結界の境界
白は、どれくらい走っただろうか。
暴走した鬼の力は、彼女の体力を根こそぎ奪い去り、今はもう指一本動かすのも億劫だった。
荒野の岩陰に倒れ込み、浅い呼吸を繰り返す。
(……私、とんでもないことを)
自分の力が、あの「黒の眸」の部隊を吹き飛ばし、大地を腐らせた。
あれは、父が持っていた力。
鬼の「闇」の力だ。
(やっぱり、私は「呪い」の子なんだ……)
人間も、鬼も、等しく破壊する力。
両親が望んだのは、こんなことではなかったはずだ。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。
(もう、疲れた……)
このまま、この黄昏の中で、消えてしまいたい。
その時だった。
ガサリ、と岩の上から砂がこぼれる音がした。
「……!」
白は、残った力を振り絞り、弾き飛ばされたはずの父の剣を掴んだ。
(いつの間にか、拾っていた……)
暴走の中、無意識に回収していたらしい。
「……見つけたぞ、半鬼の娘」
現れたのは、黎ではなかった。
ずんぐりとした体躯に、爬虫類のような硬い皮膚を持つ、二体の「鬼」。
「黒の眸」のような洗練された動きではない。だが、その瞳は純粋な「食欲」と「残虐性」に満ちていた。
燐国の正規軍、下級鬼の巡回部隊だった。
「ひっ……」
白は後ずさった。
もう、力は出ない。
「美味そうな魂の匂いがすると思ったぜ」
「こいつが、王が探しておられる『鍵』か? ならば、俺たちが捕らえれば大手柄だ」
鬼たちが、涎を垂らしながらじりじりと距離を詰めてくる。
(……だめ、もう、動けない)
剣を構える力さえない。
これまでか。
鬼の一体が、白の細い首を掴もうと、鉤爪の腕を振り上げた。
白が、死を覚悟して金色の瞳を固く閉じた——その瞬間。
ザシュッ!
甲高い金属音と共に、鬼の腕が宙を舞った。
「ぎゃっ!?」
「——言ったはずだ。その『鍵』は、俺の獲物だと」
白が目を開けると、そこには、二体の鬼と自分の間に割り込むように立つ、漆黒の装束があった。
黎だった。
その手には、血に濡れた剣が握られている。
「黎……!貴様、なぜ……」
「黒の眸の副隊長が、なぜ我らの邪魔をする!」
鬼たちが、困惑と怒りを露わにする。
黎は、白に背を向けたまま、冷たく言い放った。
「王の特命だ。この娘は、俺が直々に王の御前へ連れていく」
「部外者は、失せろ」
「……ふん、怪しいものだ!」
鬼の一体が、黎の言葉を信じなかった。
「貴様も半鬼。もしや、この娘に同情でもしたか? 裏切りは許さんぞ!」
「ならば、力ずくで排除するまでだ」
黎が、剣を構え直す。
(……助けて、くれた?)
白は、目の前の背中を見つめた。
彼は、自分を捕まえに来たはずだ。
なのに今、自分を守るように、別の鬼と対峙している。
「小賢しいぞ、黎!」
鬼たちが、二方向から同時に黎に襲いかかった。
黎は、一体を即座に斬り伏せるが、もう一体の攻撃が背後から迫る。
(——あぶない!)
