裏切りの決断
砦の跡での、束の間の静寂。
それは、灰の街で生きてきた白にとっても、鬼の秩序の執行者として生きてきた黎にとっても、初めて経験する「異質な時間」だった。
追われる者と追う者が、同じ空間で傷を癒し、同じ黄昏の光を見ている。
ありえない状況だった。
「……なぜ、王は『鍵』を求めるの」
先に沈黙を破ったのは、白だった。
自分の腕に、破いた服の布をきつく巻き付けながら、彼女は黎に問うた。
「あなたは、王の特命で私を追ってきた。私は『贄』なんでしょう? 私の血が、世界を終わらせるために必要だって……」
黎は、脇腹の傷を押さえたまま、壁に背を預けていた。
その凍てついた瞳が、白の言葉によって、さらに深く揺らぐ。
「…………」
「紅蓮王は、何がしたいの。人間を滅ぼして、この世界を『完全な静寂の闇』にするって……そんなの、ただの破壊じゃない」
「……破壊、か」
黎は、自嘲するように呟いた。
「お前には、そう見えるだろうな」
黎は、目を閉じた。
白という「鍵」の存在に触れ、共鳴し、ひび割れた記憶のダムから、封じられていた「真実」が溢れ出そうとしていた。
「……紅蓮王様は、かつて人間だった」
「——え?」
白は、思わず息を呑んだ。
「鬼は、もともと人の怨念から生まれた影の種族。だが、王は違う」
黎の声は、熱を失い、遠い過去を語る者のそれになっていた。
「彼は、人間が人間を狩り、鬼が鬼を狩る、血塗られた時代に生きていた、人間の将軍だった」
「誰よりも人間を愛し、守ろうとした。……だが、裏切られた」
黎の脳裏に、彼自身が王の血を通して垣間見た「記憶」が蘇る。
——燃え盛る城。信じていた部下たちの刃。愛した者たちが、目の前で鬼に喰われていく地獄。
「彼は、人間の『欲望』と『裏切り』に絶望した。そして、鬼の憎しみと、彼自身の憎しみが融合した時……彼は、最強の鬼として生まれ変わった」
「……」
「王は、この世界を憎んでいるんじゃない。人にも、鬼にも、等しく絶望しているんだ」
「人が鬼を狩り、鬼が人を喰らう。その愚かな輪廻を、『今度こそ終わらせる』」
黎は、目を開けた。その瞳には、紅蓮王の「悲哀」が宿っていた。
「王が求めるのは、破壊ではない。『完全な静寂』だ。もう誰も傷つかず、誰も裏切らない、永遠の無。……そのために、貴様の『人と鬼の融合した血』が、最後の贄として必要なんだ」
白は、言葉を失った。
自分は、ただ憎しみから逃げてきた。だが、王は、その憎しみの果てを見ようとしていた。
「……だから、私は『贄』になるしかないって言うの」
白の金色の瞳から、光が消えていく。
「あなたは、その『王の悲願』のために、私を捕まえに来た」
「私の父さんも母さんも、その『輪廻』のせいで死んだ」
「結局、私の血は、世界を終わらせるための『呪い』でしかないってことじゃない……!」
絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。
いや、夢など最初からなかった。
「黎明圏」も、「明けない夜はない」という母の歌も、すべてお伽話。
現実は、この「贄」という結末だけ。
「あ……」
白の喉から、乾いた声が漏れた。
(もう、嫌だ)
(人間も、鬼も)
(こんな世界も、私自身も)
「——もう、いい」
白の全身から、再びあの「闇」の力が溢れ出した。
第4章の時よりも、さらに濃く、冷たい絶望の力。
「う……あああああああっ!」
ゴゴゴゴゴ……!
