第一話 厄介事は突然に
陽射しがないとは言え、八月の夜は茹だるような暑さだ。
息苦しい湿気が纏わりつき、不快感が全身を包む。汗をかいた肌に、ワイシャツが張り付いて気持ちが悪い。
俺と真田さんはそんな蒸した空気の中、蓮原駅から少し離れた繁華街の裏路地を歩いていた。
仕事終わりに飲み屋へ――というシチュエーションだったらどんなに良かったことか。非常に残念なことに、繁華街を訪れた理由は、単なる仕事、である。
“人が倒れている”と、通報があったのだ。
内容からして一大事のように思えるが、蓮原ではよくある通報内容。
大抵は泥酔して意識を飛ばした奴。もしくは、飲みの最中に乱闘になった結果、路地に放置された可哀想な酔っ払い――である。とはいえ、酔った延長で犯罪が起こる可能性もある。刑事である以上、市民の皆様の安全を第一に考えねばなるまい。そうして、今宵も俺たちが駆り出されたわけだ。
今回はどんな酔っ払いが引き起こした事件だろうなんて、ぼんやり考えながら雑居ビルの隙間みたいな細い路地に入った。
ビルから漏れる灯りを頼りに、そのまま奥へと進む。
「なあ、植木。お前、夏のボーナス何に使った?」
「え、ボーナスですか? 新しい空気清浄機買いましたよ、高いやつ」
真田さんが世間話を俺に振る時は、愚痴りたい時、と相場は決まっている。
きっと、この後に続く話は、家庭の愚痴だ。間違いない。
「俺なんか半分は娘の塾代だよ。残りは女房の機嫌取り」
予想通り――例にも漏れず、真田さんは語り出す。
「新しくできたケーキ屋のケーキが食べたいだの……。知ってるか? 駅前にできたケーキ屋。馬鹿みたいに高いんだぞ」
「あそこってそんなに高い店なんです?」
「コンビニの三倍はする」
「真田さん、コンビニと比べるの良くないと思いますよ……。そういえば、今回のボーナスで小遣いの金額って増えたんですか? この前は月五千円とか言ってましたよね」
「増えるわけねえだろ。相変わらず、煙草も買えねえよ」
真田さんはわざとらしく悲壮感の籠った声で嘆く。
「完全に尻に敷かれてますね」
「お前も結婚したらそうなるんだよ」
「結婚かあ……まだまだ、先の話ですね」
「何言ってんだ。お前も今年で二十八だろ。そろそろ将来のこと、考え始める時期じゃねえか」
「そうかもしれないですけど、この仕事してたら出会いとかないじゃないですか。特に刑事課に居ると忙しすぎて、そこまで頭が回りませんって。真田さんみたいに、学生の頃からの付き合いとかがなければ」
「……同僚とかに居ねえのか」
「同僚と付き合ったら、破局したとき働き難くて嫌ですね。俺は暫く独身貫くので、ご心配なく」
俺がそう笑うと、真田さんは気まずそうに苦笑いを返した。
今は自分の世話をするので精一杯。他人にまで割く余裕はない。
そんな俺からしたら、妻子を持つ真田さんは尊敬に値する。
「――で、通報内容は……”人が倒れている”だったか?」
「はい。酔っ払いか――今の時期なら熱中症の可能性もありますかね」
「今日も暑いもんなぁ……」
真田さんは首筋の汗を拭いながら、手に持った懐中電灯のスイッチを入れた。
白い光が、裏路地の壁を舐めるように動く。
道の奥は、大通りの喧騒とはうって変わって、不気味なほど静かだ。
「――なんだか、やけに静かですね」
俺がそう言うと、真田さんは小さく鼻を鳴らした。
「こんなところ、滅多に来る奴なんていねえだろ。店もないんだから」
「まあ、そうですね」
足元に転がっていた空き缶を避け、狭い通路を進む。
暑さにうんざりしながら歩いていると、先の方に、何かが横たわっているのが見えた。
「居ましたね。通報者は――居ないっぽいですけど……」
「……厄介事に関わりたくはねえって連中は多いからな。俺らとしては困るんだが」
真田さんが懐中電灯の光を、人であろう影に向ける。
その瞬間、俺の喉がひゅっと鳴った。
衣服から覗く手足は骨ばっており、皮膚は肌色ではなく土色に近いように思えた。
「……酔っ払い、ではないですね」
「そうだな」
真田さんの声が低くなる。
俺たちは足早に近付き、地面に転がる人物をまじまじと確認した。
顔の皮膚は縮み、唇は張り付いている。
眼窩は窪み、そこに本来ある筈の瞳はなく、ただの空洞になっていた。
それは全身から水分を奪われたミイラのような――遺体だった。
「救急呼んどけ。……いや、もう遅いな」
「どう見ても死んでますよね……でも、これ……」
「おい、こんなの見たことあるか?」
「……ないですけど、博物館で似たようなものは見たことあります、かね。あの、ファラオでしたっけ?」
「こんな時にふざけたこと言ってんじゃねえ」
別にふざけたつもりはなかったのだが……。
湿度の高い八月の夜だというのに、遺体の周囲だけは妙に空気が軽く、乾いている。
さっきまで纏わりついていた熱気が、そこだけ抜け落ちているように感じた。
見ただけで分かる。これは厄介な事件になりそうだ。
推敲って永遠に終わりませんね。せっかくストックしているのに、上げる前に読み返すと悶え苦しんでしまう。
次回はまた来週末になりそうです。




