第九話 それは小さな歪み
「た、たす……助けて……っ!」
直後、前方の裏路地から若い女が飛び出してきた。
見るからに風俗嬢のような装いの女は、パニック状態のまま進行方向に立っていた俺へ勢いよくぶつかってくる。
「わっ……!? だ、大丈夫ですか?」
驚きつつも肩を掴んで支えると、女は息を荒くし、涙と汗とで顔をぐしゃぐしゃにしながら縋りついてきた。
完全に錯乱している様子で、支離滅裂な言葉を繰り返しながら、必死に何かを伝えようとしている。
「や、やだ……! 私、急に……何もしてないのにっ!」
「落ち着いてください。何があったんですか」
「……私は何もしてなくてっ! でも、急に、動かなくなって……」
女は震える手で後ろの路地を指差しながら言う。
「塚野、さんが……、ひとが……っ! し、死んでるのっ!」
御子神さんは一瞬で表情を引き締め、俺に短く指示を寄越した。
「栗花落君、その子のことお願いできる?」
「はい!」
女は腰が抜けてしまっているのか、手を離せばその場に崩れ落ちそうだった。
彼女を支えながら、俺は裏路地へ向かう御子神さんの背中を見送る。
<ただ事ではなさそうだな。儂も様子を見てこよう。お主はここで女を見ておれ>
玄は軽やかに肩から降りると、御子神さんの後を追って路地へと消えた。
「大丈夫ですからね」
俺は女の背に手を添えて、なるべく落ち着いた声で言う。
女は何度も何度も首を縦に振っては、しゃくり上げる呼吸を整えようとしていた。
***
栗花落君に女を任せて路地に入ると、湿ったゴミの匂いが漂ってきた。街灯はあるが、薄暗い通りだ。
俺はゆっくりと、通路の先へと視線を移す。
暗がりでもそれはハッキリと見えた。
――また、か。
心の中で呟く。
路地には、女が言うように遺体が横たわっていた。
しかし、ただの遺体ではない。
皮膚は土色に乾き切り、骨格がはっきり浮かび上がっている。厚みを失くした服の裾からは、もぞもぞと黒い掌ほどの蜘蛛が数匹這い出し、膨れ上がった腹は不気味に脈動していた。
「……群蜘蛛」
栗花落君と玄が視たと言っていた怪異。
群蜘蛛はこちらを一瞥すると、素早い動きでビルの影へと消えていく。
これで三件目。
一課の方では、未だに事件解決の糸口は見つけられていない。その状況で、また遺体が出たとなると――いよいよ捜査権は特案に渡る筈だ。
<ふむ。やはり、群蜘蛛か>
静かな路地に、朗々とした声が響く。
振り向くと、髭を靡かせる玄の姿があった。
「何しに来たんだよ」
<こちらの方が面白そうだからな>
そう言って俺の肩に飛び乗る。
<また随分と景気よく吸われておるな>
「状況からして、一瞬で吸い尽くされたんだろ。異常だよ」
<余程、腹を空かしていたのか>
早いところ例の風俗店を見つけたいところであるが、来週の土曜日まで待たねばならない。
何とも歯痒い状況だ。
「仮にそうだとして、何でそんなに腹を空かしているのかが分からない」
<腹が減るのに理屈などあるものか>
「それはお前の場合、な」
鼻で笑ってやると、分かり易く機嫌を損ねる玄。この駄龍は挑発に弱すぎる。
とにもかくにも、遺体をこのままにはしておけない。
非常に気が進まないが、応援を寄越すように、俺は署へ一報を入れた。
「異動早々にこんな事件の担当になるなんて、栗花落君は持ってるね」
<そもそも、お主の下につかされるとは憐れよな>
琥珀色の瞳を細めながら玄が笑う。
その表情は憎たらしいが、激務になるという意味では、栗花落君は可哀想かもしれないな、とは思った。
異動してから数日、彼は不平不満一つなく働いている。
真面目な性格故なのか、それとも無理をしているのか――表面上からは読み取れない。
けれど、彼と仕事をしていて、どうにも無視できない違和感があった。
「なあ、玄。栗花落君のこと、どう思う?」
思わず目の前の怪異に問い掛ける。
初日から栗花落君に絡んでいるこいつも、俺と同じような違和感に気が付いているのかもしれないと、そんな思いでの問い掛けだ。
<急に何だ>
「いいから」
<……むう。真面目で詰まらん奴。実に面白味がない――という話をしたいわけじゃなさそうだな>
俺の顔色を読んだのか、玄は暫し考え込んだ後、口を開いた。
<そうさな……。感情というのは、生きる上で重要なものだ。外や内からの刺激を受けて、物事の良し悪しを判断し、快、不快などを体に伝える反応だからな。しかし、あやつはそれが他の人間よりも希薄――と儂は感じた。特に亡骸を見た時などは、顕著であったな>
人間の遺体を目の当たりにした時、大抵の人間であるならば、何かしらの感情を示す。
だが、あの時の栗花落君は、驚くほどに冷静であった。玄が言いたいのはそういうことらしい。
「それは俺も思ったよ」
<まあ、ただの性格かもしれんがな。そういう人間も居るであろう?>
「居るっちゃ居るけど。栗花落君の場合は、何か少し違うような気がするんだよねぇ」
それが何であるか、言語化するのは難しい。
ただ、単に感情が希薄、という枠に納めていいようなものではない気がしていた。
とは言え、それが仕事の支障になるわけでもない。今は目の前の事件を片付けるのみである。