白の絶望に呼応し、砦の跡が激しく揺れ始める。
石室の天井から、岩が崩れ落ちてきた。
「……また、これか!」
黎は、負傷した脇腹を押さえながら立ち上がった。
白の鬼の力が、彼女自身の絶望によって、完全に制御を失っている。
「やめて……!もう、私に触らないで!」
「私なんか、消えてなくなればいい!」
白は、闇の中心で泣き叫んでいた。
金色の瞳は、濁った黒に染まりかけている。
(……まずい。このままでは、精神が闇に喰われる)
(王の命令は「生きたまま」だ。この暴走を止めねば)
黎は、剣に手をかけた。
王の血を受けた半鬼の力で、彼女を打ち据え、気絶させる。それが「任務」として正しい。
だが。
目の前で泣き叫ぶ少女の姿が、黎の脳裏に焼き付いた「あの日の記憶」と、完全に重なった。
——炎の中、絶望に泣き崩れる、幼い少女。
——その手を、必死で掴んだ、少年だった頃の自分。
『——生きろ!走れ!』
(……そうだ。俺は……)
(この手を、一度……)
「——副隊長!」
外から、黎を探しに来た「黒の眸」の部下の声がした。
「その娘を発見!抵抗するなら、殺……」
「——黙れ!!」
黎が、王の部下であるはずの同胞に対し、初めて「鬼」としての殺気を放った。
部下たちが、その凄まじい圧に息を呑む。
黎は、剣から手を離した。
王の命令ではない。
紅蓮王の血でもない。
彼自身の「魂」が、選択した。
「……うるさい」
黎は、崩れ落ちる瓦礫の中、暴走する闇の奔流に、傷ついた体で一歩踏み出した。
「な……に……?」
白が、闇に染まった瞳で黎を睨む。
「そんな力で、世界が消せると思っているのか」
黎は、冷たく言い放った。
だが、その声は微かに震えていた。
「あ……」
黎は、闇の触手を振り払い、白の細い肩を、両手で掴んだ。
そして、傷ついた体ごと、力ずくで彼女を抱きしめた。
「——!?」
闇の力が、黎の体を蝕もうとする。
だが、黎は構わなかった。
「……呪いだと、俺も思っていた」
黎は、白の耳元で、絞り出すように言った。
「この血も、王に封じられた記憶も、すべて呪いだと思っていた」
「だが……貴様が、それを否定すると言うのなら」
「……俺の前で、勝手に消えようとするな」
温かい。
白が、灰色の街で生きてきて、初めて触れる「温もり」だった。
それは、母のものでも、父のものでもない。
自分と同じ「呪い」を抱えた男の、不決めな、痛々しいほどの、温もり。
白の金色の瞳から、黒い濁りが消えていく。
溢れ出していた闇の力が、嵐が過ぎ去るように、ゆっくりと彼女の中へ戻っていった。
「……あ……」
白の全身から力が抜け、黎の腕の中で、彼女はかろうじて立っていた。
砦の揺れも、止まった。
「……副隊長……今のは……」
外で見ていた部下たちが、信じられない光景に動揺している。
黎は、白を抱きしめていた腕をゆっくりと離し、漆黒の装束で、毅然と部下たちに向き直った。
その表情は、もはや「黒の眸」の副隊長ではなかった。
「……聞いた通りだ」
「俺は、王を裏切る」
「なっ……!?」
「黎様!何を!」
「この娘は『鍵』でも『贄』でもない」
黎は、白の前に立ち、彼女を守るように剣を抜いた。
その剣先は、今まで忠誠を誓ってきた「黒の眸」の同胞たちに向けられていた。
「この娘は、白だ」
白は、自分のために剣を構える、その広い背中を見つめていた。
(……この人も、独りだった)
(私と同じ、半鬼)
(でも、今、私のために……)
「……違う」
白は、震える足で一歩踏み出した。
黎が、驚いて振り返る。
「違う……。あなた一人に、裏切らせない」
白は、黎の隣に並び立ち、父の形見の剣を構えた。
まだ体は震えている。だが、その金色の瞳には、もう絶望の色はなかった。
「私も、行く」
「行くって、どこへ……」
「紅蓮王の元へ」
白は、黄昏の空の向こう、燐国の中枢を睨み据えた。
「私は『贄』にはならない」
「王が『輪廻を終わらせる』と言うなら、私は、その先に行く」
「父さんと母さんが願ったように。この血で……」
「この血は、呪いじゃない。人と鬼、どちらの心も——私が繋ぐ!」
その覚悟は、もはや暴走する力ではなく、確かな「意志」の光となっていた。
私の祈りが、誰かの夜を照らすのなら。
この黄昏を、越えてみたい。
黎は、その隣で、ふっと息を吐いた。
それは、彼が「人間」だった頃以来、初めて見せた、微かな「笑み」だった。
「……愚かな。王に会う前に、ここで死ぬぞ」
黎が、目の前の部隊に剣を向け直す。
「だが、いいだろう。貴様のその『答え』が、この黄昏を斬り裂けるというなら」
「黎……」
「俺も行く。俺の『人間』としてのけじめをつけに。そして……」
黎は、白を見た。
「俺が、お前をそこまで連れて行く」
二人の半鬼は、背中を合わせた。
敵として出会った二人が、初めて同じ「目的」のために剣をG構える。
「行くぞ!」
「……うん!」
黎の剣が秩序の闇を切り裂き、白の剣が希望の光を放つ。
黄昏の荒野で、世界を変えるための戦いが、今、始まった。




