。フフ――。自分の目で見えていなかったから、心のどこかでは『誰からも見られていない』と私を侮ったあなたの愚考が、私を自由にした……! そしてあなたは知らなかった。私の性格は……そんなによろしくなくてよ? 私の存在証明のために一役を買ってくれてありがとう。もはや再び会うこともないでしょう。さようなら」
空へ飛び立った鳥を再び捕らえられる者はなかった。
こうしてアリスはルシアンの視界から羽ばたいていったわけだが――そのことがもたらす帰結は、ベルヴィル家の衰退に留まらなかった。
アリスのもとから広まりを見せた新たな信用取引では、家名の信用そのものを担保に取引を行うため、返済不能の負債が生じた場合、保有する財産の強制的な差し押さえが行われる取り決めとなっている。――すなわち、ベルヴィル家が放蕩の果てに積み上げた贅沢の数々は、その現物に至るまで、ことごとく没収される結末を迎えたということだ。
信用取引がもたらす影響力は近隣にまで及んでいた。ベルヴィル家の崩壊に伴い、信用取引に肯定的であった貴族家に属する令嬢の一人として、カミーユの手元にあったベルヴィル家を元手とする財産さえ、財産の差し押さえを免れなかった。晒し者同然……あまりの放蕩具合を浮き彫りにするこの度の無様は、社交の噂話にもあがった。――その末に待っていたのは、呆れと失望の果てに下された、実家からの勘当も当然とする処遇であったという。
存在証明。
あなたはこの言葉から、どのような貴方だけのイメージを思い抱いただろうか? 何にしても――――。
物事はやがて必ず、帰結すべき場所へと着地する。
この一連は、まさにそうした物語であった。
了。




