第八話 含んだ酒は苦さを残して
土曜の夜、蓮原の繁華街は相も変わらず賑わっていた。
金曜日よりも浮かれた空気が街を満たし、酔いの回った声と笑いが入り乱れている。
そんな街の様子とは相反して、目的の店『Drip』の周りは奇妙な程に静かだった。先日訪れた時と同じく、その寂れた佇まいは変わりない。
「さて、ちゃちゃっと終わらせちゃいますかね」
御子神さんは軽くネクタイを緩めながら言う。
<こんな所でまともな酒が出るとは思えんな>
「外見に金を出さないで、酒に金を掛けている可能性もある」
<なるほど、そういう商いの仕方もある、か>
「二人とも、仕事なの忘れないでくださいよ」
「とは言え、常連でもない店で酒を飲まずに情報収集とはいかないよ、栗花落君」
「……そうですけど」
どう考えても酒目的な顔をしているじゃないか……。そんなことを思いながら、俺は扉を押し開けた。
扉の隙間から薄暗い店内の空気が流れ込む。煙草とアルコール、そして古びた木の香りが混じったような独特の匂いが鼻を掠めた。
照明は暗く、壁際には無造作に並べられたボトルと、使い古されたカウンター。
テーブル席には二、三人の客がいたが、誰もこちらを気にする様子はない。
<客の入りは悪くないな。だが、雰囲気が下卑ておる>
誰も聞こえないのをいいことに、玄が鼻を鳴らしながら周囲に視線を巡らす。
入り口近くのスタッフを呼ぶと、カウンター席に促された。
御子神さんはそのまま腰を下ろし、自然な動作でバーテンダーを呼んだ。黒いTシャツにエプロンをした中年の男が、拭きかけのグラスを手に近寄ってくる。
「とりあえず、俺はゴッドファーザーで。君はどうする?」
「あ、えっと……」
酒は飲んでもビールか格安ハイボールな俺にとって、バーなどで何を頼めばいいか分かる筈もない。どうしようかと戸惑っていると、御子神さんが顔をずいと近づけてきた。
「普段は何飲んでるの?」
「……ハイボールとか、ですかね……」
「じゃあ、ハイボールにしようか。強いのも平気?」
「はい、それなりには飲めます」
「了解――おすすめのジャパニーズで、ハイボールを」
俺たちの注文を聞き終えると、バーテンダーが無言で壁のボトルを取り出す。
「栗花落君ってバーとか来ないの?」
「学生時代は居酒屋ばっかりだったので、こういう場所で酒を飲むのは初めてです」
「大学生なんて遊びたい盛りだと思ってたけど、違うんだ」
「そういう人もいますけど、俺は彼女から行かないようにと言われてまして……」
「え、彼女いるの?」
御子神さんが驚いたように目を見開く。その反応は、意味合いによっては凄く失礼な反応ではなかろうか。
「……いちゃ悪いですか」
「別に悪いとまでは言ってないよ。真面目で女受け良さそうだしね。彼女くらいいるか」
「言い方……。そういう御子神さんはどうなんですか」
俺ばかり聞かれるのも癪なので、思い切って切り返す。
「俺は――」
<こやつは一人の女子に尽くすことができない軽薄な男でな。夜な夜な遊び歩いては、数多の女子を泣かせていると、村上が言っておったぞ>
御子神さんが物凄い形相で玄を睨み付ける。
場所が場所だけに、流石に言い返すことはできないようだった。
そんな状況で勝ち誇ったように胸を張る玄に、溜息を吐きながら御子神さんは言葉を続けた。
「俺はそういうのは作らない主義なの」
「……へえ」
「縛られるのは嫌だし、遊んでるくらいが丁度いいんだって。あと、別に泣かせてないからね」
氷の音がカランと鳴り、タイミングを見計らったように、バーテンダーがそっとグラスを差し出す。
淡い琥珀色の液体から、炭酸の細やかな泡が立ち上っていた。
「――お待たせしました」
その静かな声に、俺たちは同時に会話を切った。
バーテンダーからハイボールについての説明を受けたが――よく分からない。酒好きな人だったら、会話が盛り上がるのだろうか。
適当に相槌を打ちながら、俺はグラスに視線を落とした。
「…………」
そんな俺を他所に、御子神さんは早速グラスに口を付けていた。
「栗花落君、飲まないの? そこら辺の安酒とは違うから、飲んでみなって」
「……言われなくても飲みますよ」
にやにやと酒を進める御子神さんに、俺は一口だけハイボールを含んだ。
普段、居酒屋で飲むようなものとは違い、一気に口の中に香りが広がる。正直、旨いと思った。
「ね、旨いでしょ?」
御子神さんはグラスを回しながら、上機嫌に言った。
<おい、儂にも飲ませろ>
