第十一話 第一発見者
教授が講義の終わりを告げると、教室の空気がふっと緩んだ。
一気にガヤガヤと学生たちの声が、雪崩のように押し寄せる。
その騒めきに紛れながら、ノートパソコンを閉じて参考書を鞄にしまう。
今日の講義だけでも提出が必要なレポートが三個も追加されてしまった。家に帰る前に、図書館で少しでも進めておかないと……なんて、ぼんやりと考える。
ぞろぞろと他の学生と共に講義室の扉を抜けた時、唐突に名前を呼ばれ、私は反射的にその方向へ顔を向けた。
「よかった。まだ、帰ってなかった……」
扉のすぐ横に、見覚えのある女性職員が立っていた。
学生支援課の――確か、相談対応の担当の人だ。何度か履修について相談をしたことがあったから、顔は覚えている。
しかし、そんな彼女が講義室までわざわざ来るなんて、何事だろう。まさか、後期の履修に何か不備でもあったとか……。
そんな不安が過る中、職員は口を開く。
「白井遥さん、ですよね? 探してたんです」
「……あ、はい。私です。あの……何か、ありましたか?」
職員は微笑んでいるけれど、その表情には別の感情が混ざっているように感じた。
「ええっと、大したことではないんですけど。ちょっと、確認したいことがあって……」
「確認ですか……?」
「ええ。とりあえず、支援課の相談室に来ていただいてもいいですか?」
「……は、はい」
“確認”という言葉の曖昧さが余計に胸をざわつかせる。
一体、何についての確認なのだろうか。
大学に入学してから真面目に講義も受けていたし、単位だって落としたことはなかった。問題行動だって起こしたことはないし、自分で言うのは少し恥ずかしいが、模範的な大学生の部類だと思う。
だからこそ、相談室に近付くにつれて、胃の辺りがじわじわと締め付けられるような不安に襲われた。
――身に覚えのないこと程、恐ろしいものはない。
相談室の前に着くと、職員が軽くノックをしてからドアを開けてくれた。
「白井さんをお連れしました」
職員はそう言いながら、私を室内へ促す。
小さな机と椅子が向かい合って置かれた、よくある相談室。
でも、その椅子には見知らぬ二人の若い男性が座っていた。
一人は黒髪で、どこか柔らかい雰囲気の人。
年齢は……私より少し上くらいだろうか。目鼻立ちがしっかりしていて、眉目秀麗。そして、非常に好青年に見える。
そして、もう一人。
……これは、ちょっと反則だ。
恐ろしく顔が整っている。
この大学にも、それなりに顔が整った人はいるけれど、それとは比較にならない程に桁違いだった。
長い睫毛に、幅の広い二重の瞳。鼻筋はすっと通っており、けれど凛々しさというよりも、どちらかと言えば幼いような顔立ち。でも、どこか艶やかで――とにもかくにも顔が良かった。
そんな二人の容姿から、芸能関係の人なのだろうかと、真っ先に頭に浮かんだ。けれど、自分との共通点が全く浮かばず、ただただその端正な顔立ちに、私は見惚れることしかできなかった。
「では、私は外でお待ちしてますので……」
職員の方が隣で頭を下げたところで、はっと我に返る。
私が何かを言う前に、彼女はそそくさと扉の外に出てしまった。せめて、この状況について説明してから出て行って欲しかった――というのは、後の祭りだ。
このよく分からない状況に取り残された私は、どうしてよいのか分からずに、その場に立ち尽くす。
そんな心情を察してくれたのかは分からないが、黒髪の人が優しげな声で言った。
「どうぞ、こちらに座ってください」
「……え、あ、はい」
私は促されるままに、彼らの向かいの椅子に腰を下ろす。
「突然お呼び立てしてしまって、申し訳ありません。まず最初に、自己紹介から……」
その声は落ち着いていて、こちらの緊張を解くような柔らかさがあった。
彼は胸ポケットから手帳を取り出し、こちらから見えるように軽く開いた。
「凪浜県警刑事部の栗花落と言います」
そう言うと、男は優しげに目を細める。
隣の男性も彼に続いて、ゆっくりとした仕草で手帳を取り出した。
「同じく、刑事部の御子神です。今日はあなたに少し、お話を伺いたくて来ました」
ふっと笑い掛けられたが、あまりにも整った顔の所為で、彼の顔を直視できなかった。変に緊張してしまう。
――って、緊張している場合ではなくて。
「け、警察の方なんですか……」
私は絞り出すように声を出す。
芸能関係者なのかな、なんて馬鹿なことを考えていた数秒前の自分を殴りたい。
「あ、あの、私……何かしましたか……?」
言葉を口に出す度に、変に声が震えた。
警察に話を伺われるようなことは、本当に身に覚えがない。
栗花落と名乗った黒髪の男性が、落ち着いた声でゆっくりと言った。
「安心してください。あなた自身が何かをしたわけではありません。ただ、確認したいことがありまして……お時間をいただきました」
「……は、はあ」
とりあえず、自分が何かをしでかしたわけではなさそうで安堵する。でも、“確認したいことがある”なんて言われたら心穏やかではいられない。
「先日、蓮原駅近くであった事件のことは御存じですか?」
「……え? ああ、えっと……北口の方で遺体が発見されたっていう……あれですか?」
ここ数ヶ月、大学内でも噂になっていたから、話は知っている。ただ、詳細については全く知らない。
「実は遺体の第一発見者の方が、”あなたの名前を名乗っていたんですよ”」
「はい?」
その言葉の意味を理解するまで数秒かかった。
「え、わ……わた、私ですか!? し、知らないです、そんなの! だって、あんな場所、滅多に行かないですし……そんな、第一発見者なんて、私……」
遺体なんて見たこともないし、見たいとも思わない。
何の話かさっぱり分からず、頭の中がぐわんと揺れた。
そんな私を宥めるように、栗花落さんが口を開く。
「俺たちも、第一発見者が白井さんではないことは分かってます。ですから、まずは落ち着いてください」
「え? ああ……そ、そうなんですね……」
安堵と混乱が入り混じって、胸の鼓動がうるさい。
じゃあ、なんで私の名前が出てくるのだろう。
そんなぐちゃぐちゃな思考の中で、御子神さんが一枚の写真を机に置いた。
私の視線は、その写真に吸い込まれる。
「白井さん、この女性に見覚えはありますか?」
御子神さんの声が遠くの方で聞こえた。
背筋を冷たいものが走り、喉が張り付いて上手く呼吸ができない。
机の上に置かれた写真。
そこに写る人物に、私は見覚えがあった。
「――沙耶……?」
唇から漏れた声は震えていた。
そこに写っていたのは間違いなく、私の妹である”白井沙耶”だった。
どんなに背伸びをしても、どんなに化粧をしていても、幼い頃から一緒に育った妹の顔を見間違える筈がない。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、椅子の背に凭れたくなる程脚に力が入らない。
「ご存じなんですね?」
「……はい。妹の沙耶です……」
御子神さんの問い掛けに、私は掠れた声で返す。
「……もしかして、妹が、第一発見者なんですか……」
「この方が妹さんということなら、そうなります」
淡々とした御子神さんの言葉が、耳の奥へ落ちていく。
沙耶が――第一発見者?
あの子はそんなこと一言も言ってなかった。確かに先週、何度か帰りが遅くて気になってはいたけれど、まさか事件に関わっていただなんて、知らなかった。
昨日だって、普通に家で過ごしていたのに。
「……なんで、沙耶が……」
そう呟いた声は自分のものでないみたいだった。