白は、ほとんど反射的に動いていた。
残ったすべての力を振り絞り、地面を転がるように移動すると、鬼の足元に父の剣を突き立てた。
「なっ!?」
鬼が体勢を崩す。
その一瞬の隙を、黎は見逃さなかった。
黎の剣が、黄昏の空気を切り裂き、鬼の首を正確に貫いた。
「…………」
「…………」
静寂が戻る。
残ったのは、倒れた二体の鬼の死骸と、肩で息をする白、そして、剣を振るったまま動かない黎だった。
「……なぜ、助けた」
黎が、背を向けたまま、低い声で尋ねた。
「……それは、こっちの台詞」
白は、剣を杖代わりにして、やっとの思いで立ち上がった。
「あなたは……私を捕まえに来たんじゃ……」
「俺は、任務を遂行するだけだ。……だが」
黎は、ゆっくりと振り返った。
その漆黒の装束の脇腹が、わずかに裂け、血が滲んでいた。
先ほどの戦闘で、鬼の鉤爪が掠めていたのだ。
「……あなたも、血が」
「……貴様もだ」
黎が、白の腕を指差す。そこも、岩で擦りむいた生々しい傷ができていた。
二人は、しばし無言で見つめ合った。
追う者と、追われる者。
秩序と、鍵。
なのに今、二人は同じ鬼の血を浴び、同じように傷を負って立っていた。
「……来るぞ。血の匂いに釣られて、本隊が来る」
黎は、先に剣を収めた。
「動けるか」
「……どこへ」
「今は、ここから離れる。近くに、身を隠せる古い砦の跡がある」
黎は、そう言うと、白の返事を待たずに歩き出した。
白は、一瞬ためらった。
この男についていっていいのか。
だが、選択肢はなかった。荒野で一人になれば、次に待っているのは確実な死だ。
白は、よろめきながらも、黎の背中を追った。
砦の跡は、岩肌に半ば埋もれた、小さな空間だった。
かろうじて風をしのげる、冷たい石室。
灰の街で白が使っていた寝床と、どこか似ていた。
二人は、無言で、互いに距離を取って座り込む。
黄昏の赤い光が、狭い入り口から差し込んでいる。
黎は、装束を脱ぎ、脇腹の傷を確かめていた。
それは、鬼の力を持つ彼らにとっては浅い傷だったが、それでも血は止まらない。
彼もまた、王の血を受けたとはいえ、完全な鬼ではないのだ。
白は、自分の腕の傷を見つめた。
「……なぜ」
白が、静寂を破った。
「なぜ、私を助けたの。あのまま、あの鬼たちに私を渡せば、あなたの『任務』は終わったはず」
黎は、傷を押さえる手を止めなかった。
その横顔は、凍てついた仮面が剥がれ落ち、年相応の青年の「苦悩」が滲んでいた。
「…………わからない」
黎の声は、もはや「黒の眸」の副隊長のものではなかった。
「王の命令は絶対だ。貴様を『鍵』として連行する。それが俺の全てだった」
「……だった?」
「貴様の力が暴走した時……」
黎は、言葉を区切った。
「俺の、封じられたはずの『記憶』が、痛んだ。……あの、燃える村の光景が」
「……!」
白の心臓が、大きく跳ねた。
(この人も、あの村を……?)
「俺は、紅蓮王様の血を拝領し、人間だった頃の記憶を捨てた。鬼の秩序のためだけに生きると誓った」
黎は、自嘲するように、血が滲んだ手を見つめた。
「だが、貴様の金色の瞳を見るたびに、貴様のあの『叫び』を聞くたびに、俺の中の『人間』が、秩序を乱す」
黎は、初めて白を真っ直ぐに見た。
「貴様は、何者だ。なぜ、これほど俺の心を揺さぶる」
白は、その凍えるような瞳の奥にある「孤独」を見た。
それは、灰の街で、誰からも拒絶されて生きてきた自分と、同じ色をしていた。
「……私も、わからない」
白は、震える声で答えた。
「私も、鬼と人の間で、ずっと独りだった」
「人間からは鬼の子と、鬼からは出来損ないと」
「でも……」
白は、父の剣を強く握りしめた。
「でも、これだけはわかる。私は、呪いじゃない」
「父さんと母さんが、命をかけて遺してくれた。だから……」
「私は、どちらの血も、否定しない」
その言葉は、黎の胸に、剣となって突き刺さった。
(……どちらも、否定しない、だと?)
自分は、人間であった過去を「否定」することで、鬼の執行者としての力を得た。
だが、目の前の少女は、その両方を抱えたまま、立とうとしている。
「……愚かな」
黎は、そう吐き捨てた。
だが、その声には、いつもの冷徹さは微塵もなかった。
それは、羨望か、あるいは、忘れていた「希望」の欠片に触れてしまったことへの、戸惑いだった。
黄昏の光が、石室に差し込む。
二人の半鬼は、互いの傷を見つめながら、初めて、同じ「痛み」を共有していた。