肩の上でグラスに舌を伸ばす玄を避けるようにしてカウンターにグラスを置くと、見るからに不貞腐れた様子でそっぽを向いてしまった。文句を言わないところ、仕事を邪魔するつもりはないらしい。
髭を垂らしたしょぼくれた顔を見ていると、若干の申し訳なさを覚える。
「――お客さん、初めて見る顔だね。この店は常連ばかりだから、珍しいよ」
カウンターの奥でグラスを拭いていたバーテンダーが、こちらに視線を寄越しながら言った。
「知人に教えてもらったんだ。隠れ家っぽくていいってさ」
「そうかい」
「それに――ここに来れば、いい店を紹介してもらえるって話も聞いてさ」
ピクリ、
バーテンダーの表情が僅かに動く。
俺が気付くくらいだ。御子神さんも言うまでもなく、彼の表情の変化を見逃すわけがない。
そのまま畳みかけるようにして続ける。
「別に店に迷惑をかけるつもりはないから。ただ――“紹介してくれる人”と話がしたくてさ」
「…………」
「会員制の店。ここに来れば紹介してもらえるって聞いてるんだけど」
御子神さんの言葉に、バーテンダーはグラスを置いて、低く呟いた。
「……あの人、今日は来てないよ」
「来てない?」
俺が首を傾げると、バーテンダーは小さく息を吐いた。
「いつもならこの時間には来る筈なんだけどね。今日は来てない。毎週来るわけでもないから、今日は”外れ”なんじゃない?」
「外れねぇ」
「言っとくが、店のことについて俺は何も知らないよ。知りたくもない。ただ、ここを貸してるだけ。金払いはいい奴だからね」
明確な線引き。
叩けば埃は出るかもしれないが、バーテンダーの表情からは言葉の真偽は読み取れない。
御子神さんは軽く笑い、グラスを傾ける。
「そうか。残念だなあ。今日話ができれば良かったんだけどさ」
「来週にしな」
「ちなみに、仲介人ってどんな人なの? 見た目とかさ」
「無口な奴、かな。まあ、店に来れば直ぐに分かるよ。”口の端にでっかい傷”があるから」
「へえ」
「……場所を貸している俺が言うのも何だけど。正直、ああいう人らに関わるのはおすすめしないよ。若いなら尚更」
「と言うと?」
バーテンダーはこちらに顔を近づけ、声を落とす。
「……実際のところは分からないが、犯罪すれすれの店って噂もある。危ない橋を渡りたくなかったらやめときな」
「なるほどねえ」
「ま、今日は無理だ。それ飲んだら帰んな」
きっぱりと言い切られ、御子神さんは肩を竦める。
<進展はなし、か。お主ら、酒を飲んだだけじゃないか>
未だに不貞腐れているのか、吐き捨てるように玄が呟いた。
バーテンダーとの会話は打ち切られ、俺たちはそれ以上踏み込めず、静かにグラスを空けた。
「――じゃ、今日は解散しよっか」
御子神さんが立ち上がる。
俺もグラスを置き、会計を済ませて店を出た。
扉を押し開けると、湿った夜風が肌を撫でる。
酔客のざわめきが遠くで渦巻いているのに、この店の前だけ妙に静かだ。
<無駄足だったな>
玄が肩の上で尾を揺らす。
「いや、無駄ってわけでもないさ。仲介人は実在して、土曜日に来るというのが分かった。次は”当たりの日”を狙えばいいってこと」
「……来週も来るんですか?」
「当然」
軽い調子で御子神さんは言うが、少し胃の辺りが痛む。
相手はおそらく違法風俗の仲介人――近付き方を誤れば危険は充分あり得る。
「栗花落君、そんな顔しないの。俺がいるから大丈夫だって」
<それが一番の不安要素なのだがな>
「……何か言った?」
<……何も、>
にこやかに笑う御子神さんに、玄は大人しく口を閉ざす。笑っているようで、威圧感が凄い。
「――とりあえず、今日は一旦戻ろうか。帰ったら報告書書かなきゃ」
「……そこそこ飲んでましたけど、仕事できるんですか」
「あれくらいじゃ酔わないよ。素面と変わんないから問題なし」
<……こやつは怪異も驚く酒豪故、気にするだけ無駄だぞ>
言われてみれば、顔色一つ変わってないなと、御子神さんの顔を見た。
改めて見ると、すっとした鼻筋にぱっちりとした目、長い睫毛に薄い唇――俳優と言われれば納得してしまうくらいには整った顔である。女遊びをしていると言われても、逆にそれが箔にさえ思えてしまう。
「栗花落君、そんなに見詰められたら困っちゃうよ~」
「……見詰めてないですよ」
「またまたぁ~」
御子神さんが悪戯っぽく笑う。
確かにまじまじ見てはいたけれども、指摘されると否定したくなるもので。
「いや、本当に、見詰めてないですから……」
<こやつの茶番にいちいち反応してたら夜が明ける。無視しろ、無視>
玄が溜息混じりに呟いた。
――その時だった。
近くから甲高い悲鳴が、空気を裂くように響く。




